セクハラと性教育バッシング

財務省の事務次官が女性記者にしたセクハラ言動や、その後の本人および大臣や財務省の一連の対応に、すごく嫌な気持ちになっている。そのモヤモヤをどう表現したら良いか、とおもったら、小田嶋さんのコラムで、すぱっとこう表現されていた。

「録音された音声を聞いた上であらためて記事を読んで見ると、福田氏のセクハラ発言が、通常の日常会話や取材への受け答えの中にまったく無関係に挿入される挿入句のように機械的にリピートされている印象を持ったからだ。
それこそ、学齢期前の子供が、進行している対話とは無関係に「うんこ」とか「おしっこ」だとかいった単語を繰り返し発声しながらただただ笑っている時の、幼児性の狂躁に近いものを感じた。」

実は僕はこの小田嶋コラムのタイトルである「能力が高すぎた」という部分と、「幼児性の狂躁」を掛け合わせると、色々なモヤモヤが氷解し始めた。以下、そのことを書いておく。

まず、この小田嶋氏の指摘する財務次官の「能力が高すぎる」とはどのような「能力」を指すのか、ということである。それを氏はこのように表現している。

「助平な福田さんと有能な福田さんという二つの別々の人格を同時並行的に機能させつつ、その二人の腹話術的複合人格の福田さんとして振る舞うことが可能だったのだと思います」

「二つの別々の人格を同時並行的に機能させ」るのは一般には「二重人格」と言われ、「二人の腹話術的複合人格の福田さんとして振る舞うことが可能」なのは「乖離」状態なのだろう。だが、そんな「助平」をしながらも、「有能な福田さん」を維持し続ける事が出来たからこそ、かれは「財務次官」の職につけたのである。

これを読みながら思い出したのは、以前のブログでも引用したアルノ・グリューンの『「正常さ」という病』である。

「狂気を巧みに隠している人々の場合には、権力の追求が、差し迫っている内面的な混沌と内面的な破壊を防ぐ唯一の道となる。空虚を、自分自身の内面的な空虚と認識しなくてすむように、彼らは破壊と空虚とを自分の周りに創り出す。」(アルノ・グリューン『「正常さ」という病』青土社、p30)

「今日の精神病理学の矛盾は、何よりもまず、みずからの感情世界とのつながりを保つ以外の事はそもそも追求しない人々が病人であると分類されていて、このつながりから逃れようとしている人々は病人とされないことだ。」(同上、p28)

二重人格や乖離をしながらも、「正常」と言う世界内での地位や権力を追求できる「能力」。そのことを指してグリューンは、「権力の追求が、差し迫っている内面的な混沌と内面的な破壊を防ぐ唯一の道となる」という。財務次官の地位にしがみつき、自らの行動を音声データが出ても否定されるのは、「差し迫っている内面的な混沌と内面的な破壊を防ぐ」からだ、と言われたら、納得できる。そして、彼の「能力」は、「みずからの感情世界とのつながり」「から逃れようとしている」中で発揮される「能力」なのである。

うーむ、これって『「正常さ」という病』そのもの、なのかもしれない。

セクハラ行為も、「空虚を、自分自身の内面的な空虚と認識しなくてすむように、彼らは破壊と空虚とを自分の周りに創り出す」プロセスとして行っていた、とすると、その行為は全く許されないが、彼の内在的論理の断片がみえてくるような気もする。

とはいえ、僕は個人を診断したり、断罪したいのではない。今回のブログで主題にしたいのは、ここ最近、沢山出てくる「社会的地位が高い人」「学歴優秀な人」「能力がある人」と言われる男子がセクハラを繰り返すのはなぜか、ということである。それに関して、グリューンの「感情世界とのつながりを保つ」と小田嶋氏の「幼児性の狂躁」から、見えてくることがある。それは、「日本における性教育の不足あるいは無さ」の問題である。

それに関して、先日の足立区立中学校での性教育バッシングの記事も思い出す。記事によると、望まない妊娠を防ぐための性教育を行っていた区立中学に対して、ある議員が中学段階では不適切だ、と圧力をかけていた、という。そして、その議員は「家庭と社会の再生の為、今一度、純潔教育(自己抑制教育)の価値観に回帰すべき」という信念を持っていたという。

