タケバタヒロシの当事者研究

たまに、普段なら読むことのない本を手に取ることがある。タイトルだけみたら、避けていたかもしれない。でも、とある書評で興味を持って、注文をかけた本が昨日職場に届いていて、結果的に一晩で読み終えた。かつ、今抱えているしんどさの原因が、だいぶすっきりわかってしまった。

「敗者が抱えている問題は『運』と『計画』を区別できないことである。」(マックス・ギュンター著、『運とつきあう-幸せとお金を呼び込む13の方法』日経BP社、p33)
ここには、随分深遠で本質的な命題が書かれている。そして、僕が混乱しているとき、ひどく落ち込むとき、実はここに書かれているように、「『運』と『計画』を区別でき」ていなかった。それは一体どういうことか? まずこの二つの言葉を定義する必要がある。
「運(名詞) あなたの人生に影響を与える出来事であるが、自分で作り出せないもの。」(p11)
ふむふむ、極めて真っ当な、かつわかりやすい定義ですね。確かに「運」は「自分で作り出せない」けど、「人生に影響を与える出来事」だもんね。で、「計画」はどう定義されているのか? 実は運ほどきれいに定義されていないが、次の例を読めば、筆者のいう「計画」の定義がわかる。
「車の運転をするときには自分の腕前(計画)を信じていれば、たいていは無事に目的地にたどりつく。まれに不運がめぐってきて、目的地にたどりつく前に飲酒運転の車に衝突されるかもしれないが、そんな不測の事態が起こる可能性は小さい。こういった状況は計画が運を凌駕する例の一つで、計画が99パーセントを支配し、運の役割は一パーセントにすぎない。」(p35)
確かに車の運転が自分でコントロール不能な「運」に支配されているなら、危なくて仕方ない。自分の腕前というコントロール可能な「計画」が支配的であるから、その基本的な腕前を身につける教習所に通い、検定に合格したら、最低限のコントロール可能性としての「計画」が出来るという免許がもらえるのである。ここまで、すんなり頭に入った。ここから、実に興味深い展開がはじまる。
「人間の欠点や能力と同じように人生も運に支配されている。不運に見舞われたら事態を冷静にみきわめることだ。本当に自分がミスを犯したために失敗することもあるだろう。何かヘマをしでかしたのか、そもそも能力が足りなかったのかもしれない。けれども、9割がたは運に支配されていたにすぎない。それならば『運が悪かった』と認めるのは決して恥ずかしいことではない。ニューヨークの心理療法士、ナンシー・エドワーズ博士は、患者の中でもっとも深刻なのは自分のせいではない出来事について自分を責めるタイプで、そうした人はたいてい不運続きの人生を送っているという。」(p42)
恥ずかしながら、僕自身の大きな課題の一つに、この「患者の中でもっとも深刻なのは自分のせいではない出来事について自分を責める」という行動様式がある。くよくよしがちで、発言に対する他者の対応や反応を気にしたり、あんなことを言わなければよかったという後悔が激しい。それが支配すると、悪夢のようにグルグルと自分の体内を駆け巡る。何度も何度も、スルメをかみ直すように、思い出し「くよくよ」をする。それで、随分心的エネルギーを浪費していると思う。しかも、メールや発言の一言でくよくよしているけど、案外他人は何とも思っていなかったりするので、それが無駄だと頭でわかっていても、やはりクヨクヨする。
少し横滑りするが、連休中にユングを読んでいて、どうもこのクヨクヨは単に否定的傾向、というよりも、一つの人格としての「アニマ」なのではないか、と思うようになってきた。
「男性のあるべき理想像としてのペルソナは、女性的な弱さによって補償される。個体は外的に、強い男性を演じる一方、内的には女性に、つまりアニマになる。ペルソナに対抗するのはほかならぬアニマだからである。しかし内面というものは、外向的な意識に対しては暗く、見えにくいものであり、またひとがペルソナと同一化していればいるほど、自分の弱さを考えることができなくなるため、ペルソナの対立物であるアニマも、完全に暗闇にとどまることになる。したがって、アニマはまず外部に投影されるほかなく、それによって、英雄も妻の尻にしかれる仕儀となるのである。」(カール・G・ユング『自我と無意識』レグルス文庫、p128)
