先週火曜日から風邪を引いて寝込む。熱は治まったようだが、咳がひどくて眠れず、自宅療養の日々。なので、今週は結果的に布団読書の日だった。その中で、内田先生の増補版の本を読んでいない事に気付き、ゲホゲホしながらの読書。彼の論は雑だとか、あるいは資料的裏付けがなされていない、とか色々な批判も読むが、僕はそれより、物語の語り部としての内田視点から、学ぶことが多い。例えば、こういうあたり。
「人はどうしても、自分につごうのいい情報は過大評価し、自分につごうの悪い情報は過小評価しがちになります。でも、そのことをいつも念頭に置いておけば(つまり『自分の愚かさを勘定に入れる』ことを忘れなければ、あまり大きなミスは犯さないで済むはずです。」(内田樹『増補版 街場の中国論』ミシマ社、p84)
増補される前のバージョンの本も買って読んでいるし、彼のこのフレーズはブログや至る所で繰り返し読んでいるが、でも僕にとっては、すごく今日的で大切なフレーズだ。それは、「自分の愚かさを勘定に入れる」ことほど、言うは易く行うは難し、なのである。むしろ、自分の認知バイアスは不問に付して、認知バイアスを極大化させるような情報の取捨選択をしやすい。ツイッターが怖いのは、誰をフォローするかを選択できるので、自分が好きな言説をチョイスすると、結果的には自分の周りの世論はみんなこう言っているのにマスメディアは報じていない、という独りよがりが横行する。原発問題でも大阪市長選でもTPP問題でも、是非が分かれる問題においては、どちらの立場を取るかは自由だが、その立場に関する「自分の愚かさ=認知バイアス」を「勘定に入れ」ないと、問題の本質を全く読み誤ってしまう。
そして、もう一つ、様々な事象を読み解く上で、大切な視点がある。それは、内在的論理に寄り添えるかどうか、である。
「どのように傍目から理不尽に見えるようなふるまいであれ、たいていの場合、先方の政府や国民にとっては『主観的には合理的な根拠』がある。それを『おまえのしていることは私にはよくわからん』といくら大声で言ってみても始まらない。どうして、『そのようなこと』が先方にとっては『主観的に合理的であり、かつ正義にかなっている』ように思えるのか、その判断の構造を理解しなければ、生産的な対話は始まらない。」(同上、p32)
意見が分かれる問題というのは、こちらが正しいと思うことと、相手や他者がそう思うことに、極端な開きがある場合である。その時、自分と極端に違う意見に対しては、「理不尽に見える」。だが、それは自らの「理」からすれば「不尽」であっても、相手にとっては何らかの内的必然性があるから、行っているのである。つまり、「『そのようなこと』が先方にとっては『主観的に合理的であり、かつ正義にかなっている』」という内在的論理があるのだ。その内在的論理の構造を、相手の眼鏡にたって、虚心坦懐に理解しようと努め、あるいは徹底的に分析し続ける中で、初めて「生産的な対話」に結びつく、という。
これは、自分自身の判断根拠が「多くのあり得る根拠の一つに過ぎない」と認め、別のソリューションもあり得る、と認めること、つまり『自分の愚かさを勘定に入れる』こと、と繋がる。逆に言えば、自分が愚かではないという高見の視点から、『おまえのしていることは私にはよくわからん』というような不遜な発言が出てくるのである。「理不尽」に見える相手の行動にも、何らかの合理性がある。でも、その合理性を、現時点で私は理解していない。それを理解したい。そのような視点が、「生産的な対話」への道を開くのだ。
なぜこの視点が大切なのか。それは、次のフレーズを元に考えてみたい。
「僕たちにはうまく想像することのできない種類の心情や感動が隣国の人々を統合させているという事実を、僕たちはせめて知識としては知っておいた方が良い。」(同上、p239)
自分の想像や理解を超える何かが「他者」の内在的論理を構成している、ということを理解しないと「対話」が成り立たない、という骨法は、中国理解に限らず、イスラムでも、北朝鮮でもアメリカ人でも、あるいは発語が困難な人であっても、あるいは自分の大切なパートナーであっても、自分以外の「他者」を理解する上での、基本のき、であるのだ。例えば、家族間だって、普段からのおしゃべりや経験の共有によってわかり合えている、と思い込んでいるが、親密なはずの家族間でもわかり合えないことは少なくない。家族を恋人や友人、会社の同僚、隣近所・・・と置き換えていけば、どんどんその率が高くなる。にもかかわらず、ある程度の情報共有で、そこそこの理解が出来ていると思い込める(それが誤解であっても)関係性があるから、問題化していない。
だが、その関係性が十分に構築できていない相手とは、それが誰であっても、「わかり合えない他者」として存在している。その時、相手のことを理解したいと思うなら、自らの振る舞いの正しさを「当たり前の前提とする」(=という自分の愚かさ)を括弧でくくり、相手なりの『主観的には合理的な根拠』を探さなければならない。だが、例えば国際問題の専門家でも、障害者・高齢者支援の専門家でも、「専門家」と名乗る人ほど、自分自身の無謬性(=自分は正しいし間違いようがない)の虜に無意識になりやすい。特に、対象者が例えば中国内陸部の農民や、精神病院入院患者、など、一般の人がアクセスしにくい対象者であればあるほど、「こういう人は○○だ」という専門家の知識は絶対化しやすいし、素人はその専門家の言説を信じ込みやすい。だが、その専門家自身が、自らの「愚かさ」を常に検証しない限り、認知バイアスはどんどん膨らみ、自らの専門性は、自らの眼鏡を曇らせる、時には視野をふさぐ、邪魔な知識となり得るのだ。
専門家、と言われる人ほど、あるいは一定の年齢や経験を経るほど、これまでに構築してきた、自らの認知体系を固守したがる。だが、その認知体系は、残念ながら誰であっても、認知のバイアスとなる。誰だって、「愚かさ」を内包している。だが、その「愚かさ」に自覚的であるか、その「愚かさ」をなかったことにするか、で、自分自身の行動や判断は大きく異なる。大学教員という立場も、自らの知識の虜囚になり、その知識に縛られ、認知バイアスの中で窒息死しやすい職業である。
常に、他者の内在的論理を学ぼうとする気持ち、および『自分の愚かさを勘定に入れる』謙虚さ、は忘れたくない。風邪の寝床で、そんなことを考えていた。