「物語」を紡ぐために

今日は久々に研究日らしい研究日。

大学の教員の仕事としては、教育、研究、社会貢献と3つの役割が一般的に課せられている。ま、それだけでなく、近年はどこの大学でも「学内業務」というのも時間・役割的にも重くなってきている。僕もご多分に漏れず、入試委員なので、明日の土曜日もオープンキャンパスで出勤。また、福祉業界は秋は研修が多いので、授業のない月曜とか金曜は、研修の講師をしている事も多い。例えばこの月曜日は、三重での市町職員エンパワメント研修だったし、来週月曜日は精神保健福祉ボランティアの研修、金曜日のサービス管理責任者研修初日。さらには来週火曜の午後は障がい者制度改革推進会議総合福祉法部会もある。そうそう、とある市の移動支援の会議の打合せも水曜日だったっけ。社会貢献も、大切な仕事だ。
そして、忘れてはいけない本業である教育も、後期が始まったので、もちろんエネルギーを注ぐ。後期は講義としては「地域福祉論」「ボランティア・NPO論」。あとはゼミ・演習系が4コマ。このうち「地域福祉論」は、生きづらさ、をテーマにし始めたらナラティブ論に進み始めているので、「当事者の語りから見える生きづらさとコミュニティ」をベースに再構築し始めている。自殺や精神障害、引きこもりに認知症、社会的排除やホームレス問題を全部扱おうとするので、かなり昨年度と結果的に内容を入れ替えてしまい、面白いけど予習が大変。また、「ボランティア・NPO論」は「もしドラ」のケーススタディーから入ったので、非営利組織のマネジメントをサブテーマに進める。これも、昨年とは違う展開なので、火入れが面白いけど、大変。さらに3・4年のゼミはいよいよ卒論に向けた議論がスタートし、毎週2コマぶっ続けで連続ゼミ。とまあ、ちゃんと教育も力をいれている。
すると、恐ろしい事に、義務や強制力が一番少ない所に、最もしわ寄せが来る事に。それはどこかって? 研究なのです。だって、やるのもやらないのも自由。共同研究だったらお相手から声がかかったり、依頼原稿だったら〆切もあるけど、それ以外については、勉強する自由(としない自由)があるため、忙しいとどうしても「先延ばし」。それが、自分自身の「知の劣化」に繋がると、ひしひし分かっていながらも、なかなか緊急・重要な案件に縛られ、「緊急でないけど重要」な研究が置いてけぼりになる。こういう事態が続いてきた。で、これではアカンと一念発起して、ここしばらく、海外の学会発表をしたり、査読に投稿をしたり、と、バーを自ら上げて闘って来たのだが、ようやく一区切り着いたので、ちょっとここらで「頭の中の棚卸し」。今日は〆切仕事から離れ、ここ最近気になる事象について、着想的に言葉を拾う旅に出たのだ。キーワードは「物語」と「メゾ」、そして「社会起業家」。少し、今日潜ってみたさわりを書いておきたい。
フックはツイッターからだった。ちょうど障害福祉領域における社会起業家についての論文の校正を終えた後、山梨県での相談支援専門員の研修会や三重県での市町エンパワメント研修などを通じて、あれこれ考えが沸き起こってきたのを、備忘録的にツイートしておいたのだ。たとえば、こんな感じ。
この5,6年、支援組織の改革や人材育成、自立支援協議会の支援などをしているが、どれもメゾレベルの支援という共通性がある。マクロな福祉計画、ミクロの個別援助の専門家はいても、メゾレベルの支援に長けた専門家やコーチが決定的に不足している。だから僕みたいな若造にもお鉢が回ってくる。
 
福祉分野の、現場に役立つ非営利組織論や組織開発、人材育成論が少ない。本人中心の個別支援計画の作成プロセスを通じた職員・当事者の相互エンパワメント、ミッションの(再)定義に基づく支援組織の改革など、考えるべき課題は沢山あるというのに。ま、批判の刃は自分にも突き刺さるのですが。
 
