内在的論理と僕の3年半

旅先からの帰り道、名古屋駅の売店で見つけた400ページの本を、帰りの汽車の中から読み始め、今日一気に読み終える。博学でストーリーテラーの佐藤優氏の自伝的作品が、面白くない訳がない。

「マルクス経済学を学んでもマルクス主義者になる必要はまったくない。資本主義システムの内在的論理と限界を知ることが重要なのだ。人間は、限界がどこにあるかわからない事物に取り組むときに恐れや不安を感じる。時代を見る眼から恐れと不安を除去するために二十一世紀に初頭のこの時点で『資本論』を中心にマルクスの言説と本格的に取り組む意味があるのだ。」(佐藤優『私のマルクス』文春文庫 p15)
彼の著作で「内在的論理」という概念を知ったいきさつについては、3年前のブログに書き残していた。その時は、次の本を引用している。
「いまから約200年前、ドイツの哲学者ヘーゲルは、『精神現象学』を著し、この世界に現れる出来事をどのように解釈したらよいかについて、ユニークな方法を提示した。(中略)ヘーゲルの分析手法の特質は視座が移動することだ。ヘーゲルは、特定の出来事を分析する場合、まず当事者にとっての意味を明らかにする。対象の内在的論理をつかむことと言い換えてもよい。その上で、今度は、対象を突き放した上で、学術的素養があり、分析の訓練を積んだ”われわれ(有識者)”にとっての意味を明らかにする。更に有識者の学術的分析が当事者にどう見えるかを明らかにするといった手順で議論を進めていく。当事者と有識者の間で視座が往復するのだ。この方法が国際情勢を分析する上でも役に立つ。」(佐藤優『地球を斬る』角川学芸出版 p266-7)
僕はこの「内在的論理」という言葉との出会いで、少しだけ、表層的なものの見方から深められたような気がする。それは改めて三年前のブログを読んでみて感じることだ。僕にとってはまだ3年しか経っていないのか、と驚いたのだが、山梨では2007年から、三重では2008年からご縁を頂き、地域における障害者福祉の支援体制作りのアドバイザーの仕事をしている。その際、ある方にアドバイス頂き、まずは山梨県内全ての市町村を訪問し、その自治体の「内在的論理」を掴むことからスタートした。それは、結局のところすごくよいプロセスだった、と思う。
この3年半で、山梨県内全てに地域自立支援協議会を立ち上げ、県の自立支援協議会も模索しながら座長として運営の一翼を担い続けた。その時に、まずはこのアドバイザーの仕事を始めて一年目に行った、市町村や当事者・家族団体、地域の集まりなどの声を徹底的に聴き続け、「対象の内在的論理をつかむ」試みをまず行ってきた。それがあったからこそ、そのあと「対象を突き放した上で」、山梨の中であるべき自立支援協議会像を描き、それを各地域にお伝えし、上記のあるべき姿が「当事者にどう見えるかを明らかにする」中で、県と地域の自立支援協議会の像を、官民協働チームで描きあげていったのだと思う。このとき、こちらの眼鏡を当てはめるという思考停止・思考の省略を辿らず、相手の眼鏡からものを見ようと「内在的論理」を掴むことに努力したことが、その後の展開にとって大きな一助となったのは間違いない。
「内在的論理と限界を知ること」の大切さは、結局何かを変えようとしても、あるいは守ろうとしても、その営みを成功させるためには必須の事である。僕自身、単なる批判者であった時代には、そのことがわからなかった。だが、3年半前から県の仕事に関わり、今年からは国の仕事に関わる中で、内在的論理を掴むことのない、思いこみや偏見、無理解やコミュニケーション不足に基づく「いい加減な発言」が、いかにして場を壊すのか、を様々に垣間見た。また自分がその加害者、被害者になったこともある。すると、遠回りなように見えても、虚心坦懐に「内在的論理」を掴むことから物事を進めないと、結局はものごとはまとまらない、とわかるようになってきた。今の総合福祉法部会も、4~9月くらいまで、立場の異なる多くの55人の内在的論理を掴み続ける苦労(迷走と批判する人も多いが)をしたから、10月からの作業部会で、意見がまとまり始めているのだと思う。
内在的論理と僕の3年半、に話が逸れたので、佐藤氏の著作に戻ろう。
この本(「私のマルクス」)を通じて、血気盛んだった佐藤氏が、学生時代にいかにマルクスやキリスト教と出会い、この二つを自身の世界観の構築の柱にしたか、を垣間見ることが出来る。それはまた、同志社大学神学部における様々な師との出会いでもある。疾風怒濤の大学時代に、猛烈に勉強し、飲み、学生運動に関わった氏の思考の遍歴を、実に鮮やかに物語として語りながら、しかも「私のマルクス」として伝えられる筆者の力量には、いつものことながら、本当に驚かされる。
僕自身、佐藤氏が出会ったフロマートカや内田樹氏にとってのレヴィナスのような、人生を変える思想家には出会っていない。35歳になってしまったので、もうそういう出会いとしては遅いのかも知れない。あるいは僕にとっては、思想家との出会いだけでなく、様々な現場との出会いがじわじわ世界観を形作ってきたのかもしれない。あるいは、思想家と対峙出来る程の文章を読み解く訓練に欠けているかもしれない。そうであっても、自分にとっての大切な思想家との出会いを、今からでも待ち望んでみたい、そんなことを読後感に持つ一冊だった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。