年賀状に初めてブログの事を記したら、「見てますよ~」という返信を何人からか頂く。ありがたや。
このブログは足かけ5年ほど書いているのだが、年賀状で公表したのは今年が初めて。内容が稚拙ではあるが、ある程度書きためてきたので、お知らせしてみた。すると、旧友のチエちゃんから、「標記が間違ってるで」というご指摘を頂く。前回のブログの最後、「松の内」、と書くべきところを、あろうことか「幕の内」。弁当じゃないんだから、そそっかしい。チエちゃんといえば、以前ご紹介したが、タケバタの成長を温かく見守ってくださる麗しき近江美人。持つべきものは友人、である。
で、そんなチエちゃんはスウェーデン語も堪能だが、この正月に読んでいたのは、こちらもスウェーデンの政策に造詣の深い、北大の宮本太郎氏の新書。スウェーデンモデルに学びながら、日本のあるべき生活保障の将来像を分かりやすい文体で描き出して下さり、大変頭の整理にもつながる。ただ、今回しみじみと「そうだよなぁ」と思ってドッグイヤーしたのは、次の箇所である。
「保守主義の思想が強調してきたように、人間が社会を上から自在に造形できると考えるのは間違いである。後にも触れるが、北欧のように成功した福祉国家が試みたのは、そのようなことではない。人々の現実の利害関係や感情に沿って、漸進的な改良を積み重ねてきたからこそ、北欧は安定した社会を築くことができた。」(宮本太郎『生活保障-排除しない社会へ』岩波新書、p66)
「人間が社会を上から自在に造形できると考える」イズムのひとつとして、社会主義と呼ばれるものが力を持っていた時代がある。この社会主義全盛時代にあって、その計画主義を鋭く批判したのが、経済学者のハイエクである。彼の思想の全体像をちゃんと理解できている訳ではないが、ハイエク自身が、この計画主義(設計主義、ともいう)を批判する時の、どんな計画を批判したのか、については、氏の本にこんな風に書かれている。
「ここで批判している計画とは、競争に反した計画、すなわち、競争に取って替わろうとする計画だけだ、ということである。」(ハイエク『隷属への道』春秋社p49)
スウェーデンに半年滞在した実感からしても、スウェーデンは「計画経済」的な国ではない。自由競争もちゃんとしているし、民間企業の争いも激しい。その意味で、スウェーデンの福祉国家が追求しているのは、「競争に反した計画」ではない。そうではなくて、「漸進的な改良を積み重ねてきたからこそ、北欧は安定した社会を築くことができた」のである。確かに社会工学的な実験国家の側面もあるけれど、全てを管理・計画しようとするのではなく、うまくいかないことについて、蓋もせず、「では、どうしたらよいか?」を真面目に考え続けている国、といえるのだと思う。このことを踏まえ、先述の宮本太郎氏はこんな風に総括している。
「着実な改革は、私たちが生きる社会の歴史と現状から出発するものであり、またすべからく漸進的なものである。そして、戦後の日本社会が何から何までダメな社会であったというのは間違いである。団塊世代の論者に多い気もするが、この国の過去と現在を徹底的に否定的に描き出し、憤りをエネルギーに転化しようとする議論もある。だが、少なくとも筆者が接している若者の多くは、日本がダメであると言えば『やっぱり…』と肩を落としてしまう。また、徹底的な否定の上に現実的な改革の展望を切り開くことも難しいであろう。この国でこれまで人々の生活を支えてきた仕組みを発見し、問題点を是正しながら、発展させていくという発想が必要である。」(宮本太郎、前掲書、p222)
至極真っ当なことしか書かれていない。大いなる「当たり前」である。だが、その「当たり前」を敢えて主張しなければならないほど、この常識が非常識になっているのが今の日本の実情なのかもしれない。
以前から書き続けているが、「ダメだ、ダメだ」という絶対的な否定は、「ダメだと指摘しているこの私(の眼)は正しい」という絶対肯定に基づいている場合が少なくない。そういう絶対肯定が、実のところ、「私の言うことを聞けば全てがうまくいく」という設計主義的発想につながっていくのである。ハイエクも、ナチスやソビエトに代表されるような全体主義を批判する視点から、設計主義への批判を展開していった。「徹底的な否定の上に現実的な改革の展望を切り開くことも難しい」のは、そのような無謬性に支えられた絶対肯定の論理には、現実を漸進的に変えていく力も根拠も乏しいからである。昔、大学の教養の授業で、フランス革命の例を出しながら、「革命とは改革プラス暴力だ」と聞きかじった記憶がある。この例を用いるなら、暴力という手段を用いてでも何かを変えようとという絶対肯定がなければ、「革命」は成就しない。だが、私たちの社会で求められているのは、「革命」ではなく、「改革」なのである。
「この国の過去と現在を徹底的に否定的に描き出し、憤りをエネルギーに転化しようとする議論」に対して、随分以前から、ピリリと小粒の山椒のような皮肉を突きつけている歌詞を思い出した。
「誰が悪いのかを言いあてて どうすればいいかを書き立てて
評論家やカウンセラーは米を買う
迷える子羊は彼らほど賢い者はいないと思う
あとをついてさえ行けば なんとかなると思う
見えることとそれができることは 別ものだよと米を買う」
(中島みゆき「時刻表」アルバム『寒水魚』より)
「評論家」は「誰が悪いのかを言いあてて どうすればいいかを書き立てて」「米を買う」のである。だが、彼らは「見えることとそれができることは 別ものだよと米を買う」ずる賢い一面を持っている。だから、他の人と違って「言いあて」「書き立て」ることで、「米を買う」ことが出来るのである(米を買う、という表現も、時代がかった言い方ですネ)。だが一方で、「徹底的な否定」形として現実が「見えること」だけでは、何も変化は生じない。「言いあて」「書き立て」るだけではなく、「着実な改革」には「それができること」こそが、必要なのだ。
「人々の現実の利害関係や感情に沿って、漸進的な改良を積み重ね」ることの重みが、「安定した社会を築く」ための改革が声高に叫ばれている現在だからこそ、ひしひしと感じられている。山梨や三重で、制度の一部に関わらせてもらうからこそ、この「漸進的な改良」の重要性は、本当に骨身にしみて感じるのだ。出来うることは、求められているのは、「革命」ではなく、「改革」なのだ、と。