土日は久しぶりに二連休。正月明け以来、結構タイトなスケジュールだったので、ほっこりする。1月は「行く」、とはよく言ったもの。2月に「逃げ」られる前に、ちょっとは論文を書いたり、まともな2月にしたいなぁ、と反省する。
で、気持ちを研究モードに戻すために、伊丹先生の本を読み直す。何度読んでも、有り難い、というか、読んでいるこちらの不出来で、胸が痛む。
「『いい研究』とは、多くの人が意義があると思える原理・原則に、たくみに迫ったものである。そして『いい文章』とは、自分が発見したあるいは自分が真実と考える原理・原則がなぜ真実と言えるのか、説得的にかつわかりやすく述べたものである。」(伊丹敬之『創造的論文の書き方』有斐閣、p2)
何度も読み返して、違うフレーズをせっせとこのブログに引用している。まだ、研究の世界では新米で、自分なりのペースや枠組みを持ちきれていない。だからこそ、自分が価値あると思う筆者の文章を何度も読み直し、血肉化出来ないか、ともがいている。「意義があると思える原理・原則に、たくみに迫っ」ているか。2月3月と講義がない時期しか、ゆっくり時間が取れない。だからこそ、この時期にある程度まとまった何かを書きたい、と思っている。ある雑誌に半ば連載させて頂いているものの〆切は既に過ぎていて、来週末までに出します、と約束した。3月のとある学会発表では、2月末〆切でフルペーパーを出せ、ともいわれている。海外で二回ほど学会発表した内容は、ちゃんと新しい構成で書き直したら見てあげよう、という有り難いお申し出も頂いた。昨年の学会で発表したあるネタは、ちゃんと論文で書き上げなければ、と思っている。少なくとも3,4本は、この2ヶ月で何とかしたい。しかし、現場の人に比べたら遙かに時間があるはずなのに、なぜか時間がない事態になっている。その中で、単に書き散らす、だけではなく、「意義があると思える原理・原則に、たくみに迫ったもの」を生み出せるか。ここが肝心要である。
一年半前、同じような事態に陥った時に引用した氏の言葉を、もう一度、備忘録的に引いておく。
「『本を読まざるべし』などということをいうのは、昔こういう経験があるんです。これはアメリカで理論の世界での論文を書いているときのことなんだけれど、ある程度いろいろな理論の論文を読んでから、その理論を概念的に、あるいはオペレーショナルに拡張したり、新たに解釈するというのを書いていたんです。そのとき自分の先生にこういわれた。『伊丹さん、参考文献とか、似たようなリサーチをやっているとか、そういう論文は論文を書き終わってから読むようにしてね』と言われたんです。論文の本体を書き終わってから、自分と同じことを言っている者はいないかといって、確認のために他人の論文を読みなさいと。
驚きましたね。しかしその意味は、最初から全部読んじゃうと新しい発想とか、新しい仮説を作るとか、そんなふうにならないから、ということなんです。何か思いついたら、とにかく理論でゴリゴリ考えろ、10日か一週間あれば、何か結論がが出てくるでしょう。それまでまずやっちゃうんですと。他人の論文なんか読んでは駄目ですと言われた。」(同上、p110-111)
他人の論文や文章に答えがあるなら、僕が書かなくてもよい。なんか書きたい、と沸々と思うのは、既存の文章に飽き足らないから。だったら、カンニングなんてしていないで、「ゴリゴリ考え」てみる。己の頭を振り絞って、理論と現実の架橋を、自分の頭の中で徹底的に行ってみる。その中から、新しい発想・仮説を、絞り出していく。そういう作業こそ、今の時期に必要な仕事なのである。ついでに、「理論の使い方」についても、含蓄深いフレーズが。
「理論のいいとこ取りというのは、理論そのものをバシッと切って、いいとこ取りするわけにはいかんから、結局その理論というのが生まれてきた思考プロセスのどこかを使ってやれという、そういう理論構築の方法のほうを、いいとこ取りをするということに多分なるんですけどね」(同上、p113)
