久しぶりに心から納得しつつ、深い感慨を持って読んだ文章があった。
「私は他人から私の自立について何か言われると、主体性を否定されるかのような思いを持ってしまうようだ。それが私への善意と愛と思いやりに満ちたものであっても、である。しかも、実際には自分で自立だなんて難しいこと、重いことは少しも考えて生活していないことを隠した上で『放っておいてよ』と言ってのけるわけだからすごくタチが悪い。自立のためにがんばってきた記憶がないのである。しかし、知的障害があると、いや障害があると、四〇代になっても五〇代になっても自立という目標に向かってがんばり続ける人たちが多いことにびっくりしてしまう。問題は誰ががんばることを決め、望んでいるのかである。」(三田優子「知的障害者の自立」『ケアされること-ケア その思想と実践3』岩波書店p112)
実に簡潔にして明瞭である。大概の人は「自立のためにがんばってきた記憶がない」し、他人にとやかく言われると、「それが私への善意と愛と思いやりに満ちたものであっても」、「主体性を否定されるかのような思いを持ってしまう」から「『放っておいてよ』と言ってのける」。僕自身のつたない経験でも、親にとやかく言われるのがとにかく嫌で、よくこの『放っておいてよ』を叫んでいたような気がする。「善意」「愛」「思いやり」があっても、「主体性」が育つ中で、そんなことを言われたくない、という自分独自の視点が育ってくるのだ。多分それが「自立心」なるものだとこれを読みながら思った。
つまり、あくまでもその「自立心」は、個々人の中で芽生え、育まれるものだ。決して誰かに望まれたり、決められたりするものではない。いや、時として「○○からの自立」とは、その対象の○○との愛憎半ばする、しかし○○とは別の私として生きたい、という声明でもあるような気がする。当然その時に、○○の側の思いや願いと、全くずれるとも限らないが、かといって全く一致するとも限らない、そんなものだと思う。
しかし、三田さんが書いているように、「障害があると、四〇代になっても五〇代になっても自立という目標に向かってがんばり続ける人たちが多い」のだ。しかも、その直後に三田さんはグサッと核心をついてくる。「問題は誰ががんばることを決め、望んでいるのかである」と。がんばり続けること周りから強いている現状が、そもそも強いている側(=マジョリティ)の「自立心」とはズレている。もっと端的にいえば、「自分すら出来ないことを障害者に強いている」のである。この欺瞞や問題性を、読みやすい文体とイメージしやすいエピソードを挟みながら、三田さんは私たちの現前に差し出しているのだ。
ちょうど金曜日の苦情解決責任者研修で、支援をするということの権力関係について話をしていたのだが、この文章はまさしくその論点をズバリとついてくる。社会福祉サービスを利用している側にとって、いくら契約制度であれ、「お世話になっている・をしている」という意識はなかなか利用者側も、提供者側もぬぐい去れない。その際、どうしても提供者側から被提供者側への権力関係が生じる。そのことに提供者側が自覚的でない限り、「自分すら出来ないことを障害者に強いている」実情は簡単に生じる。だからこそ、多くの障害当事者が、つらい、悲しい経験を繰り返ししているのだ。
三田さんの文章は、こんな下手くそな評論が吹いて飛ぶくらい、しみじみと感じ入り、読む者に余韻も残す。学生議会で障害者のことを質問する学生だけでなく、市町村の障害福祉担当者への研修などで、直接読んでもらいたい。そう思った文章だった。
ツアー最終日、甲府駅に着く直前の「ふじかわ号」車内で、実に良い文章に出会えた。