ピークの向こう側にあるもの

なぜ人は旅に出かけるのだろう?

そういう疑問が頭によぎる。日常から離れる、ということは、刺激も多いが、トラブルも当然のことながら、多い。疲れることも多い。フルアテンダントのツアーなら、そういうトラブルは少ないかもしれないが、それなら、旅に来た実感はあまりわかない。自分達でオーガナイズしはじめると、決めなければならないことがあまりに多く、疲れる事もしばしばで、何をしているんだろうと困惑することもある。特に、ガイドブック片手にスケジュールをびっちり立てる旅ではない場合、その困惑や途方にくれる感覚は、ある時点でピークを迎える。
だが、実は旅とは、このピークの向こう側にこそ、あるのかもしれない。
思い通りにならないことの数々。それは、ホームグラウンドでの日常性・定常性との大いなる差異の塊である。そして、思い通りにならない、とは、その日常性にしがみついている、ということの証左でもある。他国にいて、自国での流儀にしがみついているから、思い通りにならないのも当たり前だ。身体の時差ぼけよりも、マインドの時差ぼけを抜き去る方が、実は大変なのかもしれない。
それほど己に付きまとっている、自己同一性という名の、自明性や暗黙の前提に対する撞着は強固なものである。日本を離れて一週間あたりで、ある種のピークを迎えるもの。それは、己自身の狭隘なる性格、至らなさ、出来なさ加減などの前景化である。
別に修行僧のような、あるいはバックパッカーの旅をしているわけではない。普通の旅行者である。でも、英語があまり通じない国で1週間をすごして、ごつごつ頭をぶつけながら感じるのは、様々な楽しい経験と共に、この種の自分自身の限界との出会い、でもある。
『「他者」の私への抵抗は、世界内的な抵抗ではない。「私より強い」力を持つものは、「私より強い」という仕方で私と比較考量されているわけだから、「度量衡」を私と共有している。ひとつの全体性を私とわかちあっている。そのようなものをレヴィナスは「他者」と呼ばない。「他者」の抵抗力を構成するのは、その「予見不能性」である。」(内田樹『レヴィナスと愛の現象学』文春文庫、p90-91)
旅先で、普段は出会わない「他者」と出会う。「予見不能性」であり、かつ「度量衡」を私と共有しない、異なる世界からの「抵抗」である。ガイドブックやツアーは、その「抵抗」を減らし、「予見不能性」を減らすための道具である。だが、今回の旅では、ガイドブックを持つことはあっても、「予見不能性」に割りと身をさらしている。ゆえに、普段より、はるかに疲れる。肉体的負担ではなく、精神的な疲れとしての「世界内的抵抗」ではない、異界と接触する「抵抗」である。
だが、この抵抗と触れ続ける中で、自らの「予見可能性」の再検証も実は可能となる。自分が暗黙の前提としているもの、当たり前と思い込んでいるもの、が、いかに不確かな前提に基づいているのか。それを思い知らされることによって、むしろ己の「度量衡」自身がのバージョンアップや改良をも、可能になるのだ。どれほど見えていなかったか、どれほど気づけていなかったか、といった不能や不完全性と、「他者」との出会いや抵抗を通じて知ることによって、結果的に、自らの存在そのものを問い直し、確かめなおす契機となるのかもしれない。
旅先で、混乱と困惑と疲労のピークの先にあるもの。その一つが、自らの世界観自体との直面であるとしたら、外界への旅路は、内界へのそれとも密接にリンクしているのかもしれない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。