器量を構成する三要素

 

ブログが10日間も空いてしまった。この間、チェックして頂いた方がおられたとしたら、すいません。通常1週間以上空くブログは、読者が離れる、と言われているのですが、なんだかここしばらく、文字通り「忙殺」されていて、更新が出来なかったのです。(その割に他人のブログはちらと覗いているのだが)

このブログは単なる備忘録で終わるのはつまらなくて、ない頭を振り絞って+αを付け足そうとするのだが、そのためには1時間弱、というまとまった時間が必要で、そのまとまった時間が全く取れない日々が続いている。今日はパートナーが夕方車を使うので、早めに帰ることがようやっと出来た。なので、先週末の出張で遅まきながら買ってみたipodに入れるためのCDをインポートしながら、久しぶりにスルメと向き合う余裕が出来た。

そう、先週末は久しぶりに大阪に出張し、もともとのフィールドである精神障害者関連の現場の方々と議論や交歓する時間を持つことが出来た。やはり古巣は大切だ。ここしばらく、山梨の地域福祉の問題にグッと入り込んでいて、今年中に色々な新規事業が県・市町村レベルで立ち上がっていくお手伝いをすることに奔走されているものだから、なかなか当事者や支援者の方々の本音と向き合う時間がない。そういう状況だったから、大阪と神戸の現場の方々との議論の中で、改めて自立支援法の問題や社会保障制度改革全体の論点などを確認することが出来た。

現場のリアリティから離れたままでは、研究者のすることが「机上の空論」になってしまう危険性が高い。とはいえ、教育現場も現場だし、行政の現場もまた別の現場。つまり、自分が関わる色んな分野をバランスよく渡り歩きながら、螺旋階段的に上っていかなければならない。その渡り歩く分野が限定されている間はそれも難なく出来たのだが、その範囲や深度が広く深くなればなるほど、一つ一つの現場が「おざなり」で「いい加減」になる可能性がある。既にその兆しも見えていて、だから尚更、自身の器が問われているのだな、と感じるのだ。先週末の出張の帰りの車中で、それにピッタリの文言と出会っていたので、その感じがより深まっている。

「『あの人は器量が大きい』とか、『彼には器量がないから』といった表現を日常的によく聞く。その器量とは、何だろうか。私は、三つのものから器量は構成されているように思う。
(1)考えることのスケールの大きさと深さ
(2)異質な人を受け入れる度量
(3)想定外の出来事を呑み込む力」
(伊丹敬之『経営を見る眼』東洋経済新報社 p113-114)

以前にも丹氏の「創造的論文の書き方」を引いたことがあるが、氏の経営学のエッセンスが詰まっている入門書的な本書を読んでいて、目から鱗、の部分がたくさんあった。特に、この器量の部分に関しては、まさに今、自分自身が問われている3つのポイントと見事に重なるが故に、揺れる車中で実にあれこれ考えるきっかけを与えて頂いた。そういえば大阪の現場で再会した奈良のKさんも、「高血圧の人は揺れる車内で本を読む方が、頭が沈静化されて考えやすい」って言っていたっけ。どうりで僕も電車内でしかまともに勉強できないわけだ!? ま、そんな戯れ言はおいといて、伊丹氏はこの3つの内容を、次のようにパラフレーズもしている。

「第一の要件は、思考のパターンである。日頃から大きく深く考えるから、その人は『大きく、深い人物だ』と思える。周りの人には思いもつかない範囲まで考えたり、徹底的に考えたりしているから、みんなが納得する意見を言えるようになる。(略)第二の要件は、対人関係のパターンである。自分とは違うタイプの人を斥けない。どんな人かよくわからない段階でもまず前向きに信じてみようとする。そうした対人関係のパターンを持っていると、他人はその人に近づきやすくなるだろう。(略)第三の要件は、さまざまに自分の周りで起きてくる出来事への対処のパターンである。想定外の事が起きてしまうのは、世の常である。そのときに、うろたえずに落ち着いて的確な対応ができるかどうかで、その人の器量のかなりは決まる。想定外の出来事を呑み込むとは、まずその出来事を自分なりに大きな地図の中に位置づけることである。自分の置かれた位置がわからなければ、適切な対応の考えようがない。そしてさらに呑み込むとは、位置づけた後の事後処理をきちんとできるということである。その事後処理能力があれば、じつは事前にさまざまな出来事が起きても何とかなる、と思えるだろう。」(同上、p114-115)

ここしばらく、何故にブログを全く更新する余裕がないほど「忙殺」状態だったのか? それはまさに伊丹氏の指摘するこの3つの要件で、私自身の器量の臨界点を超えるような日々であったが故だと感じる。様々な問題が同時多発的に生成していく時に、どこまで僕自身が「徹底的に」「大きく深く」考えるか、が問われる。その際、考えきらずに未成熟な論や考えを開陳すると、思わぬ異論反論も続出する。そういう「想定外の出来事」に、ここしばらく色々遭遇する機会が多いのだが、出会ったショックでついつい「自分の置かれた位置」のマッピングがおろそかになることが少なくない。それゆえ、「事後処理能力」も頼りないから、なかなか「呑み込む」までに至らないケースもある。そういう至らなさを前にして、自信の未熟さが嫌になり、殻に閉じこもろうとするか、あるいは「自分とは違うタイプの人を斥けない」で、異論反論も「まず前向きに信じて」みることが出来るか、で次の展開が違ってくる。僕の数少ない得意な事に「まず前向きに信じ」ることがあるのだが、その基本フレームすら歪んでしまいそうな、そういう弱さと久しぶりに向き合う日々だったのだ。

そして、この人間の弱さに関する至言も、伊丹本の中に鎮座していた。

「人は性善なれども弱し」(同上、p249)

僕も心からこの至言に同意する。研究者として問題はあるかもしれないが、僕は人間を「性悪」として捉えたくない。あの人に言っても仕方ない、という悪口はどんな現場でもよく聞く。確かに「仕方ない」ほどの「前科」があるのかもしれないし、僕自身もその被害に遭っている(and/or今後遭う)かもしれない。でも、そうだからといって、「仕方ない」と決めつけることは、僕の信条としては好きではない。その人が、周りに「仕方ない」と思われてしまうような行動をとる背景には、その人なりの「弱さ」が背後にあることが多い。「どうしょうもない」「わからずや」と言われている人だって、「性善」に産まれたけれど、色々な重なりのなかで、「弱さ」が全面に出てしまい、それをカバーする為に、いつの間にかズルズルと位相が変わってきたのだ。その「弱さ」と「性善」の両方を見ることなく、どちらか一方だけを「過信」することは、実に危険だと思う。そういうことを、たったワンフレーズでサクッと整理している、このエッセイの凝集性はかなり高い。己にそんな文章が書けるか、と言われると、まだまだ年季も知恵も足りない。精進、精進。

大阪で立ち寄ったスターバックスで、カプチーノを入れるコップがもうクリスマス仕様になっていって、恐ろしく早く過ぎゆく日々に唖然とする今日この頃。でも、今年は本当に自分の器の小ささを実感しつつ、その器を広げるために試されている日々である、とも感じる。それほど、これまでに味わってこなかった、「異質な人」にも「想定外の出来事」にも遭遇しえているのだ。その遭遇をチャンスとして「受け入れ」「呑み込む」ことが出来るように、「考えることのスケール」をどう大きく、深くすることが可能か。まあ、これまでこの課題とがっぷり四つで向き合ってこなかったのだから、忙殺されようと、しっかり向き合ってみようかしら。そんな元気を、大阪の現場と伊丹氏の本から注がれた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。