僕は、英雄ではないが、妻の尻には確かにしかれている。また、それを望んで?気の強いパートナーを選んだ部分もある。また、ペルソナとしては、前回のブログで書いた単著の中で分析したけれど、大学教員というペルソナに圧倒されて、違和感を感じ始めたあたりから、どうも身体症状としての冷え性や肩こりが酷くなった部分もある。クヨクヨや後悔、という傾向も、大学教員としての社会的な人格が成長する中で、いっそう強まっていった部分もある。それをアニマ、とラベルを貼ってみたとき、ユングの次のフレーズがすごくすっと心の中に入る。
「彼がなすべき唯一正しいことはアニマの姿を自律的人格として把握し、それに人格的な問いをさしむけることなのである。」(同上、139)
そう、「クヨクヨさん」は、否定すべき、打ち消すべき弱点、ではなくて、「一つの人格」としてのアニマと考えてみたら、どうなるだろう。「それに人格的な問いをさしむける」って、まるでべてるの「当事者研究」そのものだ。確かにべてるの当事者研究は、自分でコントロール不能な幻聴や幻覚、妄想に基づく嬉しくない行動の発露に対して、「幻聴さん」などと「一つの人格」を与え、当事者やソーシャルワーカーなどの「研究仲間」とともに、その一つの人格と向き合い、その行動が変わるためにはどうすればいいか、を「研究する」というスタイルである。
と、研究者的に定義できる「知識」はもっていたが、まさか自分自身が「当事者研究する」とは思っていなかった。でも、そういえば、べてるでは、専門家だって、自分の当事者研究をする、って言っていたよなぁ、と、浦河に訪問したときに聞いた話がよみがえる。でも、あのときは一般論として他人事的に聞いていたのだな、と今、改めて感じる。
さてさて。
で、「クヨクヨさん」と「自律的人格として把握」して、連休中にクヨクヨさんがもたげてきたら、「あんたは、それで何をしようとしているの? どうしてクヨクヨしたいの?」とぶつぶつ問いかけてみた。妻は当然気持ち悪がっていたが。でも、アニマという一つの人格として問いかけはじめた矢先に、先の「運」と「計画」について読んだので、「クヨクヨさん」の構造が、かなりハッキリわかり始めた。長い迂遠の後に、『運とつきあう』の議論に戻る。
先の定義に従えば、運とはコントロール不能なものであり、計画は反対にコントロール可能なものである。努力して頑張れば誰でもその能力が高まるのは、定義に従うと、運ではなく計画である。逆に、頑張ったところで、自分がコントロールすることができないもの、それが運である。
で、「クヨクヨさん」は、運なのか計画なのか。あんなことをしなければよかった、というのは、する事の反省であるから、これは計画である。だが、「クヨクヨさん」が自分の中で支配的な時、それは行動の反省を超えている。その背後で、他の人はどう思うのだろうか、よく思っていないんじゃないか、という他者の評価や思いを推測する気持ちが大変強くなっている。その、他者評価や他人の思惑は、自分でコントロールする事が不能なものだ。ということは、制御可能な計画では無く、制御不能な運、ということになる。つまり、「クヨクヨさん」というのは、自分の行動の反省という「計画」側面が支配的に一瞬見えるが、その実態は制御できない他者評価に妄想的に振り回されているという意味で、実は「運」の側面が支配的な人格なのである。
そして、「もっとも深刻なのは自分のせいではない出来事について自分を責めるタイプで、そうした人はたいてい不運続きの人生を送っている」とは、コントロール不能な運を、コントロール可能な計画と誤認して、「自分を責めるタイプ」である、と見立てると、すっきりする。確かにそういうコントロール不能なことで「クヨクヨ」してたって、何の改善も見られず、疲れるばかりで、「不運続きの人生」になるよね。って、あ、僕自身も「クヨクヨさん」とそういう付き合いをしていたかもしれない!!! これが、タケバタヒロシの当事者研究的には「世紀の大発見」なのである。
これは、何でも計画制御可能である、という近代合理主義に落とし穴のような部分でもある、と感じる。そして、そのことは、計画制御について分析した別の本を想起させる。
安冨歩氏は『複雑さを生きる』(岩波書店)の中で、「調査・計画・実行・評価」という計画制御の枠組みを「人間の関与する事態に適用することは、原理的に不可能」(p109)と言い切る。単純な二足歩行や、砲台からの敵艦射撃を例にあげ、単純に見える動作でも、いかに技術やコンピューターで制御しにくいか、コントロールが難しいか、を分析した後、次のように述べている。
