事後対応型を超える為に

ブログを書き始めて、今月で8年目に突入する。

山梨で大学教員になった2005年の5月に、今はウェブデザイナーをしている高校写真部の友人に、ドメイン取得からブログサイト構築までお願いして作ってもらった。やっと定職に就いた、という嬉しさと、大学教員という肩書きのすごさへのビビリと、がないまぜになる中で、身辺雑記的なものを記録しておきたい、と思って始めた。当時はツイッターもFBもなかったので、また僕はミクシィとはご縁がなかったので、身辺雑記のウェブでの公開、というのはブログという手段しか無かった。
で、久しぶりに8年まえのブログを読み返して、自らの当時の「ビビリ」の姿勢がよくわかる。例えばJR西日本の列車脱線事故に関するブログ。事件発生の当時から、マスコミの糾弾の仕方に違和感を感じていた。事故を起こした運転士やJR西日本という会社を徹底的に糾弾する一方、なくなられた方々の遺族に「お気持ちは?」とカメラを向けまくる手法。これは、祇園や亀岡の車の暴走事故や、あるいは長距離バスの追突事故とも全く同じ構図である。確かに、事故は本当に許せないものだし、加害者である運転士・手や、管理する立場の運行会社の問題は、徹底的に追求すべきである。でも、この当時のブログに書き付けた違和感は、加害者の糾弾と、被害者家族に「お気持ちは」と追いかけるだけがマスコミの仕事なのか、という問いである。8年まえはそれを「個々の個人、会社”だけ”の責任なのか?」「時間感覚について」の二点で考えていた。
だが、8年まえは、この二つを書く事すら、こわごわと書いていた。だから、最近のブログと比較すると、実に文章が短い。事故が起きた直後に、こんなことを言うのは「不謹慎」ではないか。そういう「空気」を読んで、マスコミ報道の潮流とは違うことを言うことを、恐れている自分が一方でいた。根拠も無いのに、直感だけでこんなことを言っていいのか。ちゃんと勉強もしていないのに・・・。そんな恐れをなしていた。
あれから8年。今振り返ってわかったことは、直感は案外正しい、ということだ。ただし、ある程度、知識や情報で論理的な肉付や構造化をしないと他者には伝わらない、という限定付きではあるが。
この列車脱線事故にしても、その後の事件報道にしても、この時の直感で感じていたことを、今なら次のように構造化できる。
マスコミ報道の違和感は、問題を「事後対応」型で処理し、しかも「個人モデル」で検討している点にある。
こう書くと、次のような反論も来そうだ。起こってしまった事件を取材するのだから、当然「事件後」の「対応」じゃないか。しかも、過失責任のある個人や、それを監督する立場にある組織の問題を徹底的に追求するのは当たり前じゃないか。
確かに、一見すると、その通り、である。だが、この「事後対応」で「個人モデル」型の糾弾の仕方は、大岡裁きや水戸黄門を見ている観客のように、事故や事件に関係ない一般市民にとって「勧善懲悪」的な関心を持たせる。「本当にひどいねぇ」「言語道断だ」「被害者はいたたまれない」といった感情を持ち、マスコミ報道に「憑依」していく。被害者のつらさに共感し、加害者・組織への怒りを強める。
だが、その感情を、何ヶ月、何年と持続できるだろうか・・・。
マスコミは、毎日毎日、ニュースを追いかける。それはsomething newでありsomething interestである。新しさと面白さがある素材を追いかける。連日報道する内容は、新事実という面白みがなくなった段階で、「賞味期限切れ」であり、次の事件や事故の報道に切り替わる。読者・視聴者も、めまぐるしく報道される新しい何かに釘付けになり、あれだけ怒ったり悲しんだりした以前の事故は、すっかり忘れてしまう。厳しく言えば、「他人事」だから、マスコミ報道に「憑依」して共感や怒りを持ち、「他人事」であるがゆえに、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」。ニュースのワイドショー化が言われて久しいが、事件を「ドラマ」化して、「他人事」として消費している。
だが、本当にある問題を「問題だ」と感じるなら、構造的類同性の方にこそ、目を向けなければならない。8年まえに感じていた「時間感覚」や「個人責任への矮小化」の違和感とは、結局のところ、「問題の一部は自分自身ではないか?」という問いであった。もちろん、その当時、そんな言葉を全く持っていなかったが。
電車が1分でも遅れたら、運転手や車掌が「お急ぎのところ、申し訳ありません」と謝罪する。ちょっと待ってよ。たった数分じゃない。でも、1時間とか2時間とか遅れようなら、駅員に喰ってかかり、時には傷害事件にすら発展する。「そんなに急いでどこにいく」。この「早く」「正確に」という事への強迫的願望が、僕やあなたの中にすくっていて、それが、遅れを許さない、遅れに罰を与える、という鉄道会社の内在的論理に組み込まれた。その内在的論理に抵触する「遅れ」に焦った、「出来の悪い」運転士が挽回しようと必要以上に速度を出した。すると、そういう事を要請した私たち自身の「早く」「正確に」という強迫的願望が、事故の背後にあるのではないか。
