アクチュアルな「論語」の「知」 (連作その3)

先月末の研究会で、安冨先生から、書店に並ぶ直前の新著を頂いた。読み始めて、あまりの面白さに一気にその世界にひきこまれてしまった。その本で一番大きかったのは、次の公式である。

(知/不知)→知
これは一体どういうことであろうか。
安冨先生の『生きるための論語』(筑摩新書)によると、論語に出てくる基本的用語である「知」とは「自己言及的表現」(p36)であるという。これはどういうことかというと、「『知る/知らない』という状態よりも、世界への認識の枠組みを遷移させる学習過程としての『知』」(p43)であるといい、それは「運動」でもある、という。これは、最近になってすごくよくわかる。
受験勉強などの「詰め込み型」の知識であれば、単に「知らないことを覚える」という形での「知」であった。そこにはワクワクやドキドキなどが伴わないので、僕はついつい読書やラジオに走ってしまった。(ネットがあったら絶対勉強しなかっただろうから、受験生時代にネットがなくて本当に良かったと思っている)。だが、受験勉強が終わった後、特に「知る」ことより、「知らなかった」ことに気づける事に、すごく嬉しさを感じる。興味の無いものには、そもそも「知りたい」という動機さえ沸かない。もっと知りたい、と希求する時、「こんなことを知らなかった・わかっていなかった」と前景化することは、恥ずかしい事では無く、むしろ取り組むべき課題が明確化された、と感じるのだ。それを「運動」と安冨先生が呼ぶのは、次のような理由がある。
「新たに産出された『知』は最初の『知/不知』に跳ね返って、また新たな『知』を創り出す。このような回路が繰り返し作動する。この全体が『知』である。『是知也』という断定によって、最初の『知』の意味が変化し、『知』が知っているという状態であると共に、『知』と『不知』を分別するその過程でもある、という意味が膨らむ。このとき、変化しているのは『知』の方ではなく、知ると知らざるとを分別している『私』自身である。言葉の論理展開とともに、それを展開し理解する『私』が変化し、その変化が言葉の意味を豊かにする、というダイナミクスが生じている。この自分自身の変化を伴う解釈の過程は、『学習過程』だと言ってよいであろう。」(p38)
「知る」事の魅力とは、単にクイズ王のように断片を頭の中に放り込んでいくことではない。「知る」過程の中で、「何をまだわかっていないか? 知らないか」が明確になる。すると、以前のその「知る」主体である「私」自体が変容し、それに伴い「知っている」内容も変遷する。「自己言及的表現」とは、「知る」という行為を続ける限り、常にその「知」の枠組みや構造自体が書き換えられ、それに基づいて「私」自身も変容していく、という好循環のプロセスに入る、ということである。そして、それこそ「学習過程」である、という。
「自分自身の既存の枠組みの中に外部から何かを取り込むことが『学』であり、それが自分自身のあり方に変化を及ぼして飛躍が生じる瞬間が『習』である。上の図式では、『知/不知』という部分の過程が『学』であり、それが自らに跳ね返って『知』が変貌する瞬間が『習』に相当している。」(p38)
上記のフレーズを打ち込みながら、改めて僕がブログでし続けてきたのは、この「学習過程」である、と強く感じている。例えば今回は、この安冨先生のテキストに強く感化された自分がいて、それをブログという媒体を通じて「取り込む」という「学」を行っている。だが、僕はこうして7年間ブログを書き続ける中で、「自分自身のあり方に変化を及ぼして」きた。そして、前回の連作や今回の連作を書き続ける中で、おそらくは「飛躍」が生じ始めているのだと思う。そのワクワク・ドキドキの瞬間やプロセスこそ「習」であり、僕の言葉で言えば、「枠組み外し」でもあり、「学びの回路を開く」ことでもある。そのことによって、まさに「知が変貌する」瞬間に、自ら立ち会いつつ、このブログを書いている。それは、少しオーバーな表現を使わせてもらえば、それを「知る」ことによって、以前とは違う景色が見えること、そして、見えてしまった景色を前にすると、もう以前の景色、以前の「私」(の認識)に戻れないこと、を指す。論語には、そしてそれを私たちにアクセスしやすく解説して下さる安冨先生のこの『生きるための論語』には、そのようなパラダイムシフトが内在されているのだ。
