発達障害と「まっすぐなキュウリ」

3月31日づけの山梨日日新聞に、コメントが掲載された。山梨以外の人はご存じないと思うので、再掲した上で、少し書き足したいとおもう。
----------
―発達障害がクローズアップされている。
 「発達障害」と位置づけられる人が増えたと捉えている。1990年代以降、社会の効率化が進んだ。それまで発達障害の特性があっても地場産業で小商いなどの形で働けた人が2000年代に解雇されるケースは、事例検討に関わる市町村でよく聞く。
 コンビニのアルバイトにもあらゆる業務が求められる時代になった。端末の操作やおでんの仕込み、商品の発注、補充もする。レジでは客の年齢層も打ち込む。酒屋や小さな商店では、一人何役もこなさなければならないアルバイトはいなかった。チェーン店になり規格化が進んだ結果、マニュアルに合う人材だけが求められ、合わない人は要らないと言われやすくなった。
―環境の変化が要因か。
 話を聞かない、そそっかしいなどの特性は、かつて標準の範疇だった。多少変わっていても関わり合う中でコミュニケーションを学び、社会に受け入れられていた。それが、第3次産業化など雇用環境が変わる中で「問題」として顕在化した。発達障害者支援法により支援が進んだ一方、周囲が発達障害を「規格外」としてラベルを張る空気も強まっていると思う。
―周囲はどう捉えればいいのか。
 かつて生きづらさは本人の疾病、障害に起因すると考えられてきたが、現在は本人だけでなく環境や社会参加の要因も入れた複合的な捉え方が広がっている。「障壁」は本人の中ではなく環境との間にある。周囲の「態度」も社会参加を阻害する要因になる。
 県内では特別支援教育が広がっている。保護者からのニーズがある一方で「特別な人に、特別な配慮を、特別な場所で」という考え方が障害者を排除する方向に結びつかないか懸念している。発達障害の本人を排除せず、そう分類するようになった社会の変化にも目を向けるべきだ。
----------
この記事が出た後、今月に入ってから、山梨では発達障害のある子どもを親が殺す、という事件が起きた。動機としては「息子に発達障害があり、育児に悩んでいた」と供述しているという。これは、残念ながら、昔から起こり続けている事件である。僕は2012年に起こった事件に関連して、「みんな、殺すな!」というブログ記事を書いていた(ことをググって気付いた)。両親が障害を持つ子どもの将来や、子どもへの支援に悩み、悲観視、無理心中を図ったり、子どもを殺す事件は、先のブログでも引用したが40年50年前から、ずっと続いている。
僕の発言と、この事件の記事を重ねて考えてみよう。結局、「障害者問題は、個人や家族問題であり、社会的な支援の問題だという認知がまだ薄い」のが、厳然たる背景にあるような気がする。「母が育児に悩んでいた」は普遍的課題だが、育児に悩むから子どもを殺したりするケースは殆どない。発達障害だけでなく、例えば特別支援学級に入ることなどで「規格外」とのラベルが貼られていなかったか。そのことによって、母親は子どもの問題を「特別な問題」と捉え、解決不能であるという悲観的予測を抱かせていなかったか。この母親は、こういう悩みを打ち明けるような「ママ友」がいたのだろうか。
加えていうと、学校システム自体の課題も気になるところだ。このお子さんが映画「みんなの学校」の舞台である大空小学校に通っていて、「全ての子どもに学習権を保障する」という方針のもと、一般の子ども達と分け隔てなく育てられていたら、同じ事がおこっただろうか。この映画に出てくる木村先生の著書にも書かれているが、発達障害や知的障害のある子でも、他の子ども達と同じ環境で学び、その中でクラスメイトがお互いが「同じ部分」と「違う部分」を理解していたら、母の苦悩や背負いすぎた責任はもっと軽くならなかっただろうか。学校現場の人手不足や事務量の多さは以前から指摘されているが、それゆえに以前に比べて標準化・規格化した対応が求められ、「手の掛かる子ども」は、「発達障害」とラベルを貼られて、特別支援学校(学級)に排除されている現状はないだろうか。そうではなくて、大空小学校のように、地域の方々が学校支援に関わってくれて、先生以外の目が入っていたら、この母親は身近な悩みももっと相談出来る環境が持てたのではないだろうか。このプロセスの中で、「うちの子は特別なんだ」という「違い」のみが強調され、他の子どもと「同じ」ような成長期の課題がある、という「同じ」の部分が見えなくなるような布置があったとはいえないだろうか。
僕は裁判官ではないので、この事件そのものを裁きたいのではない。
だが、日本社会では、残念ながら未だに「障害は個人や家族の不幸」とされる現実がある。標準化や規格化が進む社会とは、社会が採用する厳しい基準に適合しない人が、「不適合」と排除されていくプロセスである。それは、曲がったキュウリも美味しいのに、スーパーに並べられず、下手をしたら廃棄処分されてしまう光景に重なる。曲がったキュウリだって、良い味という意味では「同じ」である。でも「見た目」の「違い」や、扱いにくい・梱包しにくいという「社会的な手間」が先立って、排除される。
しかし、実は「まっすぐなキュウリ」こそ、いびつなのである。
これも今ネットで見つけたのであるが、キュウリを真っ直ぐにするためには、おもりをつるしたり、クリップで挟んだり、という「矯正」がなされる。これは子どもに置き換えると、標準化・規格化の進んだ学校社会のルールや枠組みに適合しなければならない、と重しや枠をはめられる「矯正」である。その時、キュウリやその子自身が本来持っていた「伸びたい方向性」は、グイーっと「強制」的に雁字搦めにされる。それが、「空気」を強烈に気にする日本の若者達を作る元凶にある、とは言えないだろうか。
そう思えば、わが子が「まっすぐなキュウリにはなれない」事を悲観することも、また重しやクリップで無理矢理「まっすぐ」に「強制・矯正」することも、どちらも子どもの本性を伸ばす、ということとは相反する、息苦しい・生きづらい現象ではないか。私たちの社会が誰にとっても「生きやすい・暮らし心地の良い社会」になるためには、この「まっすぐなキュウリ」が求められるような社会構造こそ、変えていかなければならないのではないか。そんなことを、つらつら考えている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。