今年もこの時期、帰省中。岡山の山間の街には、ちらほら小雪が舞っている。
今年は帰省渋滞がほとんどなかったので、比較的楽に実家までたどり着く。そして、昨日からご馳走をおよばれしはじめたので、今日はテクテク歩く。身を切る寒さだが、ここで手を抜くとブロイラー状態になってしまう。今日と、明後日くらいは多分散歩に行くことが出来るだろう。暇を見つけて歩いておかねば。
で、今は掘り炬燵でメールチェック。とうとうエアエッジなるものに手をつけてしまったので、こうして山間部でもネットにつながってしまう。いいのだか、悪いのだか。月6000円、と聞いて、それなら仕方ないかな、と契約したのだが、その後、ある友人から「でも年7万2千円なんでしょ?」と言われて、グサッとくる。このエアエッジ君に投資した結果、それほどの価値ある何かが返ってくるのだろうか? 単に無駄遣いに終わるのではないか・・・。ま、ためらっても仕方ないので、せいぜい有効利用するしかない。
さて、今年を総括してみると、何が言えるだろうか? 一言で表現するなら、transformationだろう。といっても、新幹線が変身してロボットになることではない(誰も誤解しないだろうが)。自分自身が大きな変容過程にある、ということだ。
制度政策や福祉現場、支援者に「変わる」ことを求める仕事をしていて、でも自分がそれを突きつけられている事には無自覚だった。しかし、実際に自分が外野からヤジを飛ばしているだけでなく、内野で変革のお手伝いというコーチ役をするようになると、まず真っ先に自分自身の態度・有り様が問われる場面が多くなってきた。変な話だけれど、自分の堅さ・偏狭さ・視野の狭さ、といった内面は、相手とのやりとりでもにじみ出てしまう。まさに、前回のブログでの引用を引くなら、「相手からの返答は自分の接し方へのフィードバック」なのだ。そのフィードバックを相手の真実だと誤解し、ああだこうだと批判しているのは、下手をしたら自分自身に向かってつばを吐いているのと同じになってしまう。あぶない、あぶない。
そこで求められるのは、これも前回の内田先生の引用で行くと、「与えられた状況でのベスト・パフォーマンスは何だろうという技術的で限定的な問題に心身を集中する」ことそのものだ。現状を批判している暇があるのなら、「与えられた状況」をじっくり観察して、相手の理屈もまずは理解した上で、その状況下での「ベスト・パフォーマンス」を模索するしかない。今年、私にとっての最大の変容は、空理空論を叫ぶばかりではなく、この「ベスト・パフォーマンス」の模索を始めたことである。外野から駄目だと叫ぶのではなく、内野から状況を判断した上で、実現可能な変容過程を模索するお手伝いをし始めた、とでも言えようか。そういう部分が、去年までは出来なかったのだが、気がつけばその最前線にいて、求められるようになった。
まあ、タケバタはもともと、こういうブリコラージュ的手法は、案外不得意ではないようだ。
「科学者と器用人(ブリコロール)の相違は、手段と目的に関して、出来事と構造に与える機能が逆になることである。科学者が構造を用いて出来事を作る(世界を変える)のに対し、器用人は出来事を用いて構造を作る。」(レヴィ=ストロース「野生の思考」みすず書房、p29)
構造(=理論)を精緻に学ぶ、という「科学者」としての基本は、大きな声では言えないが、僕には苦手である。だが、現場にあるリアリティ(=出来事)を元に、その地域にあった構造を作るのであれば、何とか出来るかもしれない。
「彼の使う資材の世界は閉じている。そして『もちあわせ』、すなわちそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。」(レヴィ=ストロース「野生の思考」みすず書房、p23)
このゲームの規則自体は変わっていない。だが、昨年までと今年の違いは、気がつけば「もちあわせ」の中身が変わってきているのである。それまでの「もちあわせ」にはなかったものが、今は使えるようになった。それと共に、今までの「もちあわせ」の切り札として使っていたいくつかの手札は、そのまま今の状況で使うと、返って場を壊しかねない状況になっている。そう、ルールは変わっていないのだが、場面が展開(変容)しているのだ。その場面の変容に合わせて、自分をどうトランスフォームしていけるのか? その際、ぶれてはいけない視点、変えてもいい柔軟さ、はどの辺か? ここらの見極めが、来年、自分自身が成長できるのか、の大きな鍵になっている。そんなことが、大晦日に整理していたら、浮かんできた。
さて、さらに熟考すべく、温泉につかって一年の垢を取ってくるとしよう。
では皆様、良いお年を!