今日は比較的早い時間に「あずさ」のひとである。
昨日、西宮の現場で1年ぶりの追跡調査を再開する。ある現場を定点観測的に眺め始めて気が付けば5年目。その間、現場も変わるが、私自身も変わる。仮説を立てていたことが、あたったり、見事に崩れ去ったり。そこで、現場へ再度足を運び、考え直し、考えあぐねる。バームクーヘンのように、何度も何度も同じような所を巻き直しながらも、しかし、巻いている内に、出口、とはいかないまでも、「こうも考えられるのではないか」という新たな契機が見え始める。そろそろ、原稿としてまとめなければ、という想いが芽生え始める。
この「書きたい」という想いは、関わりの時間の長さとは関係がないようだ。現に、三重の研修のことは、まだ関わって半年なのだが、こないだ紀要原稿用に入稿してしまった。8月から根詰めて3ヶ月、通い詰めた熱気は、忘れないうちにスケッチしておかねば、という想いがむくむく出てきたのだ。ワインにたとえるなら、ヌーボーのようなもの。その年の成果を、まずはフレッシュなうちに瓶詰めにして届けてしまいたい、というタイプの原稿である。一方、昨日訪れた西宮の現場も、あるいはお昼によった大阪の現場も、こちらはどっぷりと関わる蔵出しタイプ。何年か通い続け、蓄積を続ける中で、そのうちに尖った刺激だけでなく、全体のバランスがとれて、独特のアロマが出始める。そのアロマをうまく整え、論理の流れと整えを施して、インパクトだけでなくしっかりとした味わいまで出せるかどうか、が問われている。
これまで、まだ書き手としての蓄積もない中ではとにかく遮二無二書いてきたが、そろそろ、こういう書き分けのようなものを意識化しないとなぁ、と思い始める。ヌーボーにはヌーボーなりの美味しさと社会的使命があり、でも熟成された旨みはなんと言ってもオーク樽に何年も寝かせているほうがしっかり付く。一度知り合いの酒屋で、50年もののブランデーを分けてもらったが、あのトンでもないまろやかさとアロマは忘れられない印象を刻みつけている。さて、僕の文体に良いアロマ(臭みではなく!)が出てくるのは、一体いつのことなのだろう。
アロマ、と言えば、今回の旅行のお供に持っていた橋本治の「窯変源氏物語」(中公文庫)は、非常によい。実は彼の「桃尻娘」を読もうとして挫折し、遠ざかっていたのだが、新書の「わからないという方法」(集英社新書)を読んで非常に好感を持ちはじめた。
「『わかる』とは、自分の外側にあるものを、自分の基準に合わせて、もう一度自分オリジナルな再構成をすることである。」(同上、p105)
彼の文体はくどいのだが、くどいのには、自分がわからない事を徹底的にわかるために、敢えてくどく思考していく(書いていく)彼なりのスタイルである、ということがわかってきたのだ。この「窯変源氏物語」には、その彼のスタイルが見事にはまっていて、よい。源氏物語という「自分の外側にあるものを、自分の基準に合わせて、もう一度自分オリジナルな再構成を」見事に果たしている。そのことは、文庫版の第一巻の終わりにも、こんな形で表明されている。
「本書は紫式部の書いたという王朝の物語『源氏物語』に想を得て、新たに書き上げた、原作に極力忠実であろうとする一つの創作(フィクション)、一つの個人的な解釈である」(窯編源氏物語1巻、p369)
そう、彼は「源氏」を徹底的にわかろうとして、「自分の基準」の中に全部飲み込んだ上で、「もう一度自分オリジナルな再構成」までしているのだ。この「わかる」プロセスが踏まれた作品であるために、読み手も非常に見通しがよく、「王朝の物語」という異次元の話なのにグイグイ引っ張られる。つまり、橋本治オリジナルゆえに、下手な翻訳本を読んでいるときの「わからなさ」がないのだ。
これは古典の現代版や翻訳小説だけでなく、僕が取り組んでいる世界でも切実に必要とされていることだと思う。山ほど取材したって、資料を読んだって、「自分の基準に合わせて、もう一度自分オリジナルな再構成をする」ことが出来ない限り、わかったことにはならない。そう思うと、わかっていないのに書かれたテキストのなんたる多いことか。もちろん、自壊も込めて。わかるための格闘、それが、完遂した時に、先に書いた独特のテイストなりアロマが醸し出されるのだ。
どんな「再構成」が出来るのか。そろそろ蔵出しが楽しみになってきた。