復讐から贈与へ(続 学びの回路を開く)

パラダイムシフトについて、非常にわかりやすく書かれた本にであった。

「人は別のサイクルに入ることでしか、あるサイクルから抜け出ることは出来ない。復讐というマイナスの相互性から贈与交換というプラスの相互性に移行するときには、眺めている時間の方向が逆転するのと同時に循環性が保存される。『これからくれる人に与える』、私がこのようにプラスの交換を定義したのは、復讐と贈与との間にある対立関係と並行関係に同時に注目させるためなのである。もし私が、『すでにくれた人に贈る』と言ったとすれば『殺した者を殺す』という公式にもっとも近いところにとどまっていただろう。『すでにくれた人に贈る』というのは伝統的な交換の概念に一致しているかもしれないが、それは、復讐と贈与の二つの相互性の間の並行関係しかつかまえておらず、復讐と贈与のそれぞれが目を向けている時間の方向の違いは見ていない。このような見方が不十分であるのを知るためには、復讐における最初の行為と贈与における最初の行為を比較するだけで十分である。復讐における最初の行為はいつでも過去に先行してなされた攻撃に対する反応であって、未来に受け取る贈与を予期しての反応ではない。他方、最初の贈与は先手を打つことでなければなされない。」(マルク・R・アンスパック『悪循環と好循環』新評論、p34-35)
モースの贈与論から互酬性の形を再考した同著で、一番興味深かったのが、「すでにくれた人に贈る」と「これからくれる人に与える」の比較である。これは、非常に本質的で、含蓄の深い「対立関係と並行関係」である。
復讐に代表される「すでにくれた人に贈る」という論理は、時間の方向で言うと、常に「後追い」である。自分ではコントロール不可能なある行為に大きく影響され、それに何とか返礼するための「贈る」という行為。PTSDであろうと、「お中元のお返し」であろうと、自分が予期せずあるサイクルに巻き込まれてしまい、それへの返礼として「贈る」という論理である。内発的論理というより、外在的に、どこかせかされた感じで「せねば」という気持ちに急き立てられる論理、ということも出来るかもしれない。
一方、「これからくれる人に与える」というのは、文字通り「先手を打つ」ことである。相手がどうするのかわからないけれど、まず「贈与」する。その際、「せねば」と追い立てられるような義務感はない。文字通り「与えたいから与える」のである。「せねば」と比較するならば、「したい」からするのである。これは、魂の赴くままの贈与でもあり、自らの感情に無理矢理鋳型をはめたり蓋をしなくても出来る行為であり、内在的論理に基づく。
この「後追い」と「先手を打つ」の違いは、アジェンダ(=枠組み)設定とも関係している。「すでにくれた人に贈る」のであれば、「すでにくれた」という枠組みや論理にどう対応するか、に主眼が置かれている。その際、既に駆動している他者の意図や枠組みを、肯定にしろ否定にしろ、どうしても参照しなければならない、という点で、相手のペースに乗っている・乗らされている。一方、「これからくれる人に贈る」という際には、最初から誰に何を贈るか、も含めて、こちらで枠組み設定が出来る。振り回されることはない。
「すでにくれた」というのは、「最初に受け取るから得だ」という誤解も生み出す。だが、実は受け取ってしまう、ということは、ある種の返礼義務を課し、さらには復讐やPTSDなどのように被害も受けると、心の傷まで取り込んでしまうことになる。そして、この悪循環贈与のサイクルは、それを意識しないと、ずっと炉心はネガティブな回路で燃え続ける。相手から受けた呪縛の論理が自らに乗り移り、その他者の枠組みでずっと自らの内面を燃やし続ける、というしんどい回路にはまり込むのである。では、それをどうやって抜け出せばよいか。
「悪循環から抜け出るためには、その循環のプロセスを含む循環性を認識することが重要である。そしてすべての循環性を否定するのではなく、別の方向へと出発するプラスの循環に入ることである。人が復讐から逃れるのは、マイナスの循環をプラスの循環に反転させることによってだけなのである。」(p174)
実にシンプルな答えである。「すでにくれた人に贈る」循環性に自らが陥っている、ということに、気づくことでしか、抜け出せない。前回のブログでも触れた拙稿が載っている東洋文化92号の副題が「『箱』の外に出る勇気」とされていたが、このこととつながる。これは、この特集号の編者である深尾先生と安冨先生がスタンフォード大学の別府晴海先生から受け取った言葉である。東洋文化の中で、先生の言葉がこのように引用されている。
「新しい概念を創出することが『箱の外に出る』ことだと思います。『箱の外に出る』ことは必ずしも生産性のある創出にはなりませんが、『箱の外に出る』勇気が、学問にはいると思います。英語でもthink outside the boxと表現します。『自己の呪縛を乗り越える』と同時に、『(学問上の)常識(ドミナントストーリー)の呪縛を乗り越える』ことだと私は理解しています。」(東洋文化92号、p12)
内田樹先生の考えを借用すれば、学問とは、前時代の叡智を受け取り、発展させ、後生にパスをするリレーである。ということは、常に「すでにくれた人に贈る」という論理からスタートする。知識の獲得とは、もちろん、「既にある知識を受け取る」ことからスタートする。だが、どこかで「受け取る」ことを基盤にした「後追い」の枠組みには限界が来る。その時に、実は大切になるのは、「自己の呪縛を乗り越える」という意味での、「後追い」からの開放なのだと思う。それがあって、はじめて「(学問上の)常識(ドミナントストーリー)の呪縛を乗り越える」ことが可能になる。それは、自らが呪縛されているシステム全体を見つめることであり、それは「箱の外に出」て、「悪循環のプロセスを含む循環性を認識する」ことである。そして、それが出来て初めて、「別の方向へと出発するプラスの循環」に入ることが可能になるのである。するとようやく「これからくれる人に贈る」という主体へと変遷が可能なのだと思う。
この悪循環から好循環への、後追いから先手への、立ち位置の転換。「学びの回路を開く」上で、このパラダイムシフトは欠かすことが出来ない点であろう。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。