ここしばらく、連関読書に精を出している。以前から何となく趣味で読んでいた「気になる本」を、改めてその関連性を強く繋げながら、自分の「いま・ここ」に引きつけながら読み始めている。その断片を、少しこのブログで整理してみたい。
「われわれが自明のものとしている<世界>が、実はさまざまの可能的な<かたち>のうちのひとつにすぎないことを忘れてはならない」(鷲田清一『現象学の視座』講談社学術文庫、p165)
このフレーズに電気が走ったのが、今日のブログの入口だ。私自身、この数年間市町村や県、そして今年は国レベルで色々な改革のお手伝いに関わっている。その際、少なからぬ人々から「そんなのムリ」「どうせ・・・」「出来っこない」という発言を聴き続けてきた。それは、優秀だったりその現場の事を熟知している筈の人から聞くので、私は一瞬、ひるむ。でも、「いま・ここ」の「自明のものとしている<世界>が、実はさまざまの可能的な<かたち>のうちのひとつにすぎない」。であれば、「いま・ここ」の<世界>は、「さまざまの可能的な<かたち>」の一つに過ぎないのだから、未来においては、別の<かたち><世界>だって、十分にあり得るのである。その変容可能性について、鷲田氏は次のようにも整理する。
「別の秩序の創出=<制度化>は、規定の秩序とまったく無関係に行われるのではない。それは、先行する特定の意味空間のなかで実体的な相貌を得ている諸要素を『非中心化』することによって『脱実体化』させ、諸要素にそうした位置価を与えていた意味空間の構造的布置を揺さぶり、ずらせながら、別の意味次元において組織しなおすという、一種の『地すべり的』な移行なのである。」(同上、p168)
制度の「『地すべり的』移行」というのは、言い得て妙だし、納得出来る。最初の瞬間は「ズルッ」とした、漸進的(incremental)な出だし。でも、布置の揺さぶりがある点を超えると、もうその流れを押し戻せないような勢いを付けて根本的(radical)に「組織しなおす」勢いがつくという感覚を、見事に表現している。実際に、いくつかの現場でも、新たに何かに取り組む際、まず心がけたのは、その現場で何が「実体的な相貌を得ている」中心か、の見極めと情報収集であった。そして、うまくいっていない現場ほど、その「諸要素を『非中心化』することによって『脱実体化』させ」ることが求められている。もっと言えば、「非中心化」が求められる諸要素というのは、実は過去の栄光・最先端であるが、現段階では最後尾に位置づけられてしまい、変革を欲するが、自分からは変われずにその場に固執する存在・役割だったりする。その「諸要素」の特性を見極めた上で、「意味空間の構造的布置を揺さぶり、ずら」すことが、「地すべり」を誘発するし、じつはそれは諸要素にも結果的には望まれていた事だったりもする。
そして、「地すべり」を誘発するものについての鷲田氏の指摘も鋭い。
「『地すべり』的移行としての<制度化>は、特定社会に内蔵された<自己意識>の<閾値>から漏れ落ち、排除されたものによって誘発される。(略)排除されたもの、逸脱するものは、それを排除したもの、それを逸脱として規定したものの構造をときとして逆照射する。一定の<制度化>がやがてひずみを惹きおこして、みずからのうちに包摂しきれないような別のかたちの関係のあり方といったものをいやおうなく出現させるとき、そうした自己自身の変形(=他成)といった事態を招き寄せるのは、それ自身が内なる他者として排除したものとの関係である。」(同上、p170)
私が関わっている、内閣府の障がい者制度改革推進会議、総合福祉法部会。これは、今の制度である障害者自立支援法を廃止して、「障害者総合福祉法」(仮称)を産み出すために、どのような内容・方向性・骨格であるべきか、を議論している会議である。55人の委員から、実に多様な意見が出され、外野から見ておられる方からは「学級崩壊だ」「まとまるはずがない」などと揶揄されることもある。だが、私は山梨の経験からも、これまでの混沌とした状態は、決して「崩壊」だとは思っていない。むしろ、「特定社会に内蔵された<自己意識>の<閾値>から漏れ落ち、排除されたもの」の自己主張が様々な形でわき出してきて、表面化した段階である、と感じている。また、揶揄するお立場の方の中には、「それ自身が内なる他者として排除したものとの関係」を取る事に対する拒否的な見方を感じることもある。
だが、「地すべり」は既に起き始めている。「家族の丸抱えor施設・病院への丸投げ」といった二者択一的な制度設計は、地域生活支援の充実というパラダイムシフトの中で、「『非中心化』→『脱実体化』させ」られつつある。この検討会では、支給決定プロセスや地域移行などで、一見すると多くの対立点があるかのように言われている。だが、「自己自身の変形(=他成)といった事態を招き寄せるのは、それ自身が内なる他者として排除したものとの関係である」ならば、そういった論点は、その論点自身が「内なる他者として排除したものとの関係」がより先鋭化した為、「自己自身の変形(=他成)といった事態を招き寄せる」結果に至ったのである。単純に言えば、障害程度区分という介護保険に似せすぎたスケールで計ろうとしたことや、「○○障害だから施設でしか暮らせない」というリアリティを構築してきた事によって、排除されてきたものの、構造への「逆照射」であり、<閾値>の捉え直しが、切迫した状態にまで迫ってきた為、「地すべり」が起き始めているのである。
