山梨県民にとって、笹子トンネル事故は、人ごとではない。
僕は普段上京する際は電車派だが、羽田や成田から飛行機に乗るときは、高速バスにしばしばお世話になる。その際使っていたあの笹子トンネルに限って、ハンマーで叩く点検がなされていなかったなんて・・・。そういう落胆と、多くの犠牲者を出してしまった事への悲しみを感じる。そして、狭い20号や御坂峠が迂回渋滞になっている、という地元紙を読んで、社会的インフラ、かつ大動脈としての中央高速が止まる事への不安感も感じている。
民主党政権で、「コンクリートから人へ」と謳われた事への批判も、この選挙戦で聞こえてくる。必要な公共投資はやはりすべきだ、と。このフレーズに関しては、僕も同じ意見だ。ただし、次の留保をつけて。
「コンクリートから人へ」というフレーズは、元々ハコモノ型の公共投資から、ソフトの公共投資への移行をさしていたはずだ。教育や子育て支援の拡充を意味していた。この部分について、僕は否定するつもりではない。今の社会への不安を表層的な父権性欠如ゆえと早とちりして(これは前回のブログで考えた)、それは全て親や家族がやれば良い、国がそうやって甘やかす必要はない、なんて暴論を吐くつもりもない。父も母も安心して子育て出来る社会環境を作ることこそ、少子化への結果的な対応にもなる。これは、フランスやスウェーデンの取り組みをみても、間違いない。
一方で、今回の高速道路事故でも表面化してきたのは、老朽化した高速道路や新幹線、鉄道、上下水道、橋などの社会的インフラをどう維持・補修するか、という課題だ。昨日の朝日新聞では、脱ダムに関して、どうダムをうまく「壊す」かが問われていた。いらなくなった社会的インフラをどう減らすのか、その「壊す」公共工事と、それを通じて自然環境をどう再構築するのか。これは、原発の縮減とも相通ずる課題でもある。
こう考えてみると、戦後、我が国の公共投資とは、きわめて「攻める公共投資」であった、といえる。
発展途上国的マインドで、「まだない何かを作る」ことに心血を注いできた。ダムでもコンサートホールでも、高速道路でも整備新幹線でも、共通しているのは、「まだない何かを新たに作る」ことにより、発展を実感する、という深層意識だ。確かに、土木事業は地方に雇用の場を生んで、失業率を下げてきた、というのも事実である。そして、こういう経済成長型の攻める公共投資によって、国土が整備されてきたのも、また事実である。社会的インフラが整備される、ということを通じて、僕自身もその恩恵を受けている。
だが、世紀の転換点の少し前からみんなが薄々気づき始めているのは、このような「攻めるハコモノ公共投資」が限界である、という認識である。先の政権交代時に「コンクリートから人へ」というフレーズに多くの有権者が飛びついたのも、この部分であった。
とはいえ、現金給付主流の教育投資は、結局財源確保がうまくいかず、途中で頓挫した。また、バックラッシュ的に生活保護叩きが今年の前半から進んでいた。さらに言えば、昨年の東日本大震災後の復旧支援でも、住宅や仕事、生きる希望を奪われた一人一人の生活者に寄り添う支援が必要なのに、中央政府から出された対策は、どうしてもハードの整備が中心で、個々人の暮らしを支えるアプローチは「公平性にもとる」という理由で先送りや拒否にあっている。その隙を埋めるために、NPOやNGO、社会起業家やコミュニティ・ビジネスなどが被災地で必要とされている、というリアリティもある。
こう振り返った時、今求められているのは、公共投資の質的転換ではないだろうか。それは、攻める公共投資から、守り・育てる公共投資、への転換である。
どういうことか。
日本の社会保障費が増大している、という一方で、医療や介護、障害者支援の現場では、常にOECD諸国の平均に比べて低い財政投資の現実が叫ばれてきた。これは教育でも同じである。我が国の公共投資の多くが、年金という現金給付に傾く一方、教育や子育て支援、医療、介護、障害者支援などの現物給付には十分な投資がなされていない。ハコモノや現金というわかりやすい方法論に丸投げすることは、誰にもその結果が見えやすい。その一方、人的支援を手厚くする、ということは、「いくら再配分を受けた」「どのようなハコモノが出来た」という見えやすい成果が伴いにくいので、わかりにくい。選挙が個人の人気投票になる我が国の実情では特に、「わかりやすさ」が必要以上に問われ、こういう目に見えた「攻めるハコモノの公共投資」が喜ばれた。だが、その結果、ハコモノや道路は立派でも、そこに住む人はどんどん離れていく、という過疎化・シャッター通り化された地方と、過密で保育園の建築すらままならない都会、という二項対立的現実が展開された。
