エクリチュール、パラダイムと社会モデル

ブログは二週間ぶり。ツイッターは毎日ブツブツやっているが、長めの文章を自分用に書く余裕がなかった。6000字の依頼原稿に、講演用パワポを2,3本作って、あと授業でも新ネタをするのでその仕込みににわか勉強したりするうちに、あっと言う間の二週間。そして、今日は久々のお休みなのだが・・・

朝ご飯を食べたところで妻から、「今日は大掃除をします!」という宣言。ちょっとダラダラしたいなぁ、と思うものの、我が家での主導権が僕にあるはずもなく、「埃っぽいでしょう?」といわれたら、全くその通り。それから衣替えも中途半端だし、仕事部屋のエントロピーも増大しすぎ(ようは汚いだけ)だったので、一念発起。妻から渡されたマスクをして、窓も開け放ち、午前中一杯かけて、ゴミを捨てまくる。
この商売をしていると紙ゴミが死ぬほどある。DMも色々届く。それにデジカメやらレコーダーの空き箱も散乱している。そういうものをバシバシ捨てて、「とりあえず入れておく箱」なるものを作ったがゆえに死蔵されていた様々な本・雑誌・書類も、「読んでいなけりゃ、ただのゴミ」と捨てまくる。ついでに仕事部屋の床に投げ散らかしていたマフラーやら上着やらも、洗濯機に放り込んだり洋服棚に返したり。
まあ、こう書くだけで、如何に整理が出来ていないカオス状態だったかが丸わかりでお恥ずかしい限りだが、9月半ばの海外調査帰国後からの1ヶ月は目の前の原稿書きで忙殺され、その後も出張だの講義だの急ぎの仕事に追われていたので、やっとこさの掃除。何度か以前に触れた事があるが、『ガラクタ捨てれば自分が見える―風水整理術入門』(カレン・キングストン 著、小学館文庫)ではないけれど、部屋からガラクタが少なくなると、だいぶと仕事がはかどるのです。あと、石油ストーブのタンクに灯油も入れて、手袋も冬用靴下も出してきて、これで冬支度までとりあえずは完了。つくづく今日の晴天に感謝。
閑話休題。ちょうど昨日ツイッターで、メモ的に書いておいた事を、少し膨らませてみたい。昨日の連続ツイートで、こんなことを考えていた。
 
認識枠組みその1  内田樹 『階層社会の本質的な邪悪さは、「階層社会の本質的な邪悪さ」を反省的に主題化し、それを改善する手立てを考案できるのが社会階層上位者に限定されているという点である』 
 
認識枠組みその2 自分の常識や前提が、偏った体系を選び取っている、他の可能性もあり得る、と理解するのは簡単ではない。それを分かりやすく語るのは、内田氏もそうだが、山本七平「空気の研究」も思い出す。でも、分かりやすく語る為には特定の文脈依存が避けられず、今の学生には理解がしにくい。
 
認識枠組みその3 授業で障害の医学モデル・社会モデルの話から、常識の捉え直しの話をすると、共感と反発の双方に別れるのが面白い。障害者のために、であれば理解出来ても、自分も含めた社会の常識こそ問題、と言われると、その常識=自分と思いこんでいる人は、自己否定された様な気になる。
 
認識枠組みその4 元々社会から否定されてきた障害者にとっては、社会の常識を相対的に見る事を強いられてきたのであるが、その経験のない人(=『健常者』)にとっては、認識枠組みを揺さぶられる事は非常に不愉快。だから隔離収容といった「見ない振り」の選択肢が生まれてきた部分もある。
 
認識枠組みその5 障害の異化モデル、って、常識の揺さぶりやメタ認知への誘いの部分がある。ただ、揺さぶった後に、どのようなオルタナティブがあるのか、という世界観まで提示できないと、それはよく言われるように「対抗文化」で終わり、ドミナントストーリーの書き換えではなく強化にも繋がる。
 
認識枠組みその6 こないだ読んだ「デカルトからベイドソンへ」も、今読んでいる、「社会とは何か」も、社会を巡るドミナントストーリーがどのように書き換えられて来たのか、の歴史を辿っていて、面白い。その中で、ようやくフーコーを読む「必然性」のようなものも生まれてきた。
 
認識枠組みその7 僕が全部読んでいる池田晶子と内田樹、この二人に共通しているのも、認識枠組みそのものへの問い、である。しかも二人は平易な言葉で、僕にも分かるように語る。二人の補助線があったからこそ、僕もメタの学問である形而上学に近づけた。さて、ここからどう自分なりに書き出すか。
 
内田樹氏の「エクリチュール」論から、アイデアを拝借して始めたこの連ツイ。内田氏はよく言っているが、例えば批評家の物言いも、クールに批評出来ているようでいて、その言い方自体が実は定型的である、という。それを彼は「やんきいのエクリチュール」という絶妙なる比喩で指し示しているが、確かに「やんきい」は、一旦その表象を選び取った段階で、その振る舞い方の枠組みから自由になることができない。おなじことが、批評家であれ、政治家であれ、言えるのではないか、と。そのうえで、そのエクリチュールに自覚的である、メタ認知が出来ているかどうか、が、エクリチュールの牢獄から抜け出すために必要不可欠であることを、彼の文章から感じ取っていた。
 
