2020年の三題噺

毎年恒例の、この1年を振り返るブログ。毎年書き続けているので、経年変化が見て取れる。で、興味深いのは、昨年の振り返りで記した項目。2019年12月31日のブログでは、①子どもとの世界が拡がる、②僕の声を取り戻す・統合する旅が始まる、③ダイアローグの中で、鎧がほどける、と書いていた。例年にないことだが、コロナ危機で対外的活動にブレーキがかかった今年、結果的にこの3つの内容を質的に深め、広げる時間が続いていた。なので、昨年の変奏曲的に書いてみたいと思う。

1,子どもから沢山のことを学び続ける

この4月から、娘はこども園に通い始めた。どろんこ遊びをしっかりさせてくれて、月に一度は保護者向けの勉強会を開いてくれる、少し変わった園である。2019年から上記の勉強会に出てみて、すごく面白そうだったので、子ども以上に!?親も期待していた。なのに、なのに・・・ご承知のように、2019年の年末から進行し始めたコロナウィルスが日本にも広がり、2月末の首相による突然の学校休校要請以後、僕たち家族も大きく翻弄される。(このことは本当に腹が立ったし、そのときの感情はブログに書き留めた)

4月の入園後、週に2日の園庭解放措置の後、5月後半まで閉園措置となった。そのとき、あまりに混乱して、こども園の代表にメールで「子どもも親もストレスが溜まっているこの時期に、どうやって過ごしたらよいでしょうか?」と、すがる気持ちでおたずねしてみた。すると、理事長直々にリプライが帰ってきた。そこには、次のような返事が書かれていた。

「「観察」を心がけてください。「観察」は一呼吸の間を与えてくれます。そこに模索の余裕が生まれます。」

たしかに、子どもはその当時、絶賛大自己主張期(いやいや期、という表現は我が家では使わない)でもあったので、なかなか親の言うことも聞いてくれず、日中園に行かない子どものケアも、オンライン講義を急に怒濤のように組み立てる作業も重なって、親は一杯一杯になっていた。率直に申し上げて「観察」する余裕がなかった。

だから、具体的なノウハウを教えてほしかったのに、一呼吸置いて観察せよ、というリプライは、確かに正論だが、面食らってしまう。でも、この言葉しかすがるものがないので、このメッセージを食卓の見えるところに印刷して張り、何度も何度も読み直した。そして、夫婦でも観察内容について、子どもが寝た後に話し合った。そして、園の再開後、子どもが少しずつ園に慣れる中で、親も園の先生方に色々相談しながら、観察するコツを学び続けた。

その成果はどうか。親が混乱し困惑することが、かなり減ってきた。もちろんそれは、娘が園に通い、お友達や先生方との相互作用や社会化のなかで、急激に成長した、というのが一番である。また、語彙も増え、認識する意味世界も急激に深まり、去年は理解できなかったクリスマスのプレゼント概念も今年はしっかり理解していたり、と、親との意思疎通が出来る幅が大きく拡がった。だが、それに加えて、「観察」のプロセスを日常的にすることにより、親の躾のあり方やその問題性、親と娘の相互作用の問題点など、主に僕自身の子どもへの関わり方も、落ち着いて観察できるようになった。それが、子育てを通じて自分自身のあり方を学び直すことにもつながった。そして、それは現代書館のnoteでの連載「ケアと男性」にも繋がっていく。

2,直観を信じる

2019年は論理性や語彙力の豊かさが制約された(うまく使えない)英語でのディスカッションを通じて、自分自身の直観や本音を伝える術を、少しずつ獲得していった。そして、2020年は、それを日本語においても、取り組みつつある一年だった。

英語で話すときにもどかしく感じるのは、日本語ならその語彙を使い、この論理を展開できるのに、英語であればそれが出来ない、悔しい、というもどかしさである。だから、英語力を上げたいと、2年前からZoomでの議論を、僕のメンターもしてくださっている大阪大学の深尾葉子先生の友人のアメリカ人と三人で続けてきた。だが、深尾先生と英語クラスの後のアフタートークをしていて気づき始めたのだが、実はその語彙力や論理展開によって、直観が曇らされ、もっともらしい言語と論理で過剰にデコレーションしている可能性はないか、という問いに気づくことができた。そして、それはめちゃくちゃ思い当たることがある、ということも気づき始めた。

語彙力や論理に過度に依存することによって、直観が曇らされていないか? ロジカルな世界に、過剰適応している可能性はないか?