「仏教ではものごとの主要な影響関係を『因果』、副次的な影響関係を『縁起』と区別することがある。『因果縁起』ということばは、ものごとが単線的な原因結果関係で成り立っているというのとは正反対に、物事が複雑な相互関係にあることを示す。このような観点からすれば、世界がなんらかの安定状態にあるということは、事物の複雑な相互関係がそれなりの安定状態を達成するように『なっている』としか言いようがない。これを無理に『因果』だけを取り出して制御しようとすれば、ひどいことになるのはあきらかということになる。」(p119)
コントロール可能な「計画」という「因果」の世界の背後には、コントロール不能な「縁起」という「運」の世界が拡がっている。いくら行動を制御しきったとしても、それは「因果」の世界のみ。「複雑な相互関係」のなかで「世界がなんらかの安定状態にある」とき、それは「因果」だけでなく、「縁起」の部分が大きい。それを「因果」でコントロール可能だ、と思い込むことこそ不遜であり、計画制御やPDCAで全てが解決する、なんてはずはない。コントロールが本来出来ないことまで、計画制御をしたら可能だ、というのは誤認だ。こう、安冨先生は喝破している。
で、これを「クヨクヨさん」の原理に当てはめてみよう。(急に高尚な話から卑近な例に戻るが)
先に、「クヨクヨさん」というのは、自分の行動の反省という「計画」側面が支配的に一瞬見えるが、その実態は制御できない他者評価に妄想的に振り回されているという意味で、実は「運」の側面が支配的な人格なのである、と述べた。自分では「因果」の枠組みで制御可能だと思っているが、大半の部分はそう「なっている」という意味での「縁起」的世界が、クヨクヨさんの支配的構成要素である。そして、先に「クヨクヨさん」はアニマである、と言ったが、ユングが言うように、アニマの存在する「内面というものは、外向的な意識に対しては暗く、見えにくいものであり、またひとがペルソナと同一化していればいるほど、自分の弱さを考えることができなくなる」という性質のものである。つまり、「クヨクヨさん」という僕の中での自律的人格は、無意識の世界で「見えにくい」存在であり、かつ無意識の世界にお住まいの方なので、計画制御でコントロール可能なもんではない、「縁起」的存在である、ということなのである。
で、「縁起」的存在、つまり「運」の要素が強い「クヨクヨさん」と上手くつきあうにはどうしたらいいか。これには、実にシンプルな答えが用意されている。
「結果が悪いのは自分のせいではない。だから力の続く限りがんばればいい。」(ギュンター、同上、p45)
「運」と「計画」を区別する。区別した上で、起こってしまった出来事はコントロール不能な「運」=「縁起」だと割り切る。「うまくいかないのは運が悪かったからだと割り切」る。でも、努力可能な(=つまり「計画」できる)自らの技芸は磨く。それしかない。「クヨクヨさん」という自律的人格が強く自己主張をはじめられたら、こう語りかけたらいいのだ。
「クヨクヨさんは、今回は何をおっしゃりたいのでしょうか? 確かに、『こうすればよかった』と後悔したくなる気持ち、よくわかります。でも、自分でコントロールできない他者評価は『運』まかせ、ですよね。であれば、運でクヨクヨせず、次に出来ることだけを整理して、計画する、というモードに切り替えませんか?」
さらに、もう一つだけ、この「運」の本は「計画」についても、次のように述べている。
「長期的な計画を立てるのが悪いと言っているわけではないが、あまり杓子定規に考えない方がいい。計画は将来を見通すうえでの目安であって法律ではない。思いがけずに幸運が近づいてきたら、躊躇せずに、いさぎよく古い計画を捨てる-。これが運の良い人の態度である。何も考えず自然と振る舞うことによって、『長期計画の罠』に嵌まるのを直感的に避けているのだ。」(p118)
なるほど、知っている人は、ちゃんと「計画」や「因果」の枠組みに過剰に囚われず、「縁起」や「運」との巡り会いを大切にし、「躊躇せずに、いさぎよく古い計画を捨て」ているのですね。僕も「クヨクヨさん」も、この「運の良い人の態度」を見習うことにしよう。一人当事者研究の結論は、そういうことになった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。