週末、次の学会発表に使えそうなので、遅まきながらハーシュマンを読んだ。実にシンプルな論理だが、ステップを踏んでいく内に色々な場面で使えるロ
ジックとわかり、非常に面白い。少し、考えを整理するために、ややお勉強メモ風に書き進めていく。
「企業、その他の組織は、それらが機能する制度的枠組みがいかにうまくつくられていようと、衰退や衰弱、すなわち合理性・効率性・余剰生産エネル
ギーが徐々に喪失していく状況にいつも、そして不意にさられると考える」(ハーシュマン『離脱・発言・忠誠』ミネルヴァ書房、p14)
ハーシュマンは同書の標語を「たえず生まれてくるスラック生産者がいる」としている。スラック(slack)とは「緩んだ」「たるんだ」「いい加減
な」という意味なので、どんなに合理的な組織で制度やシステムがしっかりしていても、そういう「スラック」は生まれてくる、ということだ。確かにどこの組
織だって、何らかの組織的疲労を抱えていない組織はない。
その上で、スラックに対応するオプションとして「離脱(exit)オプション」と「発言(voice)オプション」の二つがある、とする。このうち
前者は、「ある企業の製品の購入をやめたり、メンバーがある組織から離れていく場合」を、後者は「広く訴えかけることによって、自らの不満を直接表明する
場合」を、各々指している(p4)。そしてスラックなシステムに対してこれまで経済学的には「離脱」が、政治学的には「発言」が、それぞれ対処方法として
好まれたとした上で、「離脱と発言、つまりは、市場力と非市場力、経済的メカニズムと政治的メカニズムとは、文字通り対等な力と重要性を持つ二つの主役と
して導入」(p18)することにしたのが同書の肝である。
ここから「離脱」と「発言」、そして「離脱」せずに「発言」をする背景にある「忠誠」の論理を、様々な例を用いて説明していくのだが、螺旋階段を少
しずつ拡大しながら昇っていくようで、実に面白い。以下、断片的に興味深い部分を拾っていくとしよう。
「品質の変化に対し需要があまりにも非弾力的である場合、収益低下はごくわずかなものとなる。したがって、何か間違ったことが起こっているという
メッセージを企業が受け取ることがないのは明らかであろう。」(p26)
「離脱するか否かの決定は、発言の行使が効果的なものとなるかどうかの見込み次第である場合が多くなるだろう。もし発言が効果的だと顧客が十分に納得すれ
ば、彼らがそのとき、離脱を延期するのも理にかなっている。」(p40)
「離脱オプションと比較して、発言は費用がかかるうえに、顧客・メンバーが購入先の企業、所属先の組織の内部で行使できる影響力・交渉力に左右され
る。」(p43)
「離脱には、でるか否かのはっきりとした意志決定以外に何も必要でないが、発言は、その本質上、常に新たな方向に進化していく一つの技芸(アート)であ
る。」(p47)
上記を自分の関わる仕事に当てはめたら、どのような事が言えるだろうか。
例えば障害者福祉サービスで言えば、特に重度障害のある方の地域生活支援を支えるサービスは、その量が不十分である場合が多い。すると、他に選択肢
がない故に、「離脱」も出来ないだけでなく、「発言」をすることへのリスクや恐れから、そもそも何も言わずに「お世話になってるから…」と「何も言えな
い」場合も少なくない。すると、「品質の低下」に対して「需要が非弾力的」、つまり「離脱」も「発言」もしない場合、「何か間違ったことが起こっていると
いうメッセージを企業が受け取ることがない」、ゆえに、「品質の低下」を改善しようとしない、組織のスラック化が進んでいくことになる。
あるいはもう少しサービス供給の多い介護保険サービスなら、「離脱」「発言」のオプションの双方が選択されているかもしれない。現に病院選択と同
様、「でるか否かのはっきりとした意志決定以外に何も必要でない」「離脱」というオプションは、デイサービスなどでは多く使われている、という。一方、
「発言は費用がかかるうえに、顧客・メンバーが購入先の企業、所属先の組織の内部で行使できる影響力・交渉力に左右される」。つまり、「離脱」に比べて
「時間」も「交渉力という手間」(=技芸)も必要とされる。すると、「発言の行使が効果的なものとなるかどうかの見込み」がなければ、黙って「離脱」する
だろう。
ただ、この議論を「全制的施設」に当てはめると、少し事態が複雑になる。
1950年代のアメリカの精神病院でのフィールドワークを行ったゴッフマンは、精神病院における患者と職員の関係、および精神病院の構造そのもの
