問題の一部は自分自身(連作その5)

という表題を痛感する今日この頃。

その事を教えてくれたのは、短期大学の保育科で「地域福祉」の受講生の皆さんたちだ。
実は、この講義は、政治行政学科の「地域福祉論」とかなりの相関性がある。にも関わらず、政治行政学科と保育科では、同じ年の学生が受講してくれるのに、評判が昨年までは全く異なっていた。さて、どちらの方が受けが良かったでしょう?
普通、福祉に興味があるのは、政治行政学科より保育科の学生、と思われだろう。僕もそうだった。でも、蓋を開けてみると、政治行政学科では食いつきがよくても、短大では食いつきが非常に悪いのが、昨年までの通例だった。それは、なぜか?
去年までの僕の仮説は、短大生が内気すぎる、という仮説だった。確かに僕の講義では、毎回のテーマについて、ビデオや資料などを通じて考えた事をワークシートに書かせ、学生さんを当ててその内容を発表してもらい、それに対する問いかけをする中で、講義を深めていく、という形態を取っている。これは、短大でも4大でも、どこの大学でも変わらない展開である。だが、短大生は、去年までは、極度に当てられることを恐れていた。毎回、ワークシートで、「当てないで欲しい」「当てられるのが恐怖だ」というコメントが並んでいた。それに対して、去年までの僕は、短大生が「正解幻想」に囚われていて、間違ったことを言いたくないから、当てられたくないのだ、という仮説を立てていた。
この仮説は、半分当たっている。が、半分は大きく違った。
その最大の間違いは、「問題の一部は自分自身」というテーゼを入れていなかったことだ。つまり、「短大生が悪い」(=僕は悪くない)という他責的な文法で解釈・処理をしようとしていた。これが最大の「問題」であった。
この「問題」に気づいたのは、短大での講義を担当して3年目の今期に入ったときから。どうも僕は短大生にびびられている。そのイメージを変えるにはどうしたらよいか? そこで、第一回の講義では捨て鉢作戦に出た。自分に関する不利益情報や、自分自身が不安に思っていること、困っていることを、一番最初に皆さんにぶつけてみたのだ。
「僕の講義スタイルは、毎回、皆さんが書いてくれたワークシートの内容について、マイクを向けて皆さんのご意見を伺います。その際、『なんで?』と問いかけることがあります。これは、問い詰める訳ではありません。ただ、僕は興奮してくると、つい口調が強くなったり、声が裏返ったりします。すると、問われている学生さんは、『責められてる』と誤解することもあるようです。でも、僕は皆さんをいじめたくて問いかけているのではありません。この講義で扱う地域福祉課題は唯一で正しい『正解』のない問いです。なので、皆さんお一人お一人の率直な声に基づいて、講義をします。当然、僕も価値観を表明しますが、皆さんも価値観を表明して欲しいです。その際、皆さんの価値観が、どういう背景に基づくか、について聞きたいから、『なんで?』と聞きます。でも、繰り返しますが、皆さんを責めるためではありません。いや、むしろ、皆さんと仲良くルンルン講義をして行きたい、と思っています。どうか、怖がらないで、優しく見守ってください。普段の大学での講義は男子が過半数なので、女性の過半数のこの授業で、僕はいつも緊張しています。何百人の聴衆の前で講演するより、今、テンパっているかもしれません。なので、どうぞよろしくお願いします。」
我ながら阿呆だ、とも思うが、どうせなら思っている不安やためらいを全部最初にぶちまけてしまった。
すると、どうだろう。今年の学生さんは、すっとその事を受け止めてくれ、かつ過去二年間とは対比にならないほど、リアクションもよい。毎回の授業での、やりとりの内容も深まっている。理解度も高く、学生さんからの発言も、より深いものになっている。今日の講義も、学生さんのリプライがあまりに興味深かったので、その内容を突っ込んで一緒に検討しているうちに、これまでの講義で考えた事もないことが浮かび、それを整理している僕自身が興奮しながらしゃべっている、という事態だった。そして、その様子を、後から学生さんが、「今日の講義は非常に面白かった」と伝えてくれた。
何が違うのか。それは、たぶんようやく僕自身が、学びの回路を開く、つまり、学生さんからも学ぼうという器が出来、真摯に向き合い始めたのだと思う。
ちょうど、今、パウロ・フレイレの『新訳 非抑圧者の教育学』を読み直している。前のブログでも触れたが、フレイレは教育には「銀行型教育」と「問題解決型教育」がある、という。教える側は知っている人、教わる側は無知の人、だから一方通行で知識を詰め込めばいい、というのが銀行型教育である。一方、問題解決型教育とは、教える側と教わる側の真の対話から、共に学び合い、成長し合う中で、世界に対する見方を変えていく学び、とでも言えようか。この二つが大きく違うのは、教える側の方が、自らも学ぼうとするか否か、の違いである。
そして、そのことは「学びの回路を開く」という事とダイレクトに繋がる。僕自身、去年まで、短大での講義の時に、自分自身の「学びの回路」を部分的にではあれ、閉ざしていた。「短大生は○○だ」と臆断と偏見による都合の良い合理化を行い、その合理化に基づいて、ゆがんだ認識を行い、その認識に基づいて対応していた。また、僕自身がその歪みを学生たちにかぶせたので、学生たちはその呪縛の悪循環サイクルから抜け出すことが出来ず、結果として「タケバタは怖い先生」「この授業はしんどい」という臆断が既定事実化していった。つまり、問題構造を創り出したのは、他ならぬ自分自身であり、悪循環のサイクルに火をつけ、加速させたのも、僕自身であったのである。なんたるマッチポンプ!
そう気づいた後、結局当たり前のことだが、自分自身がまず変わろうとした。「問題の一部は自分自身」。ならば、他人を変えようとする前に、まず僕自身が変えるべき点を洗い出し、それを一つ一つこなしていくしかない。そう思って事態に取り組んでみると、あっけないほどがらっと学生たちの対応が変わった。去年までの学生さん、本当にすいません。おろかなのは、あなた方ではなく、私自身でした。
僕自身、この学びの回路を、教える側である学生さんに開いたからこそ、学生さんからプラスのフィードバックを頂き、その返礼に促されて、授業がルンルンと展開でき、そこから次のフィードバックとして、講義における新たなつながりや関連性の発見へと繋がった。そう思うと、悪循環から好循環へと循環回路を切り替える為に、まず自分自身の循環性そのものに気づき、それをプラスに切り替える一歩を自分から押すべきだ、という、こないだ読んだ『悪循環と好循環』の定義そのものだった。読んだだけでは、中々学べない。自分自身の実践での躓きを通さないと、そこから痛い思いをしないと学ばない。だが、マッチポンプ構造に気づいて、それを変える為に自覚化すると、変わらないと思い込んでいた構造が、丸ごと変容する。そういうダイナミズムを、講義という場面で感じた4月末、であった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。