安易な批判、の向こう側へ

 

自分が気づきたかった(けど気づききれなかった)ことが明確に書かれていると、思わずそうそうと口に出てしまう。次のフレーズも、そう声を上げた瞬間だった。

「批判する人が気づくことは、当然気づいていて、その先、相手は、なぜ、こんな間違ったことをしているのかとか、そのことが自分たちにどういう意味を持っているかとか。そしていま、欠点が目立ったり、問題がある相手を、未来に向かってどう生かすか、というビジョンが求められる。」(山田ズーニー『おとなの小論文教室』河出文庫、p167)

そう、単なる批判の限界はわかってきた。人から説得されても、本人が納得できないと、ものごとは動かない、変わらない、ということも、文字面ではなく経験として浸みてきた。でも、気づいたら批判という形で説得してしまう愚をしょっちゅうおかしている。おせっかい、というか、過剰なのである。しかし、その過剰なエネルギーを、お互いにとってもメリットが少ない(聞く方も嫌になるし、言う方も甲斐がない)説得や批判ではなく、それを乗り越えて、相手の納得を導く何かをするにはどうしたらいいのか、それを考えあぐねていたのだ。その時に、小論文指導の名人が、書くことを考えるコラムの中で導き出した先のフレーズにぴぴっときたのだった。

相手が批判される問題をしている。その時に、それが悪い、と糾弾していたら、いつも繰り返している、You are wrong(裏を返せばI am right!)の思考パターンに陥ってしまう。そういう糾弾的な枠組みは、聞く方だって(時として言う方だって)、実のところ飽き飽きしていたりする。「そうそう、わりぃーよ、でもしかたねーんだよ」と相手が開き直ることだってある。その際、回路を開くためには、単に自分が善で相手が悪、という二元論に矮小化せず、相手の論理を徹底的にトレースすることが大切なのだろう。なぜこういう論理に相手がなっているのか。その論理はどこから導き出せるのか。どこに突破口があり得るのか。そもそも本当にこの論理は間違っているのか。自分が悪いと決めつける、その決めつけの方こそが間違っていることはないのか。

こうして頭を冷やしながら対象化していくうちに、独善的な偏見の殻が破れ、「未来に向かってどう生かすか」というビジョンが開けてくる。頑なな相手とも対話が生まれる。すると、事態打開に向けた芽が生えたり、突破口が生じるのだろう。

こうまとめてみて、あることに気づかざるをえない。これまでどれほど沢山のチャンスを、良い出会いの可能性を、変革の芽を、恐れから来る不安や決めつけによって遮って来ただろうか、と。

思えば、つい最近まで本当に「批判的」物言いが全面に出ていた。批判することに安住していた。だが、それは、馬鹿にされたくない、相手より優位に立ちたいなどの自己顕示欲やびびりの裏返し、でもある。自分の努力不足の言い訳でもある。そして、相手の声を、本音を、聞いていないことの証明でもある。つまりは、僕自身が行っていた「批判」の表明は、己の愚かさの開陳ともつながっていたのだ。

これは世の中の批判が全て間違っている、ということをではない。「未来に向かってどう生かすか、というビジョンが」ない批判ほど、自己満足の域を超えない無内容なものはない、ということが言いたかっただけである。

明日で34歳になる。節目だから、ではないが、そういう無内容な批判に安住せず、どんな状態に直面しても、どんな人と出会っても、「未来に向かってどう生かすか、というビジョン」を持ち続けられる人間に成長したい。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。