応答性と応責性

 

気がついたら秋真っ盛り。こちらは仕事真っ盛り

先週の土日は、多忙に睡眠不足に温度変化が重なって、とうとう風邪を引いてしまった。偶然にも日曜日の予定がなかったので、一日寝ていたら、何とか復活。月曜日の午前中まで横になっていたが、午後からは県の仕事小論文対策の授業、火曜は一日授業に学生対応、水曜は3つ授業に5時間強の会議、木曜日は授業が終わって夜は会議、金曜は9時から5時までのロングラン研修打ち上げ、と、文字通りの「目まぐるしさ」。今日明日は原稿執筆のために時間を取っておいたのだが、さすがに午前中は二度寝する。それくらいしないと、来週もえげつない日程なので持たない。シャツのボタンを付けたり、植木鉢の植え替えをしたり、と人間らしい仕事をしているうちに、ようやくリラックスしてきた。あたまが柔らかくなってきたので、「そういえば」と先週末に読んだ本を読み直す。

「僕は書きながらものを考える。考えたことを文章にするのではなく、文章を作りながらものを考える。書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって、思索を深めていく。しかしどれだけ文章を連ねても結論が出ない、どれだけ書き直しても目的に到達できない、ということはもちろんある。たとえば-今がそうだ。そういうときにはただ仮説をいくつか提出するしかない。あるいは疑問そのものを次々にパラフレーズしていくしかない。あるいはその疑問の持つ構造を、何かほかのものに構造的に類比してしまうか。」(村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」文藝春秋、p163

「書くという作業を通して思考を形成していく」というのは、僕自身も全く同じだ。しかも、思慮が浅い僕の場合は、なかなか「目的に到達できない」ことも多い。その際、僕らが出来ることは、ムラカミさんが言うように、「仮説」を提示するか、疑問を「パラフレーズ」する、あるいは疑問の構造を「類比」すること。「仮説」にしても、言い換え(パラフレーズ)にしても、構造類比にしても、「問い」への何らかのレスポンスという意味では共通している。「わかりません」と安易に口にせず、何らかの形でその問いへの「応責性=説明責任」(accountability)を引き受けようとする。この姿勢こそ、「思考」を引き受ける姿勢だと思う。

ここ最近、仕事上の責任が増えてくるが、その際、単に対象に対する責任を全うするという意味での「応答性」、だけでは済まされない事態が増えている。自分のとった行動の影響に対する責任が伴ったり、その行動に対して説明することや批判を受けることも厭わない、という意味での「応責性」も、全うしなければならない事態に直面するのである。自身の行いには誰だって「応答性」があるのは当たり前だが、その波及効果も含めた「応責性」を引き受けるのは、正直、結構しんどいものである。しかしながら、公的性格を帯びた仕事であればあるほど、この「応責性」が重くのしかかってくる。そのような、結果責任に対して「わかりません」といえない事態だからこそ、「目的に到達できない」場合でも、せめて「仮説」を提示する、それが無理でもパラフレーズや構造類比など、一歩でも半歩でも歩みを進める、という姿勢が求められるのだ。

この際、感情的にグラグラしていては、何も始まらない。悩ましいのは山々だが、持てる選択肢についてきちんと考えた上で、決断し、歩を前に進めなければならないのだ。書きながら考える、という営みと同様に、活動しながら考える、ぶつかりながら考える、という姿勢でないと、事態は打開されない。ゆえに、しんどくても、風邪を引くほど弱ることがあっても、這ってでも、「思考」を引き受ける有責性が自分にはあるのだ。何とも因果な人生。ま、それを引き受けたのが他ならぬ自分自身なので、仕方ないのだが。さてはて、明日も〆切とドタバタ格闘の予定。匍匐前進でも、ちょっとは進めるはずである。なかなか簡単に「結論が出ない」が、まあよりよい「仮説」を求めて、漕ぎ出すとするか。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。