メゾの議論、というのは難しい。マクロの圏域・県レベルの全体像と、ミクロの個別の相談支援のリアリティの双方を理解した上で、その双方の解離を解きほぐす必要がある。ただ、ミクロとマクロは独自の動きを持っており、両者の出会いは同床異夢になる可能性が少なくない。どうすれば同じ夢になるのか。
 
メゾは一番理解されにくい。マクロな「大きな物語」も、ミクロの「個人の物語」も、他領域の人にもストーリーとして理解しやすい。だが、その二つがどうつながっているか、についての物語は、メタ物語的であり、下手をすれば「空理空論」「タコツボ理論」になりやすい。つなげる物語のリアリティとは?
 
「以前の活動家は外からの変化を求めてアクションするのに対して、社会起業家はシステムの内と外の両側からの変革をもたらそうとしている」というフレーズを、ボーンスタインのSocial Entrepreneurshipの中に見つけた。今、活動家ではなく、社会起業家を目指す自分がいた。
 
この1週間の自分のツイートをいくつか抜き出してみたが、ツイッターは思考のフックとしては適した媒体だと改めて感じる。140字というのは、書けないようでいて、そこそこの内容が伝えられる。まとまった内容以前の、アイデア出しの段階で、インタラクティブに考えを深めていけるのも、このツイッターの魅力なような気がする。妻からは「ついったーヒロシ」という嬉しくないあだ名を頂いてしまったが、決して遊んでばかりいるわけではありません(笑)
閑話休題。
前々回のエントリーで村上春樹の物語論に触れていたが、小説家が自身の内奥から沸き上がるストーリーの具現化を目指すとして、研究者である僕はどういう立ち位置で、何を書きたいのだろう、とずっと考えていた。ちょうど、1週間前にはこんな事も書いていた
僕自身にとって、ある物語を、それが論文という形式を通じてであれ書くことの切実さ、を感じ始めている。今は少し疲れたので、これから
再びインプットの時期に戻るつもりだが、また遠くないどこかで、次の物語を書きたい、と漠然と思っている。どういうテーマになるかは、まだ内的必然性を持って迫ってこない。でも、書くべきときに、書くべきことを、書き残しておきたい。
僕によって書かれることを求められている「物語」とは何だろう。そう1週間前に問いかけて(外在化させて)みた。そして、この一週間の間に浮かび上がってきたのが、どうやらメゾレベルの物語であるらしい、ということだ。というか、僕自身がずっと興味関心を持ち、かかわり続けているのが、このメゾレベルの物語なのである。それに関連して、今朝めくっていた本の中で、興味深いフレーズに出会う。
「臨床的知識と科学的知識が別の観点のものであることは、末期的状況を考えてみれば明白です。<何が道理に適っているか(reasonable)>と<何が筋道が通っているか(logical)>は別物です。(略)<語り>があつかう知識も、状況のもつさまざまなロジカルな矛盾のなかでリーズナブルな解を探すものです。<語り>の生み出す知識は、ロジカルなものではないとすれば、状況というパラドックスに満ち、多義性や曖昧さに溢れた複雑さに直面し、人間の分厚さ、豊穣さを知る具体的な人間だけが、相互に打ち合うことによって発展させることができるものだということになります。」(高井俊次「ことばが人に届くとき」『語りと騙りの間』ナカニシヤ出版 p16)
「状況のもつさまざまなロジカルな矛盾のなかでリーズナブルな解を探す」というフレーズは、僕自身がずっと追いかけて来たことである。例えばとある福祉組織の組織論的な問題に取り組んだ事があったが、これも、その施設の職員達の<語り>の中から、「リーズナブルな解を探す」取り組みの一つであった。あるいは、山梨や三重でやっている地域自立支援協議会の立ち上げ・運営支援も、その地域毎によって違う、「状況のもつさまざまなロジカルな矛盾のなかでリーズナブルな解を探す」場とそこで探索する主体者のエンパワメント支援をし続けているのかもしれない。そして、それは現場で求められている「相手と共に語る」専門家の人材育成に絡む事でもある。