そして、これは高速バスの事故でも同じような構造的類同性を感じる。デフレで規制緩和をすることによって、バスの価格破壊がすすみ、安全の担保よりも値下げ競争が強まった。それは、過剰な安さを求めた、僕たち自身の願望の裏返し、とは言えないのか。確かに、日本では必要以上の規制が多すぎるし、それは緩和しなければならない。でも、安全や安心に関わる規制まで緩和の対象にして、本当に大丈夫なのか。これは、混合医療に向けた規制緩和を求める声、あるいは義務教育のバウチャー制度化を求める声、にも同じように感じる危惧である。規制緩和や自由化は、情報の非対称性が強く、安心や安全を担保すべき領域では、馴染まないのではないですか、と。
こういう、出来事の背後にあるパターンや構造こそ、問題がある。これは、8年後なら、やっと言える。最近読んでいる分厚い本にも、こんな風に書かれている。
「なぜ構造の説明が重要かというと、それをもってしか、挙動パターンそのものを変えられるレベルで、挙動の根底にある原因に対処することができないからだ。構造が挙動を生み出すゆえに、根底にある構造を変えることで異なる挙動パターンを生み出すことができる。この意味で、構造の説明は本質的に生成的(根源から創造する)である。また、人間のシステムにおける構造には、システム内の意思決定者の『行動方針』も含まれるので、私たち自身の意思決定を設計し直すことがシステムの構造を設計し直すことになる。」(ピーター・M・センゲ『学習する組織』英治出版、p104)
ある事件や出来事の背景には、共通の挙動パターンや類同性がある。その背後には、何らかの問題が構造化可能だ。そして、その構造を解き明かし、説明することが、問題を本質的に解決するためには必要不可欠だ。本当に感情的に「許せない」と絶叫するなら、その気持ちを、論理的に問題を解決するためのエネルギーとして使った方がいい。だが、加害者やその会社、関連団体に苦情電話や誹謗中傷をするエネルギーがある人も、それを構造問題を解き明かすために使おうとしているかどうかは、甚だ疑問である。祇園の事件の後、日本てんかん協会に誹謗中傷攻撃を仕掛けた人のどれだけが、てんかん病のある人が追い詰められずに働ける構造を作る為の構造的説明に時間をかけているだろうか。
「○○が悪い、許せない、責任者出てこい」
こういう風に他者を誹謗中傷するのは、ある種の人にとっては、勧善懲悪のドラマの主人公に憑依できているようで、気持ちよいだろう。だが、その一瞬の「すかっとさわやか」はあっても、そこから問題を本当に解決しようとしていないのであれば、事件をダシに消費しているだけで、他人事であり、無責任であり、そういう事件を消費して楽しむスタイルだって、言語道断、とは言えないだろうか。
長くなってきたので、結論を急ごう。本当に問題を解決したければ、「事後対応型」の「個人モデル」ではダメだ。起きてしまった事故を繰り返さない為には、事故を教訓に、「事前予防型」の「社会環境改善モデル」を採らなければならない。
「システムの構造を設計し直す」には時間がかかる。そして、そのシステムで安住している自分自身の「根源」も時には揺らぎかねない。変化を求めない人にとっては、個人に問題を矮小化し、「あいつが悪いからあいつが変わればいい」と他人事で見ていた方が楽だ。でも、「挙動の根底にある原因に対処」しない限り、問題は本質的に解決しない。本当に「異なる挙動パターンを生み出す」=つまりは、事故を繰り返さない、ことを求めるならば、「根底にある構造を変えること」が求められる。こういうラディカルさがないと、本質は何も変わらず、「熱さ忘れた」頃に、また同じような事故という挙動パターンを繰り返すことになる。失敗学が提唱している失敗から学ぶ、というのは、そういう「システムの構造を設計し直す」ための学びなのだ。そして、それを設計しなおすことは、そのシステムの構造に影響を与えている・与えられている、意思決定者の一人である僕やあなたの考え方を変える、ということも求められる。だからこそ、問題の一部は自分自身、でもあるのだ。そういう構造的類同性に気づけるか。問題の一部を自分自身、と引き受けられるか。
最後に現在から未来の問題について。原発災害で、脱原発か原発再稼働かで国論を二分している。この時に大切なのも、「事前予防型」の「社会環境改善モデル」で構造から根源的に考え直す視点だ。その時に、別に原子炉の構造や資源エネルギー政策を詳細に熟知している必要は無い。新聞記事レベルでも始められる。「問題の一部は自分自身」という視点で、電力に過度に依存する自分自身とシステムの問題を見つめ直すことが、まず決定的に大切なのだ。自分が変わらないのに、他者に変われ、と言っているだけが、最も他責的で、傲慢なのではないか。僕はそう感じている。
追伸:今日のブログは、ちょっと前に読み終えた佐々木俊尚さんの『「当事者」の時代』(光文社新書)にかなり感化されている部分がある。ただ、研究室にその本を置いてきてしまったので、引用は直接出来なかったが、メンションしておく。分厚いけど、マスコミの「憑依」の問題を徹底的に問い直す、非常に良い本です。あまり売れていない、と佐々木さんはツイッターで呟いておられたが、あれはロングテールのように、長期的に読まれ続ける良書だと個人的には思っている。少なくともAmazonで平均☆三つの評価、は酷い。僕なら間違いなく五つ星にする。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。