ずっと昔も書いた事があるかもしれないけれど、僕は休むのが上手ではない。
受験勉強時代、ダラダラずっと勉強し続ける環境にいたトラウマがまだ残っているのか、何だか休みの日にスコーンと何もかも忘れて遊ぶ、という余裕があまりない。ゆえに、結婚して奥さんと晩酌するようになって、ずいぶんスコーンと忘れられるようになったのは、誠にありがたい。ついでにいえば、彼女はそのオン・オフの切り替えが抜群であり、随分学ばされた。旅行にPCを持って行かない、という当たり前の事も、彼女の強い反対がなければ為されなかっただろう。それほど、僕は何だかshould/mustに引きづられているのである。
ただ、一方で、最近、少しずつではあるが、would like toを増やしつつある。明日はお休みの合気道もそうだ。ダイエットという事を目当てなら、「すべし」なのだが、低炭水化物ダイエットで、体重10キロ、腹囲10㎝も落としてみると、それもルンルンと「したい」に変わってくる。ちなみに、ダイエットだって、「すべし」でなく、今では体重の記録を付けるのが日課であり、また、少しなるシスティックになるかもしれないが、風呂上がりにへこんだお腹を見て、「頑張ったなぁ」と感慨を持てるくらいになったので、これも「したい」になってきた。
来週は韓国、9月上旬はスウェーデンとイギリスに調査だが、それに関連して、その地にご縁のある本もぽつぽつ読み始めている。これは、この春、香港に行った時くらいからであるが、せっかく旅行するのに、滞在する国や文化、人々の事を知らず、単にガイドブックの虜になっているのもつまらない囚われだな、と思い始めたからだ。香港で読んだ本は上記のHPに書いたが、こないだのトルコ行きには「トルコで私も考えた」「世界の都市の物語 イスタンブール」なんかを読んでいたので、以前より奥行き深く、その町を捉える事が出来た。
今日読んでいたのは、四方田犬彦『ソウルの風景』(岩波新書)。筆者が以前ソウルの大学で日本語教師をした時代は、朴政権の厳戒令が引かれた時代の70年代ソウル。その後ミレニアムの直前に再びソウルに滞在し、あまりの変容ぶりに驚きながらも、街を歩き、人と語らいながら韓国社会の変容について紐解いていく、読みやすいエッセイ。村上春樹が韓国社会の男性文化の変容の中で大きく受けられた事や、金大中氏のノーベル賞受賞を巡る韓国内部での複雑な対応、光州事件とは何か、従軍慰安婦とナヌムの家の実際・・・などなど、興味深いエピソードと筆者のしっかりとした視座を両方感じる一冊。その中で、彼が元慰安婦とともに食事をしたエピソードの後に出てくる一節が、心に残った。
「まず自分の畑を耕せとは、ヴォルテールの『カンディード』の主人公がさまざまな冒険の後に体得することになった教訓である。映画史研究家として自分が最初にできることは、日本と韓国の映画界が従軍慰安婦をどのようにスクリーンに描いてきたか、その足跡を実証的に辿ることだろう。帰国したわたしはさっそくこの論文の執筆にとりかかった」(p192)
そう、ある出会い、ある問題関心を持った時、それと「自分の畑を耕」すことをどうリンク出来るか、が問われている。だからこそ、自分の専門領域も深めながら、でも、それがどのような地図の中の位置づけにあるか、を理解しておく必要がある。また、新たな人や社会、課題との出会いに積極的になり、かつそれを「自分の畑」の肥やしにし、耕そうとする真摯さとどん欲さ。日本国内であれ、海外であれ、どの現場に行っても、真摯に現場に向き合いながら、一方で「自分の畑」に引きつけようとする気持ち。こういうのって、すごく大切だ。
あ、やっぱり仕事の事を考えていた(笑)。でも、そういう「書きたい」という欲望を駆動させるような、そんな体験や経験を、オン・オフ関係なくし続けたい。そう思った夕暮れであった。