森を見るために

マルメのホテルもそろそろ出る時刻。簡単にスウェーデン滞在を振り返っておきたい。

スウェーデンには、気が付けば二年に一度のペースで来ている。最初に訪れたのが大学院の修士2年だった11年前。それから、いろんな調査やご縁があって、7,8回は来ているだろうか。今調べていたら、随分昔に書いたレポートもネットに載っていた。2003年には5ヶ月滞在するチャンスもあった。今回の滞在は、これまでの調査の延長線上だが、違った色合い、質感として捉えられる部分も少なくなかった。
スウェーデンの障害者福祉政策は、17年前に出来たLSSというものに、今も基づいている。このときに構築された対象となる障害者の3つのカテゴリー、10のサービス体系などは、ある程度の完成度が高かったようで、現在でもそのまま使われている。2003年にイエテボリに滞在した際、障害者へのサービスの支給決定の流れなどのシステム的現状を調べたが、このときの報告書は、内容にはアップデートすべきものがあるものの、大枠としてはまだ使える、ということもわかった。(その報告書は次のHPに
今回わかったのは、スウェーデンではその体系をうまく活かすために、様々な積み重ねをしている、ということ。例えばサービス内容に不服を持つ当事者は行政裁判所に訴えるが、その行政裁判所の判例の17年分の積み重ねが、システムの安定性や公平性を保つために大いに活用されている、ということ。障害程度区分といったコンピューターシステムに頼らなくても、一定の公平性は担保出来ることが見えてきた。その時、例えば判断が分かれる長時間介助などについては、支給決定のレベルで三重のチェックを行っていることや、その中で過去の判断基準のデータベースがかなり活用されていることなどもわかってきた。繰り返し言うが、一定の公平性は、コンピューター判定をしなくても、別の方法で十分に実践されている、ということだ。
今回、それに加えて特に興味深かったのは「標準化」を巡る議論。日本では、ケアマネージャーや支援の質の標準化について、様々な議論がなされている。今回、スウェーデンのソーシャルワーカーに、アセスメントにおける標準化について質問をした。その答えが、ある種の「あっぱれ」であった。
「確かにトイレ介助などは、一人何分、など標準化しやすいと言えるかも知れない。でも厳密に言えば、トイレ介助だって、その人の障害の状態によって時間は変わるし、そうやって標準化することは出来ない。私たちは、標準化に力を入れるのではなく、個別のニーズをきちんとアセスメントすることを重視している。」
ごく当たり前のことなのだが、目から鱗、でもある。確かに医療においては、エビデンス・ベースドや質の標準化はある程度可能なのかも知れない。身体器官や臓器は、ある程度の標準的体系を持って動いている。だが、その身体器官をどのように活用するか、という部分は、その文化や社会、というマクロだけでなく、その人の家族関係や考え方、生き方といった、個人レベルでの差異にも大きく左右される。これを標準化するのは、同じ障害であればAさんとBさんが同じ人だ、というのと同じような愚考。頭でわかっていても、標準化の魔力に何となく引っかかっていると、それ以外の有り様を示された時に、そうだよね、と改めて納得する。
また、こう書いていくと、物事をどう捉えるのか、についての己が文化の限界が見えてくる。標準化に代表される考え方は、効率を重視するものの考え方だ。だが、効率は、必ずしも標準化でのみ達成出来る訳ではない。例えばスウェーデンでも障害者のニーズを判定する際にコンピューターを活用する。だが、それは日本のようにADLを機械的に判定するのではなく、これまでどのような障害の、どのような状態のひとに、どういう判断をしてきたのか、という実際の判断内容についての情報を蓄積し、データベース化してきたのだ。つまり、我が国の標準化は、標準化の一つの手段であって、他の手段だってあり得るし、その標準化にもかなりの蓄積と説得性があるのである。
こういう風にみていくと、スウェーデン人の論理構築のあり方や、制度構築の考え方もかいま見えてくる。現場の判定員が、考えながら制度のリアリティを積み重ねていき、その叡智を他とも共有しようという姿勢が、このシステムの継続性を支えている。ワーカーが自分で考える事よりも、障害程度区分という判断基準の「客観性」を担保することを重視する我が国とは、考え方が違うのだ。
別にスウェーデン人が素晴らしくて日本人が劣る、ということを書きたいのではない。この国のシステムにも、固有の問題は色々あるようだ。ただ、他国の制度構築の考え方やその社会的コンテキストを読み解いていくなかで、我が国の制度構築の考え方や、その社会的コンテキストを否が応でも意識せざるを得ない。その中で、どういう歪みやズレが他国と自国で生じた結果、今に至っているのか、についても、おぼろげながら見えてくる。そして、その文化的コンテキストや制度構築のプロセスを理解した上で、出来上がった制度比較をしない限り、「木をみて森をみず」になることも、よくわかってきた。
さて、ロンドンでもちゃんと森がみれるかしら。今から、旅立ちます。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。