この「地すべり」的局面において、これまでの「先行する特定の意味空間のなかで実体的な相貌を得てい」た中心的「諸要素」の中からは、「そんなのムリだ」「夢物語だ」といった話が聞こえてくる。突破する為の理由を一つ考えるのではなく、出来ないための言い訳を100考えているような現状だ。しかし、残念ながらそのようなスタンスは、確定性への盲信と不確定性への恐れが関連している気がしてならない。それを、木村敏氏の指摘を補助線にして考えてみる。
「患者が妄想を抱き、幻聴を聞き、理解しがたい行動を示すのも、彼が主体として生きようとしているからなのであって、それを異常だとか病的だとか言うのは、その主体性を捨象したこちらの勝手な判断に過ぎない。患者を主体として見ることによって、個々の症状の意味は主体的に『生きること』の困難さにまで還元される。精神病の治療目標はもやは個々の症状の消去ではなくなって、患者が-ときには症状を持ちながら-主体的に生きてゆく努力の援助ということになる。」(木村敏『生命のかたち/かたちの生命』青土社、p21-22)
精神分裂病は「あいだ」の病だ、と喝破した木村敏氏の論には、頷く部分が多い。上記の指摘は、、医者が単に患者の病状だけを取り出して分析的・因果論的に考察しても、「表面的な症状の消長」は果たされるかも知れないが、「病状の根底にある分裂病の基礎構造への問い」が抜けている為に、「主体性を捨象したこちらの勝手な判断」に囚われているのではないか、という批判である。そうではなくて、「患者を主体として見ることによって、個々の症状の意味は主体的に『生きること』の困難さにまで還元される」、その状態と医師は向き合うべきではないか、と指摘してる。これは、先の鷲田氏の言う「排除されたもの、逸脱するものは、それを排除したもの、それを逸脱として規定したものの構造をときとして逆照射する」という事態そのものではないか。因果論的な論理、これまでの「中心的」だった論理から「排除」されたものによって、「地すべり的移行」が迫られているのではないか、と。
また、この点に関して、木村氏は次のようにも言う。
「『不確定なものが変更不能のものになる』というのは、未来が過去になるということだ。物理学の時間には未来も過去も、『以前』も『以後』もない。未来の不確定が過去の確定に変ずるところ、そこにかたちが発生する。そこには生命がはたらいている。生命あるものにとっては、存在はつねに生成としてしか与えられない。」(木村敏『生命のかたち/かたちの生命』青土社、p111)
制度を作り直す、というのは、未来に向けての「不確定なもの」である。一方、今の制度を守るというのは、「変更不能のもの」である「過去の確定」を保持するところである。制度は一見すると静的なものに見えるが、人間が創り出すものであり、その時々の状況や社会環境によって不断に変化していくものである。それは人間が創り出したものとして「生命あるもの」とも言えるかも知れない。私たちは制度はコントロール可能だと思いこんでいるが、介護保険がスタートして10年で理念が大きくぐらついたり、支援費制度は創設初年度から「アンコントローラブル」と言わしめたりするように、制度も生き物と捉えた方が良い。
すると、命ある制度に対して物理学的な、因果論的なロジックだけでコントロールしようとする事自体が、違った尺度で測っていることになりはしないか。視点を変えたら、常に「不確定なものが変更不能のものになる」というプロセスが、<制度化>というプロセスではないか。であれば、「地すべり的」移行の現実を前にして、「過去の確定」に固執するのではなく、そこから漏れだした、排除された何かを拾い集めることが先ではないか。そして、障害者福祉の制度改革で言うならば、先の木村敏氏の発言を用いるならば、「障害のあるAさんが-その障害持ちながら-主体的に生きてゆく努力の援助」を、どうシステム的に支えるか、が問われているのではないか。
今、少し気になるのは、介護保険や自立支援法といった「過去の確定」にこだわって「不確定」への「地すべり的」移行を拒絶する雰囲気が見え隠れすることだ。でも、鷲田氏の発言を繰り返して引用する。
「われわれが自明のものとしている<世界>が、実はさまざまの可能的な<かたち>のうちのひとつにすぎないことを忘れてはならない」
であれば、障害のある人が主体的に地域で暮らすために、どのような「地すべり的移行」を果たすべきか。何を非中心化、脱実体化させ、そのオルタナティブに、どのような新たな「意味空間の構造的布置」を置けばよいのか。そういう真摯な議論が、市町村や都道府県、国と議論する場の如何に関わらず、行われてほしい。そう願っているし、一アクターとして、それを実践し続けようと思っている。