そして、この自己言及構造(A/非A)→Aは、「論語の論理構造」(p40)としてあちこちに出てくる、という。仁や和、も不仁や不和を知ることを通じて、一段と高いレベルでの仁や和を獲得する、という意味で、この論理構造の範疇にある、というのだ。そこには、論語の次のような人間観がある、という。
「自分を常にモニタリングして、人の言うことに耳を傾け、自分の間違いに気づいたら、直ちにそれを受け入れ、更に自分の行動を改める。これが孔子の追求する人間としてのあり方の根幹にある。」(p57)
これは多分に自戒を込めて書くのだが、「中途半端にわかっている人」ほどたちの悪いものはない。全くその領域を知らない人なら、それを知る為に必死になる。例えば福祉領域で言うと、毎年4月は、多くの自治体職員が新たに福祉課の担当になる。2,3年で次々に担当を変わる、という現行システムが良いかどうかは別問題として、多くの職員がゼロからのスタートになる。これは、一方では事業の継続性として大きな弊害ではある。ただ、必死になって福祉に関する法や制度、現場の事などを学ぼうとする行政職員の中には、しばらくの間、(A/非A)→Aというプロセスが働いている。その一方、長年同じ福祉現場で働いている職員の中には、「そんなことは知っている」とお高くとまっている人もいる。確かに「ある程度」は知っているが、では深く知っているのか、現時点の課題や他領域の動向も含めて幅広く知っているのか、というと、怪しい人も少なくない。「井の中の蛙」としては「知っている」としても、「大海」に照らせば、全然知らないくせに、「知っている」として、更に知ろうと努力をしない職員も少なくない。
その一方、正しく(知/不知)→知の回路を回し続けた自治体職員の中には、最初の半年こそ現場職員に比べて「知」のレベルが劣るものの、気づけば現場職員よりその本質や構造をよく「知っている」人はいる。現
場の人は「事例」は知っているかもしれないが、事例の背後に潜む構造までちゃんと「知っていない」場合が多く、さらに、それを「知らない」ということも知らない。そういう意味では、実は「自分は何を知らないのか」に無自覚な人は、この学びの回路から阻害されている、とも言える。そして、中堅職員やベテラン、と言われる人の中に、この「知らない」を知る、という自己言及プロセスからの阻害を往々にして感じる。だからこそ、「中途半端」なのだ。(こういう悪口を書き出したら筆が止まらなくなるが、今日の本題から外れたので、またにしておく)
さて、安冨先生のこの本では、他に引用したい部分も一杯あるのだが、学びの回路を開く、という僕の今日の主題と関連する部分を、あと二箇所ほど取り上げたい。
「ここに、AとBという二人の個人がいるとしよう。二人が相互に学習過程を作動させており、『仁』の状態にあるなら、Aの投げかけるメッセージをBは心から受け止めて自己を変革し、そこから生まれるメッセージをAに返し、Aもまた同じことをする。このとき両者のメッセージの交換は『礼』にかなっている。このときAとBとがそれぞれに解釈して把握する意味は、常に互いに異なっている。より正確に言うなら、違う人格がそれぞれに把握している『意味』が、相互に一致しているかどうかなど、原理的にわからない。そのわからなさを無視し、互いに『同じ何かを共有している』という思い込みを形成するのが『同』である。小人は『同』がなければ不安でたまらない。しかし、君子はこのようなことを必要としない。人は人、自分は自分である。人が自分の考えを共有してくれるかどうかなど、問題とならない。それはそもそも不可能なことだからである。それゆえ、君子の交わりは、相互に考えが一致しているかどうかなど問わず、むしろその相違を原動力として進む。こうした相互の違いを尊重する動的な調和を『和』という。」(p103-104)
