溺れずに泳いでいくために

一昨日は東京、昨日は三重と仕事続き。なので、今日は身体がだるい。火曜は東京の仕事が良く入るが、今日はたまたまその予定もなく、1限の講義の後も、学内でなんやかやと雑用をしている。なので、お昼の時間にアップ出来る。

さて、一昨日は東京駅でI先生とワインを二本も飲んでしまった後、津まで向かったのだが、近鉄電車で乗り過ごしてしまうし(幸い戻って来れた)、気がついたらipodくんが探しても見つからないし、とんだ顛末だった。昨日仕事の合間に、新幹線にも近鉄にもタリーズにも飲み屋にも会議場にも電話したけれど、どこからも出てこず。まあ、なくした直後に何となくご縁が切れたような気がしてしまったので、やっぱり…と思いつつ。しかもipodくんは第6世代に移行していて、小さくはなったけど、バッテリーの持ちも悪くなったとか。ごめんよ、以前のipodくん。離別して知るその有り難さ。
気を取り直して、音楽なく松坂から東京にまで戻り、「かいじ」乗り継ぎの途中で寄った本屋で見つけた一冊に引きこまれ、久し振りに一気に読み終えてしまう。
「自分の交際範囲の構成者とその連なりのパターンは、かけがえのなく世界に唯一のものである。人々が一人一人固有に持っている、過去からの人間関係の蓄積。それまでの生涯で出会った他者が与えたすべての影響の結果として、私たちは存在している。それはアイデンティティともパーソナリティとも見なしうる。私はこれを『ネットワーク・アイデンティティ』と呼んでいる。(略)ネットワーク・アイデンティティこそが、その人の行動や思考を形作り発動させる。あなたが日本語をしゃべるのは、たまたまあなたの両親や周囲の人々が日本語を話していたからにすぎないのだ。あなたの言語しかり、動作や、趣味しかり。能力や資質でさえ、生まれて以来、出会ったありとあらゆる人々とのインタラクション(相互作業)の賜だ。」(『「つながり」を突き止めろ』三宅雪著、光文社新書p42-43)
ネットワーク・アイデンティティが行動の準拠枠にある、という視点は、言われてみたら確かにそうだよな、と思う。自分の行動や思考のかなりの部分は、「出会ったありとあらゆる人々とのインタラクション(相互作業)」の中で形成されている。著者が言うように、能動的に切り開ける「誰かとの繋がり」だけでなく、管理やコントロールしにくい「誰かからのつながり・影響」も含めて、多くのネットワークの網の目の中で、自分が形成されてきた。家族や学校の担任などは、自分から選べないような「誰かからの繋がり」だし、友人関係を作り直したり、転職したり、ひっこししたり、等はネットワーク・アイデンティティの能動的リセット、ともいえる。
ちょうど今日の地域福祉論では「ひきこもり」についてべてるの家の「ひきこもりのすすめ」というビデオを観ながら考えるコマだったので、早速このネットワーク・アイデンティティの概念を講義の説明の中に取り入れてみた(まさにfrom hand to mouthそのものだ)。現前にあるネットワーク・アイデンティティに対して疑問や怒り、辛さや不満を持った時、尚かつそのネットワークを能動的に切る(=筆者なりに言うと「橋を燃やす」)ことが出来ない人の場合、自発的に・あるいは何となく、そのネットワークから退却すること。それが「社会的ひきこもり」の一つの側面とは言えないか、と。あるいは引きこもるのも、「橋を燃やす」行為の一形態か、とも。
現にビデオに出てくるべてるの家の当事者のみなさんは、浦河に来たら話せるようになった、つながるようになった、と複数の人が述べている。切れてしまったネットワークの再生が、セルフヘルプグループのような「わかちあい」の出来る場だからこそ出来るのではないか。そういうインキュベーションの器にたどり着かない限り、これまでの自分のネットワーク・アイデンティティに納得も積極的再構築も出来にくいからこそ、「ひきこもり」という形での積極的な行動化に出るのではないか。また、逆に言えば、日本社会のネットワークに対する同調圧力の強さが、自殺や引きこもりといったそのネットワーク・アイデンティティからの「逃走」「退却」を助長しているのではないか、と。
ただ、そうはいっても、このネットワークには、直接対面したネットワークだけではなく、本当は本や映画などの二次元ネットワークの影響も入れた方がいいような気がしている。例えば僕の今の仕事のスタンスは、実際に師事した指導教官や親しくさせて頂いている諸先輩方といったリアル空間のネットワークから、もちろん大きな影響を受けている。だが、僕自身の生き方・考え方は、こういったリアルネットワークだけでなく、このブログにも何度も紹介しているが、全巻を読み続けた村上春樹、池田晶子、内田樹といった作家からも、文章を通じて大きな影響を受けている。お三方とも勿論逢ってみたいが、池田晶子さんは会わないうちに夭逝され、村上春樹氏や内田樹氏とも今のところネットワークでつながっていない。しかし、つながりのある程度深い友人よりも、僕はこのリアルな繋がりのない3者から大きな影響を受けている。そして、これらの著者が僕と同じように本を通じて多くの影響を受けているドストエフスキーやソクラテス、レヴィ=ストロースからも、間接的に大きな影響を受けているし、改めて自分で読んでみても大きな出会いを感じている。
そう考えると、一方的な出会い(ファン)も含めたネットワーク・アイデンティティが自分自身なんだな、と改めて感じる。先の社会的引きこもり論に戻ると、リアルな世界でのネットワーク・アイデンティティから一度退却した引きこもりの当事者は、ネットやビデオ・ゲーム、漫画や映画といったネットワークの網の目の中で何とか自分を保っている、という。このあたりも、現実のネットワークからの遊離を、バーチャルなもので代用しているという実態と、それだけでは代用出来きれない限界、また実際のネットワーク・アイデンティティを再構築したいけど出来ない、という当事者の想いとズレ、なども見えてくる。
ついでに言えば、バーチャルな世界でのネットワークが、自分自身のアイデンティティにとっての大きな構成要素となるためには、リアルな世界でのネットワーク・アイデンティティとのインターアクションを通じての活性化が必要なのかも知れない。単にゲーム好き、マンが好き、読書きです、というだけでなく、実際にその作家からの影響を何らかの形で外在化させ、現実の言動の中に入れ込み、それを通じた他者とのコミュニケーションの中に反映させることを通じて、初めて自分自身のネットワーク・アイデンティティに昇華するのかもしれない。
今年僕は特に意識して、これまで読まなかった新たなジャンルの本を取り入れようとし、自分の可動領域を拡げようとしている。その中で、新たに「つながった」人だけでなく、本や考え方も少なくない。そして、気づいた中身をこうやってブログやツイッターに書きながら、またその書いた内容についてメールやツイッター、お会いした方との議論などを通じて影響を受けながら、変容の途上にいる。また、国の制度改革推進会議にコミットすることになった結果として、「自分に向けられていて自分がまだ気がついていない、他者からの潜在的な援助や愛情、避けるべき悪意や妨害も含めて、他者から自分に向けられてくる関係」(同上、p235)も加速度的に増えていると感じている。
関係づけ、関係づけられる。このインターアクティブな関係の大海の中で、溺れずに泳いでいくために、改めて自分から外部に求めるネットワークの意識化、だけでなく、「行為者が受けている関係、そして関係の性質」(p237)にも目を向けねば、と気づかされた一冊だった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。