今まで、勉強不足だという劣等感があり、もっと本や論文を読まなきゃ、もっと論理を磨かなきゃ、と20年くらい思い続けてきた。その甲斐あって!?ある程度の語彙力や論理を身につけられたのだと思う。でも、そうやって言葉の魔法でガチガチに身を固めることによって、言葉以前のぼく自身に宿っていた直観や感覚的なものを、どんどん言葉や論理の壁で塗り固めてしまった。しかも、それを塗り固めている、とも気づけず、まだまだ論理力が足りない、読書量が足りない、と、直観の封印をより強固なモノにしていた。

昨年英語で議論しながら、どうして日本語のように語彙力や論理を強固に出来ないのか、ペラペラとしゃべれないのか、と悔しく思っていた。でも、それはペラペラとしゃべって直観を封じているなら意味がない、と気づかされたことから、問題は英語だけでなく、日本語でも同じことではないか、と反転して気づかされた。よって最近、論理より直観を重視してしゃべったり、文章を書いたり、し始めている。

慣れた世界を出ることは、不安である。でも、語彙力や論理を捨て去る訳ではない。過剰に依存せずに、蓋をした直観の封印を解き、その直観を大切にしながら、話してみたり、文章を書いてみる。そして、話す・書く、という際には、その直観を適切に表現出来るような語彙や論理を載せていく。そんな練習をし始めている。すると、少しずつ文体が変わり始めている、というか、書くスタンスが変わり始めている。それは、上記の連載でも感じているのだけれど、そういう新しいモードへの転換が、始まっているのかもしれない。

3,身体ともダイアローグを

8月末の暑い日に、子どもをベランダのプールに入れていたら、フラフラとした。これは熱中症かな、と思って、養生したけど、その後数日頭痛が続く。僕は基本的に頭痛とは無縁の生活なので、何かおかしい。妻に、念のためにCTとか撮ってもらった方が良いのでは、と言われて、近所の神経内科でCTと動脈エコーを撮ってもらう。すると、検査結果を見た医師から「動脈硬化の初期症状です」と言われる。えーっっ!と思うが、よく考えたら父親も動脈硬化で、後で電話で確認すると、10年前に倒れた時に動脈の8割くらい詰まっていることがわかって手術した、と聞いて、ああ、遺伝的要素があったのね、と納得。その後精密検査をしたら17%ほどの詰まり、なので、初期に見つかって良かった。

で、高血圧でも糖尿病でも高コレステロールでもない、たばこも吸わない僕に思い当たる節は、お酒しかない。確かにコロナ危機以後、毎日家のみで、ある時期は毎晩のようにワインや日本酒の瓶が一本空いていた。明らかに飲み過ぎだなぁ、と思っていたけど、ブレーキはかけられなかった。そんな最中に、強制的なブレーキをかけられる。結果的には、聞けていなかった身体の声を、頭痛のおかげで聞くことが出来たので、文字通り命拾いした。主治医の漢方医と相談して、二日に一度、グラス二杯くらいまでなら良い、ということになり、酒量がそれまでの半分以下に減る。瓶を捨てる量がかなり減って、それは実感する。その際、僕の酒量が減った(ハームリダクションできた)理由は、ドイツ産のノンアルコールビールと出会えたから。麦芽とホップのみで作られたゆえ、ビールと遜色ない。そして、それを飲んだら、一日の区切りと感じられる。儀式にはもってこいで、アルコールフリー。しかも缶ビールの半額以下。というわけで、瓶の代わりに缶を捨てる量は増えたけど、身体の負荷はずいぶん減ったと思う。

あと、子どもが生まれてから、しょっちゅう風邪を引いていたのだけれど、それって仕事のピークと重なった時だった。そして、間違いなく睡眠不足の時、だった。若くないし、子どもは6時半くらいにはしっかり起きるので、夜更かしせず、11時とか、10時半に寝るようにしたら、風邪を引かずに何とかきている。実は12月はそうはいっても多忙で、29日の仕事終わりに足がキンキンに冷えていて、風邪を引きそうだったのだけれど、夜ご飯を抜いて、夜7時半くらいに布団に入って、じっくり寝たら、何とか風邪を防ぐことが出来た。その日の朝からちょっと寒気がしたのに、いつものようにヨーグルトを食べていたり、とか、身体の声を聴いていない時ほど、風邪を引く。寝不足だなぁ、という実感もあったから、やっぱり調子を崩しかける。なので、45才にもなって今更、だが、ちゃんと身体の声を聴いて、無理をせず、スケジュールの余白を多めにとるに限る。幸か不幸か、コロナ危機故、それが可能になったのだと思う。

論理と語彙力を強化すると、直観だけでなく、身体の声を聴くことも、おろそかになる。オープンダイアローグを学ぶ中で、他者の微弱な声を、そのものとして聴く大切さを学んできたが、それ以前に、己の微弱な身体・直観の声を聞き逃したということに、やっと気づけたこの年末。自分自身のなかの矛盾する多様な声を、そのものとして聞けるかどうか。論理や語彙力で、そういう微弱な声に蓋をせずに、多様な声を、多様なまま、ポリフォニックに聞き続けることができるか。それが、僕にとって、死活的に大切なことだと、やっと今頃気づき始める。

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コロナ危機で、かなりピリピリした日々が続き、それはまだ終わっていない。社会や政治など、先行きの不透明感も増している。そんな中で、色々気が滅入ることもあるのだが、ぼく自身にとっての2020年は、ぐっと内面を掘り下げる一年だった。表面上の変化は少ないし、業績や目に見える成果は少ない。でも、確実に内なる手応えはあった一年だった。来年は、もっと楽しく笑顔で笑えたらいいし、出来ればマスクなく笑えたらさらにいいな、と願っている。

みなさま、よいお年をお迎えください。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。