週末に伊豆に出かけてきた。選んだのは、楽天で評価の高かった「海童」というお宿。3部屋しかない民宿だが、居間とは別にベッドルームもあり、また食事もそれぞれ専用の食事スペースで食べられるので、温泉宿特有の、仲居さんに急かされるパターンは皆無。非常にのんびりできた。金目鯛も目茶旨く、海をみながらのお風呂も最高だった。
その旅先で読み続け、昨晩読み終えた本に、読後の今も揺さぶられている。
「僕は僕の心の中に深く暗い豊かな世界を抱えているし、あなたもまたあなたの心の中に深く暗い豊かな世界を抱えている。そういう意味合いにおいては、たとえ僕が東京に住んでいて、あなたがニューヨークに住んでいても(あるいはティンブクトゥに住んでいても、レイキャビクに住んでいても)、我々は場所とは関係なく同質のものを、それぞれに抱えていることになります。そしてその同質さをずっと深い場所まで、注意深くたどっていけば、我々は共通の場所に-物語という場所に-住んでいることがわかります。」(村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文芸春秋 p188)
村上春樹の小説に初めて心かき乱された(disturbed)のは、大学年生の夏休みだったろうか。「ねじまき鳥クロニクル」を読んでいて、井戸の中にいるオカダトオルに同期したような気がして、竜巻の中に身を置くような、かき乱された気分になった。若気の至り、とは別の種類の、パンドラの箱が開かれたような気分。それはインタビューに答える村上春樹氏の言葉を借りたら「あなたの心の中に深く暗い豊かな世界」と、「ねじまき鳥」で展開される「僕」の「深く暗い豊かな世界」がアクセスした瞬間、であろうか。良い子ぶりっ子していた自分の中に、こんなに「深く暗い」世界が潜んでいる事に驚きながらも、むさぼり読んでいたような気がする。
「作家が物語を立ち上げるときには、自分の内部にある毒と向き合わなくてはなりません。そうした毒を持っていなければ、できあがる物語は退屈で凡庸なものになるでしょう。ちょうど河豚のようなものです。河豚の身はとてもおいしいのですが、卵巣、肝臓などの部位には致死量の毒を含んでいることもあります。僕の物語は、僕の意識の暗くて危険な場所にあり、心の奥に毒があるのも感じますが、僕はかなりの量の毒を処理することができます。」(p424)
僕自身がこないだから苦しんでいたのは、自分自身が書いている文章が「退屈で凡庸なもの」である事に対して、だった。毒もピリリとした刺激もない、誰が書いても代替可能な文章。顔のない文章。書いている当時はワクワクして、一所懸命書いたはずなのに、時間が経って見直してみると、非常にreader friendlinessに欠けていることがわかってきた文章。自分の語りと、他者(査読者)の視点が重なり合わない文章。陳腐な規範的な物言いの文章・・・。
直接的にはこの夏の宿題となっていた原稿類についての思いだが、そもそも文章を書くということ全体に対しての懐疑的な気持ちが、今になって極大化しつつある、という方が、正鵠を得ているだろうか。とにかく、文章を書いていて楽しくなかった。・・・ということに、彼の本から改めて気づかされる。
「まあ確かに人生には、楽しいこと面白いことがいろいろあるとは思うんです。たとえば女の人と遊んだり、賭け事をしたり。ただ僕はたまたま他の何よりも、うまく小説が書けるわけ。女の人もべつに口説けなくはないけど、それでもやはり女の人を口説くよりは小説を書く方が得意ですね、どちらかと言えば(笑)。そしたらやっぱりそのいちばん得意なことを、少しでもいいからもっと奥まで突き詰めていきたいじゃないですか。小説以外で、翻訳はやってますけど、それ以外のことはあまりやりたいと思わないんですね。小説書くか翻訳するか。小説はいつ書いてられないから、小説を書いていないときは翻訳をするし、小説を書きたくなったら小説を書く。『注文を受けては小説を書かない』というのは、ほとんど最初から通していることです。何月何日までにという締め切りができちゃうと、ものを書く喜びがなくなっちゃうから。自発性も消えてしまうし。」(p516)
「ものを書く喜び」が文章の中にないと、その文章は死んだ魚のような腐臭がしてくる。「毒」にき合う覚悟がないと、背骨の書けたクニャクニャな文章になる。「奥まで突き詰めて」いない文章は、「退屈で凡庸」であり、深みと拡がりにかける。自分自身がある文章表現を通じて「心の中に深く暗い豊かな世界」に降りていかないと、他者と「共通の場所」にたどり着く事が出来ない。そんな陳腐な文章は、小説であれ論文であれ、読んでいて面白くない紙屑以外の何ものでもない。そして、僕自身、締め切りに焦って、「ものを書く喜び」から遠ざかり、非自発的な「紙屑製造器」と化しているのではないか・・・。
手あかの付いた理論、言語、フレーズに自己陶酔していると、その時には「楽しい」ようにみえても、後で読み返したら、実に陳腐な文章であることが少なくない。自分が何かを伝えたい、と思うなら、わかりにくいフレーズに自己陶酔するのではなく、わかりやすいメッセージに書き直す・書き換える自己洞察が必要だ。
「何かを人に呑み込ませようとするとき、あなたはとびっきり親切にならなくてはならない。『いや、自分さえわかていればそれでいいんだ』という態度では、ほとんど誰もついてきてくれない。」(p201)
自分自身の「深く暗い豊かな世界」をを掘り下げ、「もっと奥まで突き詰めて」いくこと。そして、それを表現する時には、「毒」を排除せずに腑分けしながら、向き合っていくこと。その上で、「とびっきり親切」にわかりやすく書いていく事。
単に自分自身のこだわり、といった私的な次元での掘り下げで終わらず、普遍的な課題にアクセスするまで掘り下げた上で、それをユニバーサルな(簡易で分かりやすい)言語として書き示す事。これはなにも小説だけでなく、僕自身の文章にだって求められている。
恥ずかしながら、この本を読むまで、僕自身、文章を書く際の「書く喜び」を忘れかけていた。それをどう呼び覚まし、かつプロとしての書き手、でいられるか。これは僕自身の実存にも結びつく課題である。