「ひきこもり」と常識の捉え直し

 

今年から短大保育科の講義「地域福祉」も受け持っている。久し振りに資格取得を目指した学生さん達相手の講義だ。ただ、僕の受け持つ講義は試験に出る科目、ではないので、気楽に教えられる。何しろ、看護師も社会福祉士も精神保健福祉士も、国家資格取得のための教育は、「合格率」なるもので査定され、もちろん学生さん達もそれを求めるため、教育が大変だ、と複数の同業者から聞く。司法試験にしても然り。ゆえに、国家資格の試験とは直結しない科目の方が、ある程度のこちらの裁量が利いて、面白いのだ。「先生、試験に出るんですか、それ?」という問いもないし(笑)

というか、僕の講義は4大の方も基本スタンスは同じ。標準化された(=○×で回答可能な)問題は扱わない。むしろ、「暗黙の前提を疑う」「常識の捉え直し」の講義。ネタは福祉政策だったり障害者福祉だったり地域福祉だったり、と違うけれど、通底するスタンスは上記の、言ってしまえば割と社会学的なスタンスで取り組んでいる。いかに私たちが常識と思い込んでいることが、違う視点から見ると非常識だったり抑圧的だったり不合理だったりするか、を、様々な現象を素材に扱いながら見ていく、という講義だ。ちょうどこれから4限でやる3・4年生のゼミでは苅谷剛彦氏の名著『知的複眼思考法』(講談社プラスアルファ文庫)を基にレジュメ発表してもらうが、この本で書かれているような、オルタナティブな視点、を、講義でも求めているのである。

そして、今日扱ったテーマが「ひきこもり」。ちょうど北海道浦河にある精神障害者の回復拠点「べてるの家」の当事者の皆さんが出てくるビデオ「精神分裂病を生きる」シリーズを持っているので、そのなかの「ひきこもりのすすめ」を見ながら、「ひきこもり」当事者はどう「ひきこもり」を考えているのか、についてオルタナティブな視点を得た上で、学生さん達に議論を展開してもらった。このビデオは何度観ても色々考えさせられるのだが、今年割と視点が広がりつつある中で見ると、新たな発見が多かった。

一つは、「ひきこもり」を目的化して捉えることの危険性についてだ。多くの学生達にbefore/afterで意見を書いてもらっていたのだが、この問題について考える前は、「ひきこもり」=特殊な人、怠けている人、心の弱い人、自分とは遠い存在の人といった視点で学生達は捉えていたようだ。ここには、自分とは異なる立場であり、他人事である、という暗黙の前提がある。だが、「ひきこもり」の経験者・当事者達が語る「いじめだとか、そういう単純な理由ではない」「寒いから嫌だ、とか、化粧をするのが面倒だ、とかそういう理由が重なると外に出られない」「アル中さんと同じで、ひきこもることによって逃避しているんだけれど、逃げ切れない」と言った発言を聞く中で、学生達の「ひきこもりという結果」に到る方法論的な自らとの共通性を感じるようだ。講義後、「先生、引きこもりって、ネガティブではない一つの手段なのですね」と言ってくれた学生がいたが、まさに、「ひきこもり」を、一旦安定的な場所に後退する「手段」と捉えると、別の視点が見えてくる。ちょうどそれは「ひきこもり」の定義とも繋がる。

『「ひきこもり」のなかには、生物学的な要因が強く関与していて、適応に困難を感じ「ひきこもり」をはじめたという見方をすると理解しやすい状態もありますし、逆に環境の側に強いストレスがあって、「ひきこもり」という状態におちいっている、と考えた方が理解しやすい状態もあります。つまり、「ひきこもり」とは、病名ではなく、ましてや単一の疾患ではありません。また、「いじめのせい」「家族関係のせい」「病気のせい」と一つの原因で「ひきこもり」が生じるわけでもありません。生物学的要因、心理的要因、社会的要因などが、さまざまに絡み合って、「ひきこもり」という現象を生むのです。
ひきこもることによって、強いストレスをさけ、仮の安定を得ている、しかし同時に、そこからの離脱も難しくなっている、「ひきこもり」は、そのような特徴のある、多様性をもったメンタルヘルス(精神的健康)に関する問題ということが出来ましょう。』(出典:「10代・20代を中心とした「ひきこもり」をめぐる地域精神保健活動のガイドライン」国立精神・神経センター精神保健研究所社会復帰部)
www.ncnp.go.jp/nimh/fukki/pdf/guide.pdf

ひきこもると、「仮の安定」は得られる。だが、それはあくまで「仮の安定」にしか過ぎない。ビデオに出てくる「ひきこもり」経験者も、べてるの家で仲間に出会うことによって、「聞かれる話す話したい自分がいたと発見した」というプロセスを物語る。岡知史先生が整理したセルフヘルプグループの特徴である「同じ経験を持つ仲間同士の気持ち・情報・考え方のわかちあい」という基盤によって、「話すのも怖い」「拒絶感を考えたら話せなくなる」という状態から、「実は本当はかまってほしい、聞いて欲しい」という抑圧していた何かが表面化する。そうすると、「仮の安定」から離脱出来て、少しずつではあるが、本当の安定に向けた快復へと動き出す。そういうダイナミズムを、改めて感じることが出来た。

それから、今日ビデオを観ていて改めて気になったのが、「仲間がいると表に対する怖さが薄らぐ」という表現だ。「表」=常識や社会の主流の流れが支配する世界、と考えてみると、Social Orderというか同調圧力に強く晒されている今の日本社会の事を強く意識する。学生さん達もこの点に敏感だったようで、講義後のレポートで、「携帯やメールを返さなければという同調圧力を感じる」などと言ったコメントを寄せてくれた人もいたが、「化粧をする」「風呂を入る」のも、内発的なものだけでなく、「そうしなくちゃ、みんなの前に出れない」という意味での同調圧力的な要素もある、と再発見する。

この同調圧力に関して、ビデオに出てきた経験者達は「風呂に入ることによって一日一日に区切りをつけなくちゃならないことがしんどかった」と語っているのも、また象徴的だ。「風呂」も「自分が気持ちよくなりたい」という内在的論理だけでなく、「風呂に入って今日に区切りをつけ、明日から頑張らねば」という外在的論理で捉えると、風呂に入ることも内面に対する攻撃性を持つ要素になる。化粧にしてもしかり。「化粧しなければならない」というshould/mustで義務感的に捉えると、ついて行けなくなる。それが、「化粧」「風呂」からの撤退(=ひきこもり)という方法論で乗り越えるとすると、それもありかな、とわかるのである。個人の身だしなみにも象徴される同調圧力の強化の波に、「ひきこもり」という対抗戦略(=手段)を用いて抵抗している、と捉えれば、「ひきこもり」のコンテキストも大きく書き換えられるようだ。

常識に流れるドミナントストーリー。そのストーリーをいかに捉え直し、再解釈が可能か。ナラティブセラピーはその最たるものだが、語り直すことによって、これまでの常識をどうひっくり返し、再解釈し、再構成するか。これまでの常識が揺らいでいる今だからこそ、福祉的課題を通じて常識を再解釈・再構築する事の重要性、そしてマイノリティ経験の当事者の語りの持つ力、などを改めて考えた講義だった。何だか教員が一番勉強になったようであります。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。