聴くことと民主主義

久しぶりにトム・アーンキルさんのワークショップに部分的に参加してきた。去年、未来語りのダイアローグ(AD)の集中研修を受けて以来、この魅力にはまり、僕自身の生き方にも影響を与えている。今回も、トムさんの話を聴きながら、腑に落ち、また考えさせられる事があった。それが、「聴くこと」と「民主主義」の関係性について、である。

ワークショップの質疑応答の場で、一人一人の話を聴くことの重要性と平等性について関係を問われたトムさんは、こんな事を語っていた。

「これは民主主義の話でもあります。この話をするためには、4人の思想家について触れてみましょう。まずはフーコーの権力関係。関係性の中での心配事(Relational worries)を取り上げる際には、当然話し手と聞き手の間の権力関係にも自覚的でなければならない。次にブルデューの『資本』の話ですが、明らかに文化資本や社会関係資本が少ない・奪われた人がクライエントで、専門家の側がその逆になっている場合がある。その際、文化資本や社会関係資本を多く持つ側が、自らのその資本の多さを所与の前提としてしまうと、それは抑圧的な場や関係性にになる。文化資本が低いことが、ソーシャルネットワークの危機でもある、ということに自覚的かどうかが問われる。そしてトクヴィルの『アメリカの民主主義』。トクヴィルはアメリカ政治は民主主義的ではないが、アメリカの労働組合に民主主義を発見した、という。草の根の議論の中で、民主主義が息づいている、と。そして、最後はデューイの公共性。狭義の民主主義は国会だが、広義の民主主義は平場での議論だ、と。」

このトムの話は、僕の中で深く残った。ダイアローグが権力関係に無自覚な場で「道具」として使われると、安易に管理や支配の方法論に堕してしまう。それを乗り越える為には、民主主義的な関係性を築くための一手段としての対話、というプロセスにかなり自覚的である必要があるのだ。

このダイアローグと民主主義の関係性を考えていたとき、知り合いのかやさんとやりとりしていたら、こんな事を指摘された。

「民主主義ではない場に民主主義を持ち込むやり方はいびつに感じます。支援の中にある民主主義ではないものを取り除くことが大事なのに、ということに気づきました。取り除けば、自然とそこに民主主義的な場があるはず。たぶん。」

僕は以前から、精神科病院の中でのオープンダイアローグに反対してきた。そのことは以前のブログでも書いたことがあるのだが、かやさんの言葉を借りるなら、「民主主義ではない場に民主主義を持ち込むやり方はいびつ」だからだ。精神科病院の中では、明らかに患者と医療職の間での権力の非対称性がある。その権力の非対称性について、専門職が無自覚のまま、「さあ、遠慮なく対話しましょう」というのが、「いびつ」なのである。

そこまでは、以前のブログでも整理していた。ただ、今回のワークショップを受ける中で改めて考えたのは、かやさんの指摘した後段の、「支援の中にある民主主義ではないものを取り除くことが大事」と言う部分である。そして、ここに「聴くこと」という補助線を入れると、随分物事がクリアにみえてくるように思う。

まだ翻訳されていない、トムさんとセイックラさんの最新の主著の副題がRespecting Otherness in the Present Momentとなっている。これは、トムさんの講演時の一貫したテーマでもある。ちょっと意訳してみると、「いま・ここの瞬間に、他者の他者性を尊重すること」である。そして、これは「聴くことと民主主義」という今日のテーマにも大きく関連している。

「支援の中にある民主主義ではないもの」とは、支援における専門職支配のことであり、支援者の枠組みの中に当事者を当てはめることである。そのためのアセスメントでは、専門職が聴きたいことだけを聴き、当事者が本当に話したいことは「それは支援に関係ないから」と無視したり、聴かないでいる。

だが、他ならぬ「いま・ここ」でわざわざ支援者に向けて当事者が話し始めたことには、それなりの意味があるのである。それが、専門家の想定外であったから、アセスメントに無駄な雑談だと切り捨てるのか。どんな話であれ、いま・ここで話されているその「他者」の話に耳を傾け、自分が知らない「他者性」と向き合う事が出来るのか、で随分展開が変わってくる。

私たちは、「話すこと」については自覚的であったり、トレーニングを積んできたとしても、「聴くこと」については、無自覚で練習不足ではないだろうか。

僕は今回のワークショップで、ある人の悩みを聴く練習をしていた。その時、またいつもの悪い癖が出てしまった。それは、「相手が発言した言葉の通りに繰り返す、のではなく、相手の話を勝手にまとめる」という悪癖である。「それって○○ということですよね?」と。これは、「①相手の話をしっかり受け止めることなくことなく、②自分が勝手に相手の話を解釈し、しかも③その解釈を相手に押しつける」という三重の意味での権力関係の行使、なのである。これぞまさに「支援の中にある民主主義ではないもの」そのものであり、そしてこの非民主主義的な関係の行使は、権力の非対称的な支援や教育の現場で、しばしば起こっているのである。そして、それは僕が教育現場で侵し続けている愚でもある。

つまり、本当に民主主義的な教育や支援を取り戻そうとすれば、支援や教育の対象者ではなく、支援や教育を行使する側が、つまりは僕自身が、自らの「聴き方」を変えることから始めなければならないのだ。①相手の話が自分の想定外の内容であってもそのものとして受け止めた上で、②勝手な解釈をせずに、気になるなら③僕には「○○」と仰っているようにも思えるのですがどう思いますか、と発言者本人に解釈や判断を委ねる質問をする必要があるのだ。つまり、簡単に言うなら、話の主導権を話者本人に戻す、ということである。

支援や教育の現場ではこれまで、話し合いの主導権が支援する側・教育する側に全面的に握られてきたまま、であった。これこそ、非民主主義的なのである。支援や教育において、民主主義を取り戻す、とは、相手が話す際の主導権を相手に返す(専門家が相手の発言の主導権まで握らない)ということである。そのためには、専門家が聴きたいことしか聴かない、というスタンスを変え、ちゃんと相手の話をそのものとして受け止める、というスタンスの変更が求められる。そのためには、聴く練習を、専門家こそ自覚的に行わなければならないのだ。

明日の授業から、僕自身がちゃんと聴けているか、に自覚的になろう。そして、想定外の発言が飛び出した時にこそ、自分の聴きたい範囲に内容を縮減することなく、「いま・ここの瞬間に、他者の他者性を尊重すること」を実践してみよう。そう、心を新たにする研修であった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。