動員型から創発型コミュニティへ

自らの恥さらしから始めるが、地域福祉というものに携わりながら、「コミュニティ」というものを、真正面から検討したり、勉強したりすることは、これまでほとんどなかった。だが、最近、コミュニティ・デザインのことなど考えるきっかけがあり、どうせなら、と思って「積読」状態だったある本を読み出したら、その知的刺激にしびれまくっていた。

「ここのところ、コミュニティ・インフレーションとでも呼ぶべきような状態がブーム性を帯びて立ちあらわれているが、そこで中心をなしているのが地縁と直接接続された、『不快な記憶』を消去した『町内会物語』である。そこからは、ヨコの位相的な秩序形成とともにあった、川田のいう美的感受性が歴史的に、さらにイデオロギー的に捻じ曲げられてきた状況の意図的な忘却といった事態、そしてそうした忘却の向こうにおいてすすむ地域コミュニティの道具主義的な利用の動きを観て取ることができる。」(吉原直樹『コミュニティ・スタディーズ』作品社 p227-8)
なんとなく、コミュニティが全てを解決する「打ち出の小槌」的に使われている現状がある。介護保険制度も、もともとが部分保険で家族介護を当てにしていた制度だが、いよいよ家族制度の弱体化や無縁社会なるものの進行の中で、制度で担保する高齢者福祉に限界が来ていて、それを穴埋めするための「地域包括ケア」としてのコミュニティが当てにされている。いわく、インフォーマルケアでの見守り支援が、介護予防につながる、とも。山梨で地域包括ケアを推進するための、県や市レベルでの研究会などにも混ぜていただき、その推進のためのお手伝いをしながら、一方でなんとなく、「コミュニティ・インフレーション」というか「地域コミュニティの道具主義的な利用の動き」への違和感を感じていた。その違和感を、都市社会学の大家は、「イデオロギー的に捻じ曲げられてきた状況の意図的な忘却」としての、「不快な記憶を消去した町内会物語」の注釈の中で、ズバッと次のように表現している。
「関東大震災時に自警団が朝鮮人を大虐殺したこととか戦時体制下において国民の戦争への動員を草の根から組織していったこと等といった町内会につきまとう忌まわしいできごとは今日人々の記憶から忘れ去られようとしている。その一方で、『ご近所の底力』といった形での『町内会物語』が編まれている。『不快な記憶』を忘却の彼方に置くかぎり、『ご近所の底力』が新たな動員であることに気づくことは難しいであろう。今日巻き起こっているコミュニタリアン主導のコミュニティ・インフレーションは、ある意味でこういう状況を一層加速させているといえる。」(同上、p229)
中野敏男氏のボランティア動員論にも通低する、動員の論理の隠蔽を表出させる言説である。先述の地域包括ケアも、その実戦部隊として、町内会・自治会や民生委員の方々に依存する部分が少なくない。もちろん、関わろうとする方々個々人は、「地域のために何かしたい」「恩返ししたい」という善意思をもって参画される方も少なくないだろう。だが、それを官主導で進めることは、実は「新たな動員」になる可能性がある、ということを、ともすれば忘れがちである。
高齢者の地域包括ケアや、障害者の地域自立支援協議会は、住民参画型の地域福祉を進める上での推進役を果たしている。それは、地方分権・地域主権の中では、「ガバメント(統治)からガバナンス(協治)へ」という枠組みとも同期している。だがこの点についても、吉原氏の警鐘は実に重い。
「ガバナンスは今日新自由主義的なコンセンサスの方式として上からのガバメント的な組み込みにさらされつつある」(同上、p154)
そう、「ご近所の底力」で解決しましょう、という美名は美しいが、大きな政府として税を投じて行う地域福祉には限界があるので、政府の規模と関与は小さくし、その代わりに町内会や自治会を通じて地域住民を新たに動員して安上がりで効率的に福祉政策の担い手を育てよう、という「上からのガバメント的な組み込みにさらされつつある」のが、地域包括ケアであり、地域自立支援協議会の抱える内在的危険性でもあるのだ。吉原氏の著作では福祉政策についての直接の言及はないが、防犯コミュニティの「上からのガバメント的な組み込み」の実態を読みながら、これは福祉政策にもそのままトレースできる、と感じている。
では、町内会や自治会は必要ないのか?吉原氏はそうは言っていない。むしろ、これまでの「官治的自治の枠内」つまり「内に閉じられているということを特徴とするような自治的能力=内発性に依拠する」(p50)町内会の形態から、「『異なる他者』との間に緩やかな横結的なつながりをつくり、リゾーム状に立ち上がる」「反措定としてのコミュニティ」(p51)を提起する。そのコミュニティは次のような特徴を持つという。
「『脱領域』、『脱組織』によって特徴づけられるネットワーク型コミュニティは、ある意味で『反コミュニティ』として存在する。たえず『動いていること』がそうした措定を可能にするのである。ネットワーク型コミュニティは『つなぐこと』にこだわるが、それ以上に『囲われること』に抵抗する。領域に固定(化)されるのではなく、状況にしたがってそのウィングを広げたり、縮めたりするのが得意なのである。」(同上、p52)
これは、地域自立支援協議会の立ち上げや推進の支援を行ってきた実感からも、実はしっくりくる整理である。その地域の課題をガバナンス型に上意下達で通達するのではなく、ガバメント的に官民協働で考え、変えていく協議会を構築するためには、「『脱領域』、『脱組織』によって特徴づけられるネットワーク型コミュニティ」であることが求められる。障害者政策にひきつけるなら、三障害の障害別に分科会を作っていた協議会は、領域ごとにタコツボ化したため、大体失敗したところが多い。また、組織の長ばかり並べた協議会では、組織の既得権益やエゴが先鋭化して、これも実質的な議論にいたらなかった。さらには、協議内容を行政が最初からお膳立てしている(=囲われる)協議会は、そもそも会議が活性化されない。一方、活性化された議論を行い、実際に政策を変える力を持つ地域自立支援協議会は、「領域に固定(化)されるのではなく、状況にしたがってそのウィングを広げたり、縮めたりするのが得意なのである。」
このような「ネットワーク型のコミュニティ」に必要なものは何か。それを筆者は「『線形的なもの』からの離陸(テイクオフ)」(p361)だという。そういう計画制御の枠組みを超えた、創発性を持つことが、上記のコミュニティに必要不可欠だという。
「予測不可能な仕方で諸主体が関連しあう際の、諸主体が『ゆらぎ』ながらも、それより高次の『生のコラージュ』へと展開していく状態(being)を自覚的に追求することが、『創発的なもの』を析出する際の要をなすのである。」(p360)
そう、管理や動員をすることが目的の「官治型自治の枠内」を超えた「ネットワーク型のコミュニティ」をオーガナイズしようと思えば、「線形的な」「計画管理」の枠組みを超える必要がある。地域というのは本来「予測不可能」なのだから、その中でのネットワークは文字通り「生のコラージュ」そのものなのだ。それを、計画制御の枠内にとどめず、以前のブログでご紹介した安冨歩先生の著作を拝借するならば、「複雑さを生きる」視点で、「創発的なもの」を希求しない限り、新たな動員論の枠組みから抜けることは出来ない。
そのための方法論をどう現場で築き上げていくか、は、これからの実践および研究課題だが、実に大切なパラダイムシフトを受け取ることが出来た著作であった。そして、優れた著作は、それ自身が「脱領域」的な、普遍性を持ち、「創発的」である、と改めて実感した一冊でもあった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。