ここには、福祉現場で昨今耳にたこができるほど言われている「連携」の本質が隠されている。論語や安冨先生は、「違う人格がそれぞれに把握している『意味』が、相互に一致しているかどうかなど、原理的にわからない」、とはっきり言う。だから、「同じ何かを共有している」というのは、あくまで「思い込み」である、と。では、同じ目標の共有に基づいた多職種連携というのは、原理的に不可能なものなのだろうか。それは、「『同じ何かを共有している』という思い込み」という「同」の状態に陥っていないか、と気づくことから始まるのだ。医師と看護師、ソーシャルワーカーと民生委員と、職種や社会的立場、そして個性も人格も違う人びとが、もともと「同じ何かを共有」している、というのは幻想である。でも、そこに集う人びとが「相互に学習過程を作動させて」、相手の「投げかけるメッセージをから受け止めて自己を変革」をしようとするならば、その「メッセージの交換」がその集った人びと全体の中で相互作用化するならば、そこにはお互いの「相違を原動力として進む」「動的な調和」としての『和』が作動する。
「和して同ぜず」とは、「相手も自分と同じ事を思っている(→だから自分が正しい)」という「同」の前提に立つことではない。むしろ、違う考えやスタンスの相手と学習過程を作動させながらコミュニケーションすることによって、一人の考えでは突破できなかった課題に対して、お互いの「相違」に基づきながらどのような風穴をあける「原動力」を見出していくのか。そのような「動的な調和」を「学習過程」中でどう作り込むか。そのためのコミュニケーションはどうあるべきか。これを「礼」にかなったやり方で追求する。これが「連携」の本質なのかもしれない。
あと一つ、どうしても取り上げておきたいのが、「正名」、つまり「名を正す」ということである。
「日本人はアジア太平洋戦争の際に、侵略を『聖戦』と呼び、侵略軍を『皇軍』と呼び、退却を『転進』と呼び、全滅を『玉砕』と呼び、自爆攻撃を『特攻』と呼び自分の国のことを『神国』と呼んだ。このような歪んだ名を与えて思考すると、何が起きるかは明らかであろう。これが『名を正す』ということの意味である。怖いものは怖い、嫌なものは嫌、好きなものは好き、やりたい事はやりたい、やりたくない事はやりたくない、死にたくないなら死にたくない。このように『名』を正しく呼ぶことが、人間がまともに生きるための第一歩なのである。ここを歪めてしまうと、そこから先は何が起きるかわからない。というのも、人間は、世界そのものを認識しているのではなく、『名』によって世界の『像』を構成し、それによって思考しているからである。名と名の関係性を組み替えたり、あるいは名を与えられた像の運動を構成したりすることで、我々は思考し、行動している。それゆえ、名を歪めてしまうと、我々は自らの世界に生じる事態についての正しい像を構成できなくなってしまう。(略)それゆえ孔子は、何よりもまず名を正すべきだ、と言うのである。名が正される人なら、どんなにひどい事態であっても、創造的に対応することができる。」(p138)
「『名』を正しく呼ぶことが、人間がまともに生きるための第一歩」なのである、が、この世界に、その反対の「名を歪める」事態が、どれほど起こっていることだろうか。
例えば、2月に集中的に書き続けたが、3月13日に閣議決定された「障害者総合支援法」。これなんて、明確に「名を歪め」た法律である。その根拠は以前シノドスに書いた原稿などにみっちり書いたのでこれ以上くどくど書かないが、結局のところ、「総合福祉部会」で提言された「骨格提言」を厚労省は「やりたくない」というか「やる気はない」のだが、裁判の和解(基本合意文章)の中で「新しい法律に変えます」と約束したから、「名前『だけ』変える」という、実に姑息なやり方である。そもそも今日は口が悪いので、悪口ついでにいうと、「障害者自立支援法」というのも、実に「歪んだ名を与えて思考」した法律だと感じる。本当に障害者の「自立」を「支援」するならば、応益負担問題以前に、入所施設や精神科病院への長期社会的入院という構造そのものに手をつける必要がある。だが、それは「セーフティーネット」なるこれも歪めた名をつけて温存し、地域社会への資源や財源配分を傾斜することなく、介護保険法に吸
