脳の暴走から逃れられるか

 

論理性が、自分の身体感覚や直感に寄り添ったものとして機能するためにはどうしたらいいのだろうか。内田樹氏の最新刊「街場の教育論」(ミシマ社)を読みながら、そんなことを考えていた。

この本の中で、内田氏は出版社の人びとの採用面接の極意を聞いたエピソードを披露している。曰く、採用面接でその人が残るかどうか、は、扉を開けて入ってきた5秒ほどで決まる、とのこと。この人なら一緒に働いてみたい、という気持ちにならない人は、あとは楽しくオシャベリして頂き、その場をどう気持ちよく去って頂くか、のサービスの為に熱心にお話を伺う。逆にこの人は採用したい、という人は、もう5秒でわかってしまったので、さっさと話を切り上げる。よって、試験の時に話が盛り上がったのに採用されなかったとか、逆に自分は絶対落ちているはずと思っていたのに受かってしまった、ということが度々生じるという。そして内田氏はそういう有り様が、協働作業の現場ではごく当たり前のように起こる、とまとめている。

その記述に、そうだよなぁ、と想いながら、実はもっと気になったのは、そういう気分や感覚、直感的なものを、論理の力で説明出来る内田氏の力量であった。私たちは、普段無意識のうちに様々な物事を決定し、判断し、処理している。その際、論理的に、なんて意図が働くわけもなく、直感や身体感覚で決めている場合が多い。なんでそう思うのか、と聞かれ、何となく、としか答えられない、その感覚である。しかも、その直感や身体感覚は、素直に無理せずわき出るものに従うときほど、精度が高くなる。この身体感覚の精度の高さを挙げることと、それを論理的に説明する力をつけること、この二つがどう両立可能なのだろう、と考えるのだ。

つい先日も、ふとしたことで、自分の頭の中の限界に突き当たる。身体感覚とは違うメッセージを脳が勝手に作り出し、状況的にはこういうことだよね、と判断する場面が出てきた。状況として確かにそういう事かもしれないが、それは脳が把握する、前例としての状況である。その前例を前提としている限り、いつまで立っても、その枠組みの囚われから逃れられず、身体のアラームに反応せずに脳の暴走に身を任せ、結果、より状況がまずくなる。そういうことが、脳と身体のズレだとは気づかなかったが、そういう視点で捉え直すと、デッドロッグにさしかかった少なからぬ案件に、そのズレがあることに気づき始めた。

そう整理出来てくると、さらに気になるのが、論理性との関連だ。僕自身の論理のリソースを、脳の暴走につきあわせている場面が少なくない。頭の中で作った「作り話」という名の妄想をふくらませ、その妄想から、「だからこうに違いない」という場面設定を論理的に導き出し、その穴ぼこに結果的にはまって、「やっぱりその通り」と悲憤する。しかし、これってよく考えてみたら、「そうでない可能性」もたくさんあったはずなのだ。そういう分岐点で、「そうではない可能性」を確かめることなくひたすら脳の暴走に追従した結果、論理的に導き出された陥穽なのである。世間ではそのことを指して「マッチポンプ」とも言うのだが

論理のリソースを、経験値も少なく考えの幅も浅いちんけな僕自身の脳の暴走に盲従させることなく、時には身体の微弱なシグナルの方にどう同期させられれるか。村上春樹のイスラエルでの講演ではないが、壁ではなく卵としての私、堅牢に見えるシステムではないフラジャイルな身体性を持つ個にどう同期させることができるのか。自分のピットフォールでもあり、しんどい部分はどうやらこのあたりにありそうだ、ということまではわかってきた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。