「専門家は専門家としての知識や意見があるにもかかわらず、それが相手を黙らせてしまわないのなら、共同の目標に向かうための資源に活用されるのなら、『会話のパートナー』になれるはずです。それは、水平かつ民主的、権威的や父権的ではない関係の中で、会話は成立し推進力を得て行きます。両者にとっての未知の領域に足を踏み入れることが可能になります。」(野村直樹『ナラティヴ・時間・コミュニケーション』遠見書房 p58)
この「会話のパートナー」という発想は、もちろん本人中心という意味で、個別支援の際には大切なポイントであるだけでなく、地域作りというメゾレベルにおいても、非常に大切だと思う。今、地域自立支援協議会がうまく行っている所とうまくいっていない所の差も、実はここにあるのではないか、と思う。例えば行政の担当者が、マクロレベルの福祉計画や財政のみに目を奪われ、ミクロレベルの当事者・支援者の<語り>を「よくわからない」と突き放したり、逆に「わがままだ」と耳を塞いだり、「指導しなければ」と上から目線で考えていれば、どうしたって垂直関係になる。一方、ミクロレベルの当事者-支援者関係が水平でなければ、マクロレベルの行政担当者が「そういうものだ」と思いこむのも無理はない。つまり、ナラティブセラピーに代表される「物語的真実」とは、個別支援の部分だけでなく、地域の社会資源作りのコンテキストにおいてもすごく大切ではないか、と思い始めている。そう、僕が今まで出会ってきた「地域を変える先駆者」って、「共有出来る物語」を産み出す語り部でもあった。
こう考えてみると、実はメゾレベルで地域を変えている人々は、社会的起業家(Social Entrepreneur)でもあるのだ。そういえば、社会的起業家について最も定評ある定義を用いると、社会起業家は次の5つの行動を通じて、社会セクターにおけるチェンジ・エージェントの役割を果たすという(Dees2001:4)
・(単なる私的な価値ではなく)社会的な価値を創造し維持する使命を採用する
・そのミッションに貢献する新たなチャンスを認識し、執拗に追求する
・継続な創造、適応、学習のプロセスに従事する
・現在手に入る資源に限定されることなく、大胆に行動する
・対象とする顧客層への、また創造する結果に対して高い説明責任を果たす
この中で、「社会的な価値を創造し維持する使命」とは、これもひとつの「物語」とみなすことが出来る。その地域のローカルなコンテキストに基づきながら、「現在手に入る資源に限定されることなく、大胆に」望ましい、あるべき姿を模索する「物語」。専門家と当事者が「共同の目標に向かうため」の道しるべとなる、そんな「物語」。そういう「物語」を紡ぎ出そうという使命がある人間だからこそ、「状況というパラドックスに満ち、多義性や曖昧さに溢れた複雑さに直面し、人間の分厚さ、豊穣さを知る具体的な人間だけが、相互に打ち合うことによって発展させることができる」存在に昇華していくのではないか。そう考え始めているのである。
まだ今日はとっかかりなので、決してブログの文章もこなれてはいない。だが、メゾレベルで物語を紡ぎ出す社会起業家が障害者福祉領域にこれまでもいた、だけでなく、これからも求められるのではないか、と思っている。それは、当事者・家族・支援者・行政・・・どういう立場であってもいい。少なくとも民主的・水平的な「会話のパートナー」として、メゾレベルの場を切り盛りしていく存在。その中で、その地域における解決が困難な事例を、地域のシステムとして昇華させていく「物語」を紡ぎ出せる存在。あるいは、地域の中でバラバラになった夢や関係を紡ぎ直し、共有出来る「物語」として再構築出来る存在。そういう存在・物語について、もう少し整理したり、追いかけたりしなければいけない。今日、一日のんびり考えていて、ここまでは整理出来た。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。