収合併する為の骨格構造を描く主目的は全く「名」として前景化せず(しかもみんな知っている)、障害者運動が大切にしてきた「自立支援」という「名」だけをパクって、さも理解しているかのような法律にする。これぞ、欺瞞そのものである。この欺瞞を正そう、「名」を正そうとしたのが、障害者自立支援法違憲訴訟のはずだったのに(詳しくはHPを参照)、そして国は一旦「名を正す」ことを約束したのに、それを、この2月になって反故にしたのである。
この厚労省の「名を歪めた」思考や動きを批判すると、「訳知り顔」の方々が、「タケコプター的理想論だ」とか、「できねぇよ」とか、「現実論から遊離している」とか、「そもそもそれは政治の問題であって厚労省の問題ではない」とか、いろいろな反論をされる。僕自身も、山梨や三重で公務員の方々と一緒に仕事をする機会が多いので、人員削減を一律にする中で、障害者福祉行政の方々が、どれほど残業を繰り返し、必死になって現場を護ろうと努力しておられるか、はよくわかっている。だから、マスコミがやるような官僚バッシングをしたい訳ではない。ただ、明らかに厚生労働省は自立支援法の前あたり、つまり支援費の雲行きが怪しくなった2004年の当初あたりから、「名を歪め」た思考になり始めているのである。それが、支援費のたった100億程度の予算超過を「アンコントローラブル」と言ってみたり、上述の「自立支援法」なる歪めた名の法律を作ったり、その延長戦上で総合福祉部会の骨格提言を潰しにかかったり、という動きに出ている。大変厳しい言い方をすると、東大を出て優秀なはずの霞ヶ関のキャリア官僚の皆さんが「名を歪めてしまうと、我々は自らの世界に生じる事態についての正しい像を構成できなくなってしまう」という状態に陥っているのではないか、という強い危惧である。
だがら、僕は「何よりもまず名を正すべきだ」という孔子=安冨先生の提案に心より賛意を示すし、その一環として、2月あたり、集中的に厚労省批判の文章も書いてきた。これについて「学者の名を借りた運動家」という評価もあったが、僕自身は、「名を正す」ことは、学者としてすべき大切な仕事である、と感じている。こう書くと、「官僚は学者と違って出来ないとは言えない立場なのだ」という反論も来るかもしれない。しかし、何があって、政治主導で「名を正す」と決め、その決定に基づき国の審議会で議論の上でまとめられた「骨格提言」が実現できないのか、それは財源論の問題なのか、それとも本当にこの提言が机上の空論であったのか。そういう理由をきちんと厚労省は応答する責任がある。それでこそ、「名が正される」のである。そのことなく、「現行法でも裁判の和解内容は遵守できています」という本人も信じていない嘘を平気でつくのは、明らかに「名を歪めた思考」であり、それは天下国家を論じるべき厚労省のキャリア官僚がしては、自爆行為なのである。長く書いたが、厚労省のキャリア官僚には、「『名』を正しく呼ぶことが、人間がまともに生きるための第一歩」であることを思い出してほしい、という、懇請のような思いで、この間批判を書き続けていた。
随分長く書いたが、まだまだ安冨先生のこの本からくみ取れる部分、これに関連づけて自らの気づきを展開したい箇所が沢山ある。この本を読む前には、「論語」がこんなに自らの「学び」や生き方そのものにアクチュアルに響くとは思っていなかったけれど、安冨先生の本を読んで、僕は文字通り(知/不知)→知のサイクル、つまり、知ってしまった以上、今までとは違う景色を見始めている。その意味で、繰り返しになるが、この『生きるための論語』は僕自身の「学びの回路を開く」ためのキーブックとして位置付いている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。