履歴という名のしがらみ

日常の履歴とは、時として、人の可能性を閉じ込める洞窟であり、イドラではないか。

僕ならば、大学教員、山梨在住、週に2,3回は合気道に通い、山梨県内のいくつかの自治体で福祉政策形成のお手伝いをしている・・・といった「履歴」がある。そして、当たり前の話だが、年を取るにつれて、この履歴はどんどん膨らんでいく。
小さい頃から、同年代の仲間と野球をするよりも、大人の会話に混ぜてもらいたい、ませたガキだった。新聞やニュースを読んで、社会問題に「意見のようなもの」を中学生くらいから、語っていた。受験勉強が大嫌いで、大学のような、自分の世界観を拡げられる勉強に憧れていた。つまり、20代前半までは、一生懸命背伸びをして、大人に認められたい、ちやほやされたい、「世間に求められる人になりたい」、と痛切に願っていた。
それが、30代になって、一転する。
大学教員になって、「世間に求められる」機会が、格段に増え始めた。もちろん、実力が伴わないのに期待して頂いていることも理解していたので、必死になって勉強し始めた。大学院生の頃までは生活費や本・調査代を稼ぐのに必死で、あまりきちんと勉強していなかったので、大学教員になってから、遅まきながら、勉強を集中的にし始めたと思う。現場のニーズに合わせて、On The Job Training的に、学びながら伝え、伝えた現場から学ぶ、という泥縄的な事を繰り返して来た。
その中で、おかげさまで出来ることが少しずつ増えてくる。すると、世間に求められる事も増える。ただ、それは単純に言祝ぐべき事態ではないことに、「求められる事」が増えるまで、気がついていなかった。
「求められる事」が増える、とは、社会の中での関係性が増える、ということである。そして、この関係性が増える事、とは、時として、その人が動ける可動範囲を実質的に制限することにもつながりかねない。これは一体どういうことか?
関わりが増える、とは、その人に求められる役割や期待が増える、ということでもある。ただ、これは自分自身が「したい役割」「望んでいる期待」とは異なる。あくまでも他の人が「僕にしてもらいたい役割」であり「僕に望んでいる期待」である。そして、関係性が増える、深まる、ということは、時として、「求められる役割や期待」を「自分自身が望む役割や期待」より、優先させてしまうことである。しかも、少なからぬ場合、場の雰囲気や流れなどによって、無自覚的に、他者期待を優先させてしまうことになる。これが、その人の役割期待に結びついた「履歴」という名の「しがらみ」になってしまう。
こう書くと、「履歴」というのは、他者から押しつけられた刻印のように見えるかもしれない。でも、よく考えてみたら、その「履歴」という名の「しがらみ」を、喜んで、自分自身で形成している場面がある。それが、ツイッターやフェースブックに代表される、SNSの世界である。
僕はツイッターは一般向け、フェースブックはお顔の見える間柄の人、と分けている(なので、実際のお友達でない方からのフェースブック申請は原則的にお断りしております、あしからず)。だが、どちらにせよ、どちらのサイトでも、積極的に意見表明せよ、なんて、誰からも求められていない。なのに、どうして毎日のように、ツイッターで何度も呟いているのか。ツイッターでは、エゴサーチもしてしまうのか。それって一種の依存症ではないか。
この疑問に関しては、「履歴の更新」という概念を持ってくれば、わかりやすい。そう、実際の社会においては、毎日の労働の中で「関わり」をせざるをえないが、バーチャルな世界でも、わざわざ色々呟いて、バーチャルな世界での履歴を一生懸命構築しようとしているのだ。よく考えてみれば、それは疲れること、ですよね。
僕は、合気道や山登り、温泉、旅が好きだ。これらに共通することは、「履歴を消し去ること」である。合気道をしている最中に、「先生」と言われることはない。山登りの最中には、ひたすら自分の体力との対話を重ねている。温泉では、最初は仕事の事でもやもやしていても、そのうち気づいたら無心になれる。旅に出かけたら、日常の関係性から自由になり、その場でのゼロからの出会いを楽しんでいる。そして、これらは、「履歴」という名の「しがらみ」からは、原則として、自由である。
もちろん、「履歴」とは、慣れ親しんだ関係性の蓄積、の側面も持つ。その「履歴」こそ、アイデンティティや自己同一性と言われるものの源泉にもなっている。だが、一つのアイデンティティが形成される、とは、それ以外の可能性に蓋をしていく、ことにもつながりかねない。役割期待に応える、とは、その役割の範囲内に自らの志向性や言動を制限する、ということでもある。それは、不自由にもつながる。だからこそ、「履歴」が累積されてきた場面でこそ、そこから自由になる、「履歴を消し去る」行為が痛切に必要になるのだ。
そういえば、村上春樹は30代後半の数年間、ローマや地中海の島、ロンドンなど拠点を移しながら、旅をしながら、『ノルウェイの森』や『ダンス・ダンス・ダンス』を書いていた。その時代の旅日記であり、彼の心象風景も真摯に綴られた『遠い太鼓』の中で、彼は異国で暮らし続けることのハードさや、でもそうせざるを得なかった当時の境遇を書いている。東京では、しょっちゅう電話やインタビューなど、関わりを求められ、疲れ果てていた、と。そこで、自身が構築した「履歴」ゆえに「世間から求められること」という「しがらみ」を、一旦断ち切ろうとした。「履歴というしがらみ」から自由になって、自らの「新しい履歴」を積み上げるために、文字通り、人生を賭けたチャレンジに踏み出した、とも言えるのではないか、と感じる。
「履歴」とは、これまでの積み上げた蓄積であり、遺産である。でも、生きていく、とは過去に基づいた未来、に限定されることはない。過去は重要な参照軸ではあるけれども、時として、その参照軸の枠組みでは立ちゆかない、未曾有で想定外な未来が待ち構えている。その想定外の未来を前にして、「自分の想定内とは違う!」と怒りに打ち震えるのか、自分の新たな「履歴」を生み出すチャンスと捉えるのか。この二つで、「履歴」は「しがらみ」になるのか、「創造の源泉」になるのか、大きく異なる。
「履歴」が「しがらみ」にも「創造の源
泉」にもなり得る、ということには、常に自覚的でありたい。そして、「履歴の更新」の場面では、自分自身に、こう問いかけたい。その行為は、「しがらみ」ですか? それとも「創造の源泉」ですか?と。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。