消化不良な最近

ブログの更新は二週間ほど止まっていた。ツイッターも、どうも書く事にためらう。

この二週間の間に、東京に2回ほど、ワークショップに座談会と、新たな学びを求めて出かけた。また、25日から28日までは、同僚のH先生ご夫妻と我が妻と4人で、松島→平泉→気仙沼と旅にも出かけた。その間もあれこれ刺激的な本との出会いもあった。様々な事を感じてもいた。だが、どうまとめてよいか、まだ言葉にならない。
昨日もある座談会に参加し、これまでに考えた事もなかった視点やアイデアを沢山頂き、刺激的な時間をすごす。膨大な新しいアイデアや情報に触れると、それを理解・処理するのに時間がかかる。消化するのに時間がかかる。ブログも、その消化の為の補助具として使っているのだが、それ以前に、ブログに向き合うほどの体力が回復していない。新たな考え方に出会う事は、それくらい、気力だけでなく、体力も消耗する。30代も半ばを超えると、そのことに自覚する。それだけ、先入観や固定観念で頭でっかちになっているのかもしれない。
腑に落ちる、という言葉が、身体表現として、アクチュアリティをもって、迫ってくる。
腑に落ちる、ためには、まず口の中に放り込んで、食堂から胃を通って、内臓器官に徐々にジワジワと染みこんでくるイメージが想起される。同じように、新たな考えや視点も、自分の頭の中をくぐらせて、これまでの自分の考えて来たことの中にジワジワ染みこませながら、自分の内在的論理と対話をさせながら、染み渡らせない限り、本当にわかった、ことにはならない、と思う。特に、あまり頭の回転がよくないからか、あるいは実際に身体を通さないと理解できないからか、僕はこういう全身を通じた理解形式でしか、物事と向き合う事が出来ない。
8月にタイに出かけた際、生まれて初めて食中毒になった。食中毒は、自分自身の体調のコンディションと、食べたものと、気候や風土の3つの要素の相互関係の中で、中毒反応として出てくると、その時、つくづく感じた。衛生状態の悪くないデパートのフードコートで、前の人が食べていて美味しそうだった牡蛎のお好み焼きをついつい頼んだのだが、その後、全身の発疹や脱水症状、あるいはめまいやふらつきのオンパレードで、体内がその牡蛎を拒絶している表現に出会ってしまった。
同じように、考えやアイデアは、その時の体調や、考え方、志向性などによって、体内に、受け入れられたり、吐き出したりするものなのかもしれない。例えば昨日の座談会の内容は、自分の中ではまだ消化しきっておらず、じんわり咀嚼し直している段階である。だが、別の場で聞いた別の話は、正直僕の身体が受け付けなかったようで、直後にべろっと吐き出してしまった。
では、その二つの新しいアイデアのどちらがよくて、どちらが悪い、という訳ではない。要は自分との相性、というか、現段階での自分の生き方や視座、志向性と、その新しいアイデアなり視点との、接続がうまくいくか、あるいは反作用の方向に進むか、という有機的な科学反応的な連鎖関係の問題である、と思う。また、いくら良いアイデアでも、ずっと摂取しすぎると、おなか一杯を通り越して、胃が消化不良を起こすかもしれない。それと同様に、ここ二週間ほど、様々な場所に出かけ、いろいろな事実やアイデア、視点を破竹の勢いで吸収し続けた為、頭の中が消化不良を起こしているのかもしれない。
そういうときには、基本に戻る事が大切。今から、ここしばらくお休みしていた合気道の稽古に出かける。頭がぱんぱんになっているときは、その回路を一度きって、身体を使いながら、身体運用の稽古に集中するに限る。その中で、自然と凝りや歪みが、解けてくる瞬間がある。ある程度、現在の消化不良感をブログに書ききったので、そろそろ出かけます。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。