「純潔教育(自己抑制教育)の価値観」なるものによって、何が「抑制」されたのか。その記事では教育学者の橋本紀子氏の以下の指摘を掲載していた。

「〈日本では02年以降、学校の性教育に対する保守派の「性教育バッシング」が起きており、性教育の内容に対する厳しい抑圧と規制が強まっています。ちなみに、性教育バッシング派は、性器の名称を小学校低学年で教えること、性交と避妊法を小・中学校で教えることなども「過激性教育」として攻撃しています。」

僕はこの「性教育バッシング」に、「破壊と空虚」を見る。そして、その「破壊と空虚」が、「空虚を、自分自身の内面的な空虚と認識しなくてすむように、彼らは破壊と空虚とを自分の周りに創り出す」プロセスと捉えたら、「セクハラ」行為と繋がって見えてくるのだ。

「性教育バッシング」と「セクハラ」

一見すると全く二つの異なって見える行動。だが、この二つとも、共に「性愛」における「感情世界とのつながり」を無視・破壊し、「幼児性の狂躁」レベルで対応している、という点で、ぴったり符号を一にする行動に見えるのだ。つまりは、本来は「感情世界とのつながり」を豊かに保つための大切なプロセスである「性愛」を、「うんこ」「おしっこ」といった単語を繰り返すレベルの、「幼児性の狂躁」でしか理解できていない、ということである。

これが、「能力」の高い大人のすることであろうか? あるいは、この国で評価される「能力」の高さには、上記の意味での「感情世界とのつながり」の豊かさは、カウントされないのだろうか。

では、他国ではどうしているのか、とググってみると、フィンランド人のこんな話が載っていた。

「包括的性教育というのは、単に事実を提供するもの ではありません。 「若者が」と書いてありますけれども、「成人」も含 めてください。「セクシュアリティや生殖の健康につ いて、自身の感情・情緒的スキルや価値を発見・発達 し、開発していくということを奨励」するもの、これ が包括的性教育です。 包括的性教育とは、対話です。基本になるのは、家庭生活、人間関係、多様性、文化、セクシュアル・アイデンティティ、ジェンダー・アイデンティティ、バ ウンダリー(境界線)を引くということの重要性、自尊感情、肯定的なセクシュアリティ、身体の肯定など に関する対話が重要です。」(肯定的で健康的な自尊感情とセクシュアリティを育む フィンランドにおける性教育と家庭(親)支援)

実は、日本の学校で排除されてきたのが、このような「自尊心や肯定的なセクシュアリティ、身体の肯定」などについて豊かに「対話」する機会であり、その意味での「包括的性教育」である。そして、財務次官を初め「能力」の高い人が受験勉強にせっせと打ち込んでいても、そのような進学校でも「自身の感情・情緒的スキルや価値を発見・発達 し、開発していく」ことは教わらない。だって、試験に出ないから。

だが、「自身の感情・情緒的スキルや価値を発見・発達 し、開発していく」ことを学べないまま大人になるということは、「感情世界とのつながりを保つ」こととは逆のベクトルである。そして、その「つながり」から逃れる事こそ「正常」だと誤解する事によって、「能力」の高さを評価された人々は、「差し迫っている内面的な混沌と内面的な破壊を防ぐ」ために「権力を追求」し、「空虚を、自分自身の内面的な空虚と認識しなくてすむように」、彼らはセクハラや性教育バッシングといった「破壊と空虚とを自分の周りに創り出す」。

だが、セクハラや性教育バッシングをする人が、真っ先にしなければならないのは、「自身の感情・情緒的スキルや価値を発見・発達 し、開発していく」ことなのである。権力を維持する「能力」はあっても、「感情世界とのつながりを保つ」ことは「未熟」なのだから。

このことに、今回の一連の騒動は気付かせてくれたように思う。これは、もちろん他人事ではない。僕自身だって「自身の感情・情緒的スキルや価値を発見・発達 し、開発していく」ことはまだ「未熟」だし、「感情世界とのつながりを保つ」ことも得意ではない。

ユングはタイプ論で「思考」と「感情」は対極に位置すると指摘し、主機能が「思考」の場合、劣等機能は「感情」になり、その劣等機能は逸脱したり幼稚な形で漏れ出てくる、とも言っている。思えばセクハラも、性教育バッシングも、その劣等機能である「感情」の歪んだ発露にもみえる。

今一度、「自身の感情・情緒的スキルや価値を発見・発達 し、開発していき」「感情世界とのつながりを保つ」ことを重視しないと、このような歪みは何度も再発する。少なくとも、僕自身は、妻や子どもとアクチュアルな関係のなかで、そのことに自覚的でありたいと思う。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。