「偶有性」から始まる旅の途上

今朝の甲府は気持ちがいい朝。昨日は一日、ひきこもって読みたい本を読み続ける「研究日」だったし、熟眠も出来たので、すこぶる調子が良い。こんな朝は、珍しく二日続けてブログに向き合う。どうしても、現時点での感想を書き付けておきたい一冊に出会ったからだ。

「自分の人生にまとわりついている偶有性の目眩く深淵に思いを致すと、私は不安の中に投げ込まれる。同時に、何故かは知らないが、根源的な生の喜びの中に人知れず胸がときめく。すっかり固定化したもののように思えていた自分の人生が、揺れ動き、ざわめき、甘美な予感に満ちた風が吹き始める。その時、私は『まさに生きている』と感じる。
『私は、全く他の者でもあり得た』
自分に時々そう言い聞かせることは、人生をその『偶有性』のダイナミックレンジの振れ幅のすべての中で味わい、行動し尽くすためにどうしても大切なことである。そして、私たちは往々にしてその呼吸を忘れてしまう。」(茂木健一郎『生命と偶有性』新潮社 p35)
「風が吹き始める」瞬間。その瞬間と、今年になって出会ったが故に、このフレーズに出会った時に電気が走った。「あ、あのことを指している」と。
何度か書いているが、35歳の今年、僕自身は大きな変容の渦の中にいる。直接的には、体重が10キロ落ちた(1月の80.8キロ→今朝は70.2キロ)とか、旅先の香港で気づきを得られた、とか、いろいろ理由を述べられる。だが、実際に僕の身の中で起こった事は、『まさに生きている』という実感を取り戻したことであり、それは『私は、全く他の者でもあり得た』という気づきをえたことでもあったのだ。他者の「○○だから仕方ない」という決めつけが大嫌いな筈の自分が、自分自身のダイエット出来ない事に関して、その呪縛をはめていた。それが体重の変化という形で、信念体系を揺るがす変化として現前化すると、「仕方ない」という言い訳が呪縛であったことや、「全く他の者でもあり得る」という「偶有性」そのものに気づき、「自分の人生が、揺れ動き、ざわめき、甘美な予感に満ちた風が吹き始め」たのである。
「目的に『居付いて』はならない。心身を柔らかく保たなければならない。何よりも、脳や身体の運動は、あらかじめ意識的に『目標』を設定し、それに向かって『制御』するいう形式にそぐわない。どのような事態に至るかわからないという『偶有性』を前提とし、柔軟に対応できるような構えでなければ、脳の潜在能力が発揮できないのである。」(同上、p176-177)
ひとたび「風が吹き始め」ると、上記のフレーズもしっくりと心の中に染み込んでくる。僕自身のこれまでは「目的に『居付いて』」いる場面が多くはなかったか。狭い意味での線形的な因果関係に引きずられ、ガチガチで狭い「目標」を設定し、それを「制御」することに必死になってはいなかったか。そして、その「目標」に「居付く」ことによって、その「目標」以外の周辺世界を見ないようにしてはいなかったか、と。
それを実感したのは、ちょうど昨日の晩にやっていた、NHKの「世界ふれあい街歩き」を見たときのこと。ちょうどスウェーデンの首都、ストックホルムの旧市街、ガムラスタンから南の島、スルッセン近辺へとカメラが進んでいった際のこと。僕はストックホルムにではないけれど、スウェーデンに半年住んだこともあり、ガムラスタンやスルッセンには何度も出かけている。見知った風景もある。だが、そこで取り上げられたスウェーデン人の生活の一コマとまったくといっていいほど出会っていなかった。何度もスウェーデンに訪れるのに、スウェーデン人の友人はごくわずか。福祉の調査で出かけるのだが、調査するという「目標」の「制御」に「居付く」あまり、それ以外のスウェーデンのリアリティにぜんぜん気づけていなかったのだ。「木を見て森を見ず」とは、まさに当時の自分自身を指していたのである。「風が吹く」前の自分は、「偶有性」の大海から目をそらし、狭い範囲の「目標」に必死になってしがみついていたのだ。
そういう以前の自分自身の愚かさ、視野狭窄状態が今なら分かるが故に、次のフレーズも心に響く。
「そう簡単に、自分の正体を知られてはいけない。自分でも決めつけてはいけない。見通す事のできない暗闇の中に倒れ込み続けてこそ、私たちの生はその本分を発揮する。
見知った領域から離れた精神の異界への飛躍を敢行しなければならない。次から次へと。倦まずに、停まらずに。自らの存在を脅かされる時に、もっとも純粋な形で生の悦ばしき知識を得ることができるのだ。」(同上、p55)
僕自身、昔から「自分の正体」を「わかったふり」をして「決めつけて」いた。ある狭義の「目標」を設定して、そこに向けてのみ自分を投射する形で、自分自身への限定(呪縛)をかけていた。だが、この春の「偶有性」の「風が吹」きはじめて以来、「見知った領域から離れた精神の異界への飛躍を敢行」しはじめている。この「命がけの跳躍」(quantum leap)が僕をどこに運ぶのか、僕自身にはさっぱりわからない。だが、その「わからなさ」の中にこそ、「純粋な形で生の悦ばしき知識」があるのではないか、と感じ始めている。だからこそ、「わかる」範囲に居付くことをやめ、「見通す事のできない暗闇の中に倒れ込み」はじめている。
この「跳躍」によって、どこに運ばれるか、はわからない。でも、ふと振り返ればどこか知らない、以前とは違う地点に立っているのではないか、と予感している。そんな旅の途上である。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。