「書き残さなくてはならないもの」

昨日、「最後の夏休みの宿題」を脱稿。夏休み明けに宿題を泣きながらやる学生そのものの気分が、ロンドンから帰って1ヶ月、ずっと続いていた。へとへとだった。

何だか今年は様々なものが一気に引き寄せられる。国際学会に7月8月と連続で出かけたのだが、エントリーする時には、そんなに忙しくなるとは思いもしなかった(いや、少しは想像しろよ、と突っ込みたくもなるが・・・)。そして9月は半月ほどスウェーデン→イギリスと調査旅。
そんな中で、4月から7月に書き続けた論文2本の査読が、スウェーデンに発つ直前と、イギリスにいる間に帰ってきて、「若干の修正をすれば掲載可」と言われる。ただ、査読者のコメントを読んでみると、どちらも「ある程度書き直した方が良いよ」というメッセージ。頭の固い僕は、パッと文面を読んだ時、全面的な改訂を求められているのかと勘違いし、目の前が真っ暗になる。だが、こういう時に、「大阪のお母さま」と敬慕する方から言われた、頭に入ってくる秘密を思い出す。「頭に入ってこうへん文章は、一字一句違わず書き写してみたらいいのよ。」 この助言を思い出し、コピペをせずに、査読者の文章を一字一句、ワードで書き写す。すると面白いもので、査読者の方が、どういう論理展開で、どういう思いで、この文章を書いているのか、がジワジワこちらに伝わって来るではないか。更に言えば、どちらも「もうひと頑張りしたら良くなる」という励ましの思いまで伝わってくる。
なので、ロンドンから帰国した後、まずは査読者の思いを理解した上で、何度もそのコメントを読み直し、対話するつもりで、自分の文章を削って、新たな視点を書き入れていった。そう、ワインバーグの文章作法について書いた以前のブログを思い返しながら、15%くらい文章を削り、指摘されたポイントについて、自分なりのレスポンス(応答)という形で書き入れていく作業。削った中身については、結構自分の主張やこだわりが全面に出ている部分も含まれていたのだが、逆にそれに囚われて、文全体の主旨から逸脱しているようにも見えるところは、バッサリと切った。だが、ワインバーグ氏の言う「たまねぎ風味のバター」よろしく、「もうそこにない言葉の風味がとじこめられている」言葉や文章の方が、味わいが深くなったような気がする。そんな書き直し作業を、この1ヶ月、ずっと続けながら、間に12000字の依頼論文も書いていたので、本当に書く事に追いつめられたような1ヶ月だった。
だからこそ、前回にも引用した村上春樹インタビュー集に出てくる文章論には、本当に引き込まれている。彼の本は時期を置いて何度か読み返すのが通例なのだが、今回は間をおかずに読み返している。その中で、ちょうど文章書きに一区切りが着いた今だからこそ、ビビッと来る部分がある。
「僕に言えるのは、音楽を作曲したり、物語を書いたりするのは、人間に与えられた素晴らしい権利であり、また同時に大いなる責務であるということです。過去に何があろうと、未来に何があろうと、現在を生きる人間として、書き残さなくてはならないものがあります。また書くという行為を通して、世界に同時的に訴えていかなくてはならないこともあります。それは『意味があるからやる』とか、『意味がないからやらない』という種類のことではありません。選択の余地なく、何があろうと、人がやむにやまれずやってしまうことなのです。」(村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文芸春秋 p177)
これは欧米の研究者の世界で言われる”publish or perish”(書くか、消えるか)というのとは、性質が違う表明だ。この”publish or perish”というのは、あなたが発見した事を書かなければ、あなたの業績は誰にも記憶されない、という意味合いがある。「発見した事」に焦点化しているようでいて、結局は「あなたの業績」という属人的要素に還元する論理が見え隠れする物言いだ。だが村上春樹氏は、自身の小説を指して、「人がやむにやまれずやってしまうこと」という。つまり、書き残される事を求めるストーリーを、媒介者として立ち上げていく、というのが、彼のメッセージである。もちろん、そこに村上春樹という人物を通じて、という属人的要因がかなり絡んでいる。だが、それが優先順位の第一位ではなく、あくまで立ち上がる物語が第一位にある、という点が、先の”publish or perish”とは大きく違う点だ。
そう考えていくと、ささやかながらこの1ヶ月間で書き直していた論文という名のストーリーについても、それも書いている私より、書かれている対象世界について、「書き残さなくてはならないもの」という思いを強く持って書いた内容だった。どちらも僕が沢山の事を学ばせて頂いた現場・人物のストーリー。僕はそれを小説という形式では書けないので、事実と理論から構成される論文という媒体で書き表した。そこには「客観性」「再現性」などのルールがある。そのルールを守りながらも、「たまねぎ味のバター」のように、自分自身の両者への思いを仮託させながら書き直した。そういう意味合いでは、村上春樹氏と立っている場所は勿論違うけど、自分なりに書くという事に真剣に向き合った1ヶ月だったような気がする。だからこそ、次のフレーズも、今の僕には、よくわかる。
「本を書き終えたあとの僕は、本を書きはじめた時のぼくとは、別人になっている、ということです。小説を書くことは、僕にとって本当にとても重要なことなんです。それはたんに『書くこと』ではありません。数ある仕事のうちのひとつというわけにはいかないんですよ。あなたがおっしゃったように、それは通過儀礼のひとつのあり方でしょう。さまざまな障害に直面する主人公とともに、僕も進化するんです。」(同上、p155)
僕自身、どれほど進化したかどうか、別人になっているほどその論文世界に入り込めたか、というと、正直覚束ない。だが、その通過儀礼を経て、少なくとも「たんに『書くこと』ではありません」という心境については、自分事として理解出来るようになってきた。僕自身にとって、ある物語を、それが論文という形式を通じてであれ書くことの切実さ、を感じ始めている。今は少し疲れたので、これから再びインプットの時期に戻るつもりだが、また遠くないどこかで、次の物語を書きたい、と漠然と思っている。どういうテーマになるかは、まだ内的必然性を持って迫ってこない。で
も、書くべきときに、書くべきことを、書き残しておきたい。この1ヶ月を経て、気づけばそう思い始めている自分がいる。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。