学習Ⅲと枠組み外し

連休最終日、明石にある看護の大学院で2コマ、講義をさせて頂くことになった。『枠組み外しの社会思想史』について、話して欲しい、という有難いオーダー。ちょうど4月末の別の研究会で『オープンダイアローグ』(日本評論社)を読み直し、その中で改めてベイトソンと向き合う必要を感じて、連休中に大著『精神の生態学』を読み直してみたら、以前分からなかったことが、しっかりわかるようになっていた。そこで、大学院のコマの半分くらいを使って「学習Ⅲと枠組み外し」というネタで話をしていた。その時話した内容を、忘れないように、メモをしておく。

この本の「学習とコミュニケーションの階型論」という論考の中で、ベイトソンは3つのレベルの学習について、以下のように整理している。

  • 学習Ⅰ・・・反応が一つに定まる定まり方の変化(慣れ、反復、報酬や報復を伴うプロセス)
  • 学習Ⅱ・・・学習Ⅰの進行プロセス上の変化。経験の連続体がくくられる、その区切り方の変化(慣れや反復などが「性格」に転化する)
  • 学習Ⅲ・・・学習Ⅱの進行プロセス上の変化。代替可能な選択肢群がなすシステムそのものが修正されるたぐいの変化(このレベルの変化を強いられる人間は、時として病的な症状をきたす)

学習Ⅰとは、「パブロフの犬」のように、チリンチリンと鳴らしたら餌が与えられることを「学ぶ」ということである。そして、学習Ⅱは、そのチリンチリン→餌、という反復や報酬のプロセスを学ぶことで、チリンチリンと鳴ったら、餌が与えられていなくても、よだれが出てくる、という形で「慣れや反復などが「性格」に転化する」プロセスをいう。ここまでは、よく分かる。だが、以前この本を読んだときに、僕は学習Ⅲが何を意味するか、がさっぱり分かっていなかった。しかし、今回読み直す中で、学習Ⅲが、どうやら僕がこの6,7年追い続けている「枠組み外し」の考え方と親和性が高いことが、やっとわかりはじめた。

その話に入るためにも、もう少し学習Ⅱから学習Ⅲへのプロセスを見ておこう。

ベイトソンは、勝ち気、お調子者、気難しい、大胆、臆病といった「性格」について、「学習Ⅱの結果として習得されたパターンを記述する言葉」であり「人間の相互作用の枠付けられ方」(405)だと喝破している。それは一体どういうことか。そのために、彼はある二人の会話を取り上げている。

AとBが[a1, b1, a1+1]の相互作用を行う

これは会話のモデルであり、学習Ⅰから学習Ⅱの移行プロセスである、とベイトソンは指摘する。どういうことか。例えばAさんが、「僕の言いつけを守ったら、あめちゃんをあげるよ」(a1)と話しかけ、Bさんが「うん、わかった。頑張るよ」(b1)と応答し、「エライね、言いつけを守ったから、あめちゃんを上げよう。次もそうするのだよ」(a2)と述べたとしよう。これは、「報酬と罰の条件を定めるシグナル」(a1)、「Bがそれに従うというシグナル」(b1)、「b1を強化するシグナル」( a1+1)のプロセスであり、これが連鎖すると、「AがBを支配している」というプロセスが出来上がる。

そして、この相互作用のモデルを用いると、全く逆の「AがBに依存している」というモデルも出来上がる。それは、a1が、「何らかの「弱さ」を示すシグナル」(=「俺一人ではだめなんだ」)を送り、b1が、「その弱みをカバーする行為」(=「私がついていれば大丈夫よ」)をすることによって、a2として、「そのb1をAが受け入れたことを示すシグナル」(=「やっぱり頼りになるなぁ」)を返す、というプロセスである。そして、支配も依存も、先ほどのコミュニケーションパタンという慣れや反復(=学習Ⅰ)が「性格」に転化する(=学習Ⅱ)なかで、固着化される。

その上で、「「身に染みついた」前提を引き出して問い直し、変革を迫るのが学習Ⅲだ」(412)と「サイコセラピストは、学習Ⅱのレベルで患者にしみついている前提の入れ替えに挑戦する」(410)という部分が結びついた時、僕の中でようやく学習Ⅲとは何か、が見えてきた。あ、それってADの集中研修で学んだ・体験したリアルダイアローグの世界そのものかも、と。

オープンダイアローグや未来語りのダイアローグも、家族療法の流れから多くのものを学んで出来上がった考え方である。そして、昨年僕が集中研修で学んだ未来語りのダイアローグ(Anticipation Dialogue: AD)では、実際のダイアローグも見たし、ファシリテーターもさせてもらったり、ロールプレイも体感した。その中で、決して強引に明示的に行われる訳ではないものの、結果的にそこで生じているのが、「「身に染みついた」前提を引き出して問い直し、変革を迫る」ということだったのである。もう少し、具体的に述べてみよう。

ADでは次の三つの質問がデフォルトとなっている。

①「一年がたち、ものごとがすこぶる順調です。あなたにとってそれはどんな様子ですか? 何が嬉しいですか?」②「あなたが何をしたから、その嬉しい事が起こったのでしょうか? 誰があなたを助けてくれましたか? どのようにですか?」
③「一年前、あなたは何を心配していましたか。あなたの心配事を和らげたのは、何ですか?」