が、刑務所や強制収容所、僧院などといった他の施設と類似していると気づいた。そして、「アサイラム」の中で、それらの施設を総称して全制的施設
(total institution)と名付け、その特徴として、次の4つがある、と整理した。
・生活の全局面が同一場所で同一権威に従って送られる。
・構成員の日常活動の各局面が同じ扱いを受け、同じ事を一緒にするように要求されている多くの他人の面前で進行する。
・毎日の活動の全局面が整然と計画され、一つの活動はあらかじめ決められた時間に次の活動に移る
・様々の強制される活動は、当該施設の公式目的を果たすように意図的に設計された単一の首尾一貫したプランにまとめ上げられている。(E・ゴッフマン
(1961=1984)『アサイラム−施設被収容者の日常世界』誠信書房、p4)
その上で、全制的施設においてはしばしば「無力化」が起こるという。
「個人の自己が無力化される過程は一般に、どの全制的施設においてもかなり標準化している。この種の過程を分析することによって、われわれは、通常
の営造物がその構成員に常人としての自己を維持させることを心掛けるとすれば、保証されなくてはならない仕組みはどんなものか、を知ることができるだろ
う。」(同上、p16)
ここからは、全制的施設においては基本的に「個人の自己が無力化される過程」がしばしば見られること。それは、上記の4つを果たす「どの全制的施設
においてもかなり標準化している」事態であること。さらには、それは「当該施設の公式目的を果たすように意図的に設計された単一の首尾一貫したプラン」の
中から結果的に産み出される「スラック」の個人への投影であること、などを読み取る事が出来る。
こういう全制的施設においては基本的に「離脱」も「発言」もままならない。このような組織をハーシュマンはギャングや全体主義的政党として例示して
いる。それらの組織では、「組織が離脱に対し高い代償を支払わせることが出来る」(ハーシュマン、同上、p103)。確かに「ここしかない」と言われ続け
ていれば、「離脱」はしにくい。そういうところでは、「発言」もしにくくなる、という。
「離脱費用が高いことによって、発言の効果的手段となる離脱の脅しが取り除かれてもいるので、こうした組織(ギャングや全体主義政党)では、発言も
離脱も両方とも抑えつけることが可能となる場合が多くなる。この過程で、こうした組織は、だいたいに置いて、二つの回復メカニズムを自ら剥ぎ取ってしま
う。」(同上、p104)
「離脱の脅しが取り除かれる」組織においては、「発言」も「抑えつけることが可能」であり、「二つの回復メカニズムを自ら剥ぎ取ってしまう」。この
事態は、少なからぬ全制的施設でも当てはまると思う。これを全制的施設の利用者から見ると、「そこ以外の場所では暮らせない」という「離脱オプション」が
そもそももぎ取られ、それであるが故に「お世話になっているから」と何も「言えず」、文句があってもじっと我慢して「忠誠」のスタイルになる。すると、全
制的施設の運営者側から「扱いやすい利用者」として遇される、現実的なメリットがあるがゆえに、ますます「発言」という手段を選ばず沈黙していく。そうい
う「発言」からの「離脱」が、全制的施設では見られるような気がするのだ。
では、このような事態には何も解決策がないのだろうか。それを、ハーシュマンはラルフ・ネーダーに代表される、「消費者オンブズマン」に求める。そ
のような「消費者の発言の制度化」をする手段として、次の三つがある、と指摘している。
「一つはネーダーのように独立した、進取の気性に富んだ人によって、また一つは公的な規制機関の再活性化を通じて、そしてもう一つは、一般市民に販
売を行っている、より重要な企業の側で予防的活動が強化されることを通じて、制度化されることになるだろう。」(p46)
介護保険施設のようにある程度の選択肢がある場合は、三つ目の「企業の側」」での「予防的活動」(市場調査や目安箱、利用者満足度を測る等)を取ろ
うとする動きがあるだろう。だが、選択肢が少ない「全制的施設」の場合、「進取の気性に富んだ人」による「発言」オプションの選択や、「公的な規制機関の
再活性化」がないと、うまく機能しない。しかも、全制的施設の住人は「発言」「離脱」のオプションが「剥ぎ取」られている場合も少なくない。であるからこ
そ、外部者による全制的施設の訪問活動やオンブズマン活動といった「発言」「離脱」の支援活動が大切になってくるのであり、その制度化も大切なのである。
とまあ、こんな感じである論文ではハーシュマンの議論を使おうと考えている。これくらいでお気づきの方には「またあんた、このテーマね」と言われそ
うだけれど…。