この事象は○○理論に適合的だ、といっても、So what?である。特に、現場の現実に向き合って、少しでもそれを変えたい、とか、改善に役立つ何かを整理したい、という志向性がある場合、こういう使い方はしたくない。ある理論が生まれてきた「思考プロセス」「理論構築の方法」という、アウトプットではなくプロセスが、別の事象を整理するためのプロセス作りに役立つ、というまとめは、実にわかりよい。先に伊丹氏が定義した『いい文章』に至るための、「説得的にかつわかりやすく述べ」る為には、この「いいとこ取り」が大切なのだ。
そういう眼で捉えると、「思考プロセス」から学べる本は、論文以外にもたくさんある。この週末にルンルンと読んだ一冊からも、多くのエッセンスを頂く。
「『私たちの社会は根本的改革を必要とするほどに病んでいる』という事実を立証したいと思う社会理論家たちは、目の前にある『厄災の芽』を摘むことで、矛盾の露呈を先送りし、社会の崩落を防ごうとする人間をしだいに憎むようになるのである。自己利益だけを追求する人と、社会の根本的改革を望む『政治的に正しい』人々は、どちらも『おせっかい』なことをせず、私たちの社会をシステムクラッシュに(意識的であれ無意識的であれ)向かわせる。その間で『お掃除する人』は孤立している。けれども、『厄災は先送りせねばならない』ということと『厄災の芽は気づいた人間が摘まなければならない』ということが私たちの社会の常識に再度登録されるまで、私は同じ事を執拗に繰り返さねばならない。」(内田樹『邪悪なものの鎮め方』バジリコ、p228-229)
「根本的改革」が必要だとしても、その「事実を立証したい」という思いが先に出ることは、結局日々の暮らしの改善よりも、自らの『政治的に正しい』という威信の顕示を優先することにつながる。それでは、結果的に日々の暮らしの問題に対して立ち向かおうとしない、という点で、「自己利益だけを追求する人」と同じではないか。システムそのものの再構築をいう前に、まずそのシステムの不備とどう向き合い、改善を志向出来るのか。そういう「『厄災の芽』をつむこと」が大切ではないか。この内田氏の指摘は、実にその通りだと思う。
システムクラッシュに至らないためには、そのシステムの内在的論理を掴んだ上で、そのシステムの暴走を防ぎ、そのシステムのあるべき方向性を再規定することが求められる。その際、既存のシステム内でやれることはやりきった(=厄災の芽を摘んだ)上で、既に起こっている、新たに起こりうる厄災を「先送り」するために、システム変更に関わることが大切だ。ここでいうシステム変更とは、『政治的に正しい』人の自己実現としてのシステム破壊、ではなく、社会の崩落を防ぐ形でのシステム移行であり、それを果たすのは『お掃除する人』のマインドを持った黒子である。
この内田氏の思考プロセスは、自らも「お掃除する人」として山梨や三重のプロジェクトに参画しているからこそ、実によくわかる。自己顕示欲を前提にしたら、こういうプロジェクトは間違いなく、潰れる。今、かろうじて少しは成果を出せているのだとしたら、我が我が、ではなく、システムクラッシュに至らないための「お掃除」としてのコミットという意識を、曲がりなりにも持てているからだ、と思う。そして、まだうまくいっていない部分では、この自己顕示欲の残滓に振り回されているのかもしれない。アブナイ、あぶない。
振り返って考えてみると、自治体福祉政策の現場において、「お掃除」すべき内容(=つまりは『厄災の芽』)は沢山あるのだが、単なる批評家は数多くいても、「お掃除する人」はなかなかいない、という現実なのである。これを実践者として、だけでなく、論文としても整理してみたいのだけれど、そんなことちゃんと書けるのかなぁ。