「ひっくり返し」の醍醐味

気がつけば、3週間近くブログを放置していた。

この間、ツイッターにぶつぶつ呟く時間はあったのだが、ブログにまとめて議論する時間が取れなかった。授業がない「夏休み」だが、何だかその内実、めちゃんこ忙しいのだ。
ノルウェーから帰ってきた後、イタリア語の勉強を再開すると共に、バザーリアの英訳された論文集を読み始める。そのタイトルが、Psychiatry Inside Out、日本語にするなら「精神医療をひっくり返す」。確かに、既存の価値体系そのものをひっくり返す面白さがある。毎日10頁程度しか読み進められないが、やっと半分を超えたところ。その間に三重や東京や大阪への出張が入ったり、あるいは単著原稿のゲラが送られて校正をしていたりして、なかなか読み進められないが、とにかく現時点で気になる「ひっくり返し」の醍醐味をいくつか備忘録的にメモしておく。
現象学を学び、サルトルを手放さず、弁証学的な対話を続けてきたバザーリア。マルキシズムに親和的な事もあって、彼の文章はかなりの左派的な過激さを帯びている。が、深く読み込んでいけば、すごく真っ当な「ひっくり返し」の論理である。例えば「狂気」を議論しているとき、では「健康」って一体何だろう? 健康な人の中に狂気は潜んでいないのか?と問い直す。あるいは、障害者は生産能力が低いとして隔離収容の対象になるが、そもそも「生産性」って一体何だろう、と問い返す。劣っている、狂っている、不適応である・・・といった「逸脱」のラベリングに対して、そもそもその「逸脱」のラベルを貼ろうとする資本主義体制そのものの「狂い」や「不適切さ」を問いの主題とする。精神病者の暴力行為をとがめる資本主義社会の暴力性そのものを問いかける。私達の社会で「当たり前」「正しい」とされている事そのものに疑いの眼差しを入れる(call into question)。このあたりが、実に興味深い。
で、この社会での「当たり前」「正しさ」への疑いを持つ、という視点は、何も69年的な発想で時代遅れ、ではない。現代日本社会においても、実に必要とされている視点である。
ちょうど昨日は、某市役所での職員研修だった。福祉課だけでなく、商工や環境、土木課の職員も対象にして、「孤立死・自殺・虐待を防ぐために、市職員として出来ること」というお題で話をする。その中で、一番興味を持ってもらったのが、いわゆる「ゴミ屋敷」問題と「用地買収」問題の共通性だった。
「ゴミ屋敷」と「用地買収」の共通性とは何か。それは、異なる思惑を持つ人と、どのように共通の理解を構築し、変容可能性を模索するか、ということだ。たとえば、「ゴミ屋敷」の場合、近隣住民から市役所に対して「何とかしてほしい」という苦情が入る。あるいは、例えば道路や施設を作る際、用地買収に応じない家が一軒だけ残ると、建設が進まない。その時、「ゴミを捨てない家庭」「立ち退きを拒否する家庭」は、社会秩序に従わない、逸脱者、というラベリングを貼りたくなる。
だが、そのラベルを貼ってみたところで、問題は解決しない。それどころか、対応に当たる役所の担当者が、その相手にラベリングを貼って、斜め上からの目線で接している、ということは、必ず「逸脱者」とレッテルを貼られた相手に伝わる。すると、まとまるはずの問題でさえ、まとまらない。これは一体どういうことか?
以前、用地買収のプロのお話を伺ったことがある。その中で、今はやってはいけないけれど、当時のプロは、例えば絶対に土地を売らない、と頑なに拒絶する家庭には、日本酒の一升瓶を下げてご挨拶に伺っていた、という。そして、売って下さい、というのではなく、日本酒を酌み交わしながら、売ってくれない訳をじっくり伺うというのだ。ゴミであれ、土地であれ、そこにこだわりを持つからこそ、手放したくない。その「こだわり」を「変だ」とか狂っているとか逸脱している、と片付けず、その人らしいこだわりとして、その背後にあるその人の人間性、人生観、これまでのパーソナルヒストリー、それらにじっくりと耳を傾ける、というのである。そういう風に語ってもらう中で、少しずつ、その人の中でも何かが溶け始め、結果としてそこから解決策がじんわり産み出されることもある、というのである。
もちろん、これはどんなときにも解決する魔法の方策、ではない。でも、少なくとも「強制代執行」とか「強制入院」とか、警察権力を活用して強制的に排除する思考は、明らかに高圧的であり、「反ー対話」的である。問題が解決しないとき、それはどちらか一方が「逸脱している」「狂っている」「おかしい」のではない。実は、対話をする中で、単にそうやって排除する側、追い詰める側の方の矛盾や問題点が表面化することだってある。その時に、私達の社会の主流となる「正しさ」や「常識」そのものも問い直し、書き換えるような柔軟性を持ち、現場で必要な解決策に結びつけていくことが出来れば、実は「困難事例」とラベリングされるケースであっても、動き始めるのだ。そして、動き始めてみると、「困難事例」とラベルを貼っていた支援者側の「困難性」が、その事例への対応に析出されていた、なんてことも、少なからずある。
つまり、常識に従うことが正しい、という論理自体を「ひっくり返す」「問い直す」ことによって、その論理の持つ暴力性やイデオロギー性、あるいは抑圧的権力性そのものにも目を向ける事が出来るのだ。
ひとは、納得しないと、態度を変容しない。説得では、山は動かない。その時、納得出来ない人を「わからずや」と糾弾したり、縛ったり、閉じ込めたり、薬漬けにしたりしても、態度は変わらない。態度を変えられない、変えたくない、その根拠にこそ耳を傾け、共感する。その中で、変えたい社会と変わりたくない人の双方にある「歪み」も先鋭化される。その歪みの構造的問題をお互いが理解し、その中で、とにかく妥協できるポイントを少しずつ探る中からでしか、解決策は見いだせない。「ひっくり返し」の醍醐味とは、現象学のエポケーにも通じる、「常識的な通念を一旦括弧に括った上で、根本から問い直す営み」なのである。なぜこの人はゴミを溜めるのか、なぜ土地を売ってもらえないのか。ゴミや土地を通じて、その人が大切にしているもの、表現したいもの、信条としているものはなにか。そういう自分とは異なる世界観を排除せず、それを尊重する「ひっくり返し」の論理を、ご本人に寄り添う中で構築していければ、そこから事態を打
開する信頼関係も生まれてくるのではないか。
現に用地買収をしている、「ゴミ屋敷」への対応をしている、自治体現場の最前線で働いている人が、一番頷いてくれた場面であった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。