本当に「楽しい人生」を送る為に

ふとした瞬間に感じることがある。

こうやって「忙しい」とか「大変だ」とか言っているけれど、そういう状況を作り上げているのは、他でもない自分自身だよな、と。
確かに社会的に引き受けている仕事、断れない用件、職場で義務として行うこと・・・などもある。だが、それらの構成要件も含めて、引き受けているのは、自分自身。それがshouldでありmustな状態に持って行っているのも、実は自分自身。嫌なら、その状況を変えるために、必死になって方法論を探ればいい。でも、その状況を変えるための努力を積極的にしないのなら、それは自らがその状況を消極的にであれ、引き受けていることに他ならない。
目の前のことが、特にスケジュールが詰まって迫ってくると、「すべきこと」に押しつぶされそうになる。すると、一歩引いてじっくり考える事もなく、次から次に、すべきことをバケツリレーのようにこなしていく。その際、しんどいな、とか、嫌だな、と思っても、我慢強く引き受けていく。
だが、それらは、所与の前提ではない。それをしなければ、自分の生命が維持できなくなる「すべきこと」なのか、と問われると、大概のことがそうではない。
そんなことはない。仕事や付き合いや○○のために仕方なくやらされているんだ!
そういう叫びも聞こえてきそうだ。
だが、少し深呼吸して、リラックスした頭で、改めて考えてみよう。
よく言われているように、これほど専門分化、タコツボ化した世の中では、みんなが何かしら、歯車の一つになって、働いている。そして、その一つが失われたり、なくなったりすると、確かに惜しむ声は聞こえたり、一時的にブーブー言う声や非難が聞こえたりするかもしれない。でも、それでも地球は回る。組織や社会は、その人の代替を見つけてきて、何とか廻る。廻らなかったら、一部を止めるとか、他に何かの手当をするとか、で処理していく。
すると、自分が「すべき」「しなければならない」と思い込んでいることは、良い意味でも悪い意味でも、自分の有責性、つまり責任があると感じている感覚、による。そして、それは、他の人に強制されたことではなくて、自分自身がそれを積極的にしろ消極的にしろ、引き受けたことである。
だから、自己責任だ、あんたが責任を取れ! そんな乱暴な議論をしたいのではない。
自分が、引き受ける主体である。であれば、「いやだ」「止めたい」「○○したい」という自由も、実は自分自身に担保されている。
ただ、その「○○したい」という自由が自分に与えられている、ということが、眼前の「すべきだ」「しなければならない」という有責性と思い込みによって、見えなくなってしまっているだけだ。その眼前の「すべき」「しなければならない」という思い込みの眼鏡(これを人は「先入観」という)を取り払ってみたら、自分自身の「○○したい」を選ぶ自由が浮き彫りになってくる。
とはいえ、この「○○したい」を選ぶ自由、とは、それを選んだ結果責任をも伴う自由である。そこまで引き受ける勇気がないし、面倒くさい。そう思うと、何となくこれまでの世間や社会、職場の関連性の網の目に取り込まれた「すべき」「しかたない」の連関に縛られている方が「楽だ」と感じる。これぞ、「自由からの逃走」の事態なのかもしれない。
そう、「○○したい」を選ぶ自由、とは、それ以外の何か、旧来の関係性に、一つずつ、区切りをつけていくことである。すると、これまでの関係性を変えられると思う相手は、何らかの文句や非難を言ってくる可能性がある。その表面上の文句や非難、糾弾に合うのが面倒なので、「まあ、いいか」となってしまい、「すべき」「ねばならない」の連関の鎖に自縛されたままでいる。
ただ、繰り返し言うが、その鎖につながれるのも、その鎖から解き放たれ、自分の「したい」を追求するのも、自分自身の選択に基づく。自ら、あと何年、何十年生きるかわからないが、人生が有限であることだけは、100%決まっている。その峻厳な事実を前にして、他者のコントロールに自ら縛られていく人生を引き受けることが楽しいだろうか?
僕は、楽しくない。改めてそう思う。
例えば、作家の村上春樹氏と森博嗣氏に共通しているのは、自分で「○○したい」の自由を獲得する為の、自己管理哲学の完遂、である。
深い深い物語を書く自由、好きな工作にいそしむ自由、これらを時間的に確保するための努力を、ずっと続けている。世間や社会の通例や慣行と違っても、自らの「○○したい」という自由を確保するために、自分なりのやり方を徹底している。この徹底ぶりって、本当に自分の限りある命を大事に使うための、大切な方法論だと感じる。
僕自身、日々「すべき」「ねばならない」に流される日々に、その昔は言い訳をしていた。でも最近、そんな悪循環から抜け出しつつある。「○○したい」を完遂する自由、この時間を確保することを優先順位の上位にどれだけおけるか? そのために、社会との付き合い方をどう変えられるか? これを徹底的に考え抜く中で、自分にとって、本当に「楽しい人生」を過ごすことが出来るのだと思う。
ふと、会議の為にスーツに着替えながら、そんなことを考えていた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。