そして、これはその3~5あたりで書いた事だが、実は障害者というカテゴリーに当てはめられた人は、「健常者」なるものから差異化され、排除されるなかで、意識的に「健常者」のエクリチュールを相対的に眺めざるを得ない位置に立たされる、とも言えないか、と考えてみた。ただもちろん、障害者カテゴリーに追いやられた障害者が、健常者エクリチュールなるものに自覚的にすぐになるわけではない。ただ、社会学者ゴフマンが名著『アサイラム』で示したのは、入所施設や精神病院などの「全制的施設」における施設利用者エクリチュールが極めて標準化されたものであることと、それを分析する事によって、健常者社会のエクリチュールも逆照射が可能である、という卓見であった。
 
「個人の自己が無力化される過程は一般に、どの全制的施設においてもかなり標準化している。この種の過程を分析することによって、われわれは、通常営造物がその構成員に常人としての自己を維持させることを心掛けるとすれば、保されなくてはならない仕組みはどんなものか、を知ることができるだろ う。」(E・ゴッフマン (1961=1984)『アサイラム?施設被収容者の日常世界』誠信書房、p16)
 
それまで主流であった「障害」を「治療の対象」と見なす思想を「障害の医学モデル」とラベルした上で、障害者は治療の対象ではなく、障害のままでの自分らしく生活したい、という自立生活運動が沸き起こる中で生まれてきた「障害の社会モデル」。この中では、施設で障害者として「個人の自己が無力化される」ことを良しとせず、逆にその無力化の過程は「社会の抑圧・差別」である、と、健常者エクリチュールの相対化と徹底的な批判を産み出していった。これはフェミニズムの論法から多いに触発されたものでもあるが、あるエクリチュールの構造的論点を浮かび上がらせ、ドミナントストーリーの書き換えを目指す、という点で、画期的な考え方でもあった、と言えると思う。
 
今年の「地域福祉論」の講義では、テーマを「生きづらさ」としている。認知症や依存症、統合失調症や自殺、ホームレス、貧困などの問題を扱いながら、それらの問題の当事者の方々が語る「生きづらさ」を通じて、今の日本社会そのものを捉え直せないか、という大風呂敷を、こんなに忙しい時期にもかかわらず、画策しながら自転車操業の日々である。「生きづらさ」という境界が、ドミナントストーリーの境界ともつながり、社会の常識という名のエクリチュールを浮き彫りにする輪郭線になるのではないか、と。そんなことを考えている中で、ツイッターにも書いた『デカルトからベイドソンへ』では、このエクリチュールの自覚にも繋がる重要な記述がなされている。
 
「ベイドソンの言うように、人間の行動は第二次学習に支配されている。第二次学習の結果習得した予測の型にコンテクスト全体がうまく適合するような行動をとるのである。言いかえれば、第二次学習は自分で自分の正しさを規定する。この性質は大変強力であるため、たいていの場合は生まれてから死ぬまでずっと存続する。むろん『回心』を経験し、ひとつのパラダイムを捨てて別のパラダイムを探るようになる人も少なくない。だがいくらパラダイムが変わっても、第二次学習のパターンそのものにはとらわれたままであり、このパターンの正しさを『証明』するような『事実』を見しつづける点は変わらない。ベイドソンの考えでは、この束縛から逃れるための唯一の道は『学習Ⅲ』である。『学習Ⅲ』においては、ふたつのパラダイムのどちらが良いかということはもはや問題ではなくなる。パラダイムというものそれ自体の本質を理解すること、それが学習Ⅲである。」(モリス・バーマン『デカルトからベイドソンへ』国文社、p248)
 
「やんきい」から「アイドル」へ、エクリチュールを変えた人もいる。あるいは「大学生」から「会社員」のそれへと変える人もいる。「ひとつのパラダイムを捨てて別のパラダイムを探るようになる人」であっても、自分が受け入れた新たなパラダイムの「パターンの正しさを『証明』するような『事実』を見しつづける点は変わらない」ようであれば、それはそのエクリチュール・パラダイムの内部にいて、そこから自由になれない。そこから自由になるためには、「パラダイムというものそれ自体の本質を理解する」「学習Ⅲ」が必要である。この記述は、内田樹氏の次の発言ともつながる。
 
「エクリチュール批判は「自らがいま書きつつあるメカニズムそのもの」を対象化しうるエクリチュールによってなされなければならない。はたして、それはどのようなエクリチュールであるのか。自分たちが嵌入している当の言語構造を反省的に主題化できる言語、自分たちが分析のために駆使している言語の排他性そのものを解除できる言語。そのような不可能な言語を私たちは夢見ている。」(内田樹「エクリチュールについて(承前)
 
「自分ちが嵌入している当の言語構造を反省的に主題化できる言語」こそ、学習Ⅲの言語につながるのではないか、ということまではたどる事ができた。そして、それは障害の社会モデルが提示しようとしたものとも、ある種の共通性を持つのではないか、とも感じている。この学習Ⅲが導き出す、「パラダイムというものそれ自体の本質を理解する」プロセスを、さまざまな「生きづらさ」の論点に照射して眺めることが出来ないか。逆に言えば、「生きづらさ」の論点から、現代日本社会のエクリチュール・パラダイム自体の「本質」を理解することが出来るのではないか。
 
そんな大風呂敷を広げているがゆえに、毎週の授業でえらい困っているのであった。さて、火曜日に向けて、そろそろ予習に励まなくちゃ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。