これは、「心配事」で一杯一杯になっていたり、「心配事」に囚われている、という意味で「「身に染みついた」前提」「学習Ⅱのレベルで患者にしみついている前提」を、一端脇に置き、本人が決めた未来の「良い変化」を主題化してそれを具体的に検討し、実現に向けたプランを設定するプロセスである。「心配事」ではなく「良い変化」を先に訊ねることによって、「学習Ⅱのレベルで患者にしみついている前提の入れ替え」への「挑戦」が、侵襲的ではない形で行われ、そのなかで「「身に染みついた」前提を引き出して問い直し」、その結果として具体的な行動プランを練り上げることで「変革を迫る」。これってまさしく「学習Ⅲ」プロセスそのものである。

ただ、ADもODも、それを一人でせずに、チームで行う事に最大の魅力がある、ということもわかってきた。なぜなら、一人で行うと、「このレベルの変化を強いられる人間は、時として病的な症状をきたす」可能性があるからだ。そして、僕自身がこの「病的な症状をきたす」一歩手前まで行ったことがあるので、「同行二人」のありがたさがよくわかる。

僕は東日本大震災の直後、発狂寸前の状態にまで、追い込まれたことがある。

あの日、余震が続く甲府の自宅で妻とテレビを見ながら、津波が人や車を飲み込んでいく光景をライブでみてしまい、その後、ツイッタ画面にしがみつきながら、様々な情報の爆発を目の当たりにしていた。そのなかで、「まさか津波が街を飲み込むはずがない」「原発は安全に運営されているはずだ」という僕自身の「「身に染みついた」前提」が、眼前で引き剥がされていく。映像で見れば明らかに爆発しているのに、「爆発的事象」「支障ない」などと言葉が置き換えられる。にもかかわらず、原発周辺自治体からの避難勧告が求められ、しかし政府発表は「落ち着いて行動せよ」と繰り返す。それは、政府発表の「安全性」を信じたいのに、現実には信じることが出来ない、という意味で、「学習Ⅱにおける矛盾」の最大化であり、ダブルバインドそのものであった。

その当時、気が狂いそうになりながら、何とか此岸にしがみつく為に書いていたブログを読み返すと、レインを必死で読みながら、「ポスト311の局面で生じているのは、「一次的存在論的安定」への大きな裂け目、亀裂である」と書き綴っていた。そう、僕自身が日本の文化で育ち、なんとなくそういうものだ、と無批判に信じ込んできた原発神話とか、政府の信頼性といった「一次的存在論的安定」が、文字通り揺さぶられ、亀裂が生じ、何を信じてよいのかがわからなくなってしまったのだ。だからこそ、ユング心理学もかじっていた僕自身はその当時、「教育分析を受けたい」とうわごとのように妻に繰り返して言っていたが、実はサイコセラピーを受けたいと希求するほど、追い詰められていたのである。

その4ヶ月後、「枠組み外し」をキーワードに思考を整理するブログ記事を連載しながら、僕自身が辿り着いたのは、「存在論的裂け目と枠組み外し」であった。少し長くなるが、その時のブログを引用しておく。

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ゆえに出来る事は、その枠組みそのものを眺めること、それもメルロ=ポンティが言うように、「われわれを物理的・社会的・文化的世界に結びつけている鎖を否認することではなく、逆にそうした結びつきを見ること、意識すること」であろう。原爆から原発へとどう「鎖」が「結びつき」を強めてきたのか。政治家と官僚の構造とはどう結びついているか。中央集権的システムから地方分権に移行できなかった日本に、どのような構造的制約があるのか。そのしわ寄せとして、福祉現場で、もっとも権力の非対称性の枠組みの中から抜け出せない人々は、結果的にどのような処遇を強いられているのか。私自身が見てきた福祉現場のミクロな現実にも、日本社会のマクロな総体、つまり『世界の定立』にある呪縛作用が現れている。その枠組みを外してみる、「現象学的還元」をする、以前のブログの整理で言うと、「福祉現場の構造に関する現象学的考察」を続けることによって、何らかのブレークスルーが見いだせるのではないか。そう、感じている。

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僕が、ポスト311の世界で、学習Ⅱの信念体系がその土台から崩され、発狂しそうになりながら、何とか食い止められたのは、ひとえに「学習Ⅱの進行プロセス上の変化」をそのものとして眺められたからである。それは「その枠組みそのものを眺めること」であり、「代替可能な選択肢群がなすシステムそのものが修正されるたぐいの変化」としての学習Ⅲを、文字通り命がけで行っていたのが、僕自身の「枠組み外し」であった。

そして、オープンダイアローグや未来語りのダイアローグが良いところは、一人でやったら発狂しそうになる、この学習Ⅱという「性格」にまで根付いた前提を問い直す危険な枠組み外しを、安心・安全な場の設定の中で、with-nessを共に出来る支援チームと共に飛び越えていく、というところに、その良さがあるのである。

と、ここまで気づいて、僕が『枠組み外しの旅』で書いてきたことは、既にベイトソンが半世紀前に分析していた内容そのものだった、と遅まきながら、気づかされた。だが、僕は自分の頭で論理を構築しないと身につかないタイプなので、発狂寸前になりながらも、自分なりに「枠組み外し」という学習Ⅲのプロセスを自前で行った後に、未来語りのダイアローグや学習Ⅲ概念に出会えて、本当によかった。やっと、ここまで言語化することが出来た。

そんな万感の思いがあったので、忘れないうちに、長々とブログに書き付けておく。何だか『枠組み外しの旅』の次作に向けた旅が始まりそうな予感もしている。

 

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。