だからこそ、今から求められるのは、新しいハコモノを作る事に主眼を置くのではなく、これまでの社会的インフラストラクチャを守りつつ、そこで暮らす人の生活を守り、新たな暮らしを育む支援を行う公共投資である。
たとえば、介護士や看護師の不足に関して、EPA制度を利用して、東南アジアの専門家を「輸入」すればいい、という議論もある。これも、「攻める」公共事業の亜流である。なぜならば、介護や看護の単価を上げることなく、現状の低い単価でやってくれる人を輸入すればいい、という差別原理が働いているからである。医師不足は叫ばれても、医師の輸入は叫ばれない。弁護士の不足だって、ロースクール新設の方法論が選ばれたのであり、弁護士の輸入には結びついていない。これは医者や弁護士は専門性が高く代替性が効かないが、看護師や介護福祉士は専門性が低く、ならば移民でも代替可能だ、という外国人差別、および女性差別の原理が伏流しているとさえ、考えられる。(これついては以前ブログでも検討した事がある)
地方の公務員志望の学生が多い大学で働いていて気づいたことは、彼ら彼女らの中には、必ずしも公務員を志望している訳ではない、という学生が少なからずいる現実である。自分たちの生まれ育った町で一生暮らしたい。また、社会にも貢献したい。でも、今安定的な仕事で社会への貢献も出来る仕事といえば、地方では公務員しかない。だから、警察や消防、町役場などの地方公務員を目指す、という論理である。これは、本人だけでなく、その町で暮らす親御さん達も共通して持つ認識である。そういう学生さんにしばしば、「では介護や福祉の仕事だってその町に社会貢献出来るのでは?」と問いかけると、介護や福祉では食っていけない、という答えが返ってくる。これも、非常に平均的な認識である。
長い回り道をしたが、僕が言いたいことは、次のことだ。医療や介護、福祉、子育て支援、教育など、再生産労働に密接に結びつく領域にこそ、人的資本に対しての公共投資を分厚くする必要があるのではないか。福祉や介護、教育、医療の領域で、ある程度人件費に投資を行うことで、その地域での安心・安全と雇用を創出する政策である。これは、確かに新しいハコモノを作る、現金給付をする、というわかりやすい、目につきやすい「攻める公共投資」ではない。でも、その地域での持続可能な生活、安心・安全で心豊かに暮らせる社会基盤を守り、誰でも「生き心地のよい社会」を育てるための、必要不可欠な公共投資ではないか。このような公共投資がされないと、自殺者や心の病に追い込まれる人は構造的に減らないのではないか。そんなことを感じている。
国土を開発する、のではなくて、豊かな人間的暮らしを守り・育てる為の人的公共投資を積極的に行う。またハコモノの新設よりも、明治時代から構築してきた鉄道網、戦後ずっと創り上げてきた上下水道や道路などの社会的インフラを大切に使い続けるために、その補修や維持、そして改良のためにこそ、公共投資を積極的に行う。その一方で、ダムや原発など、一定の役割を終えた巨大なハコモノを縮減出来るような方法論こそを開発する。環境破壊のベクトルを逆にし、里山的な自然との共生を目指すための公共投資を行う。こう書くと、きっと「そんなに経済(現実・政治・○○)は甘くない」という批判も聞こえてきそうだ。だが、国土を開発しないと未来はない、という「攻めの公共投資」の骨法自体が賞味期限切れをしている。であれば、公共投資の構造転換、「守り・育てる公共投資」こそ、これから必要不可欠である。ただ、それを実現する為には、財源も含めた地方分権の推進、および、地方行政・地方議会・首長の認知転換も必要不可欠であるが。
というようなことを誰も言ってくれないので、備忘録的にしたためておく。