キキの萃点性

こないだ宮崎駿アニメのDVDボックスを買った。実はこの20年ほど、テレビを殆ど見ないので、某テレビ局で流されている宮崎アニメも、断片的にしか見たことがない。子どもが4才なので、これを機に子どもと一緒に一作一作をじっくり見てみようと思い、毎週末一作開封してみている。最初はもちろんトトロを見て、娘は食い入るようにみたのだが、先週末は『魔女の宅急便』をみた。娘にはまだ内容が難しいようで、途中でお絵かきを始めてしまったのだが、父ちゃん母ちゃんはずっと食い入るように見ていた。

特に印象的だったのは、13才で修行中の魔女主人公キキが、一度魔法の力を失いかけ、落ち込み、その後友人トンボを助ける際に、魔法の力を取り戻す瞬間。僕の目からは、気がつけばどっと涙があふれ出た。トンボが今にも墜落しかけているのを見て、飛べなくなっていた&ホウキも持っていなかったキキが、街中のおじさんのデッキブラシを借りて飛ぶシーンである。そして、なぜ僕はあのシーンで涙を流したのだろうと考えていて、以前このブログで書いた萃点性に行き当たった。

キキは空を飛ぶことができる。でも、それ以外の魔法は持っていない。一方、彼女がたどり着いた大都会では、きらびやかな洋服でパーティーを開く同世代の少女たちがいて、また可愛い高価な靴がショーウィンドウに飾られているけど、キキはとてもその世界に手が届かない。トンボと親しくなるけど、そういうきらびやかな世界に繋がるトンボにもジェラシーを感じてしまい、ちゃんとした友人にもなれない。そのくすぶりのなかで、ついにはホウキで飛ぶことも出来ず・ホウキも折れてしまい、心の伴侶だった猫のジジの言葉もわからなくなってしまう。

そんな失意の中で、以前出会った絵描きのウルスラがキキを訪ねに来てくれて、彼女の山小屋に泊まりにいき、キキはウルスラに絵が描けなくなるときもあるのかを聞く。すると当然あるよ、という答えとともに、彼女はこんなことをキキに伝える。

「そういう時はジタバタするしかないよ。描いて、描いて、描きまくる。」「描くのをやめる。散歩をしたり、景色をみたり、昼寝をしたり、何もしない。そのうち急に描きたくなるんだよ」

この時、ウルスラからキキが教わったのは、あれこれ考えたり、他者をうらやむのではなく、無心になる、ということである。それが、世界との相互連関的な関係性(=縁起の世界)の中での唯一無二性である萃点性を取り戻す上での、最大の鍵である。それは、執着を捨てろ、というメッセージでもある。

そんなことを考えながらも、映画で感じた事をブログに言語化出来ないままでいたら、今朝になって、僕のメンターである深尾葉子先生から、こんなメッセージが届いた。

「井筒の「意識と本質」の132ページを開けたらいきなりまた本質に触れる言葉が!」

なになに、と思って、僕も当該書を開いてみたら、こんなことが書いてあった。

「分節的意識、『有心』、を人間の正常な心の働き方だとすれば、『無心』は一種のメタ意識である。『人人自ら巧妙あるあり。看るときに見えず、暗昏昏』と雲門の言葉にある、光明というのが、まさにそれ。事物を別々に分節して対象化し、『・・・の意識』的に見ようとしないとき、人々に自然にそなわる『光明』は存在をあるがままに照らし出す。だが、ひとたび分節意識が働けば、存在の真相は消えて影のみが残る。『看るときに見えず、暗昏昏』とはそのことだ。」(井筒俊彦『意識と本質』岩波文庫、p132)

『看るときに見えず、暗昏昏』。確かに、キキが魔法を使えていた時は、世界との無心な自己同一化を果たし、つまり何も考えずに飛べていた。でも、都会できらびやかな世界を知り、「他者と比較する心」に気づいてしまったキキは、「事物を別々に分節して対象化し、『・・・の意識』的に見よう」としてしまった。そのとたん、彼女は自分自身の魔法を見失い、飛べなくなってしまったのだ。まさに「暗昏昏」である。

キキは「無心」だったからこそ、「自然にそなわる『光明』」を「見る」ことができた。でも、「ひとたび分節意識が働けば、存在の真相は消えて影のみが残る」。それが、飛べなくなって路頭に迷うキキの姿だった。だからこそ、ウルスラは「そういう時はジタバタするしかないよ。描いて、描いて、描きまくる」と、有心から無心に戻ることを、キキに説いていたのだ。

そして、久しぶりに読んだこの本の数ページ前に、赤線引きまくっている部分にも、思わず目がとまる。

「『執心』、すなわち闇質的認識とは、特定の事物にたいする欲情的、妄執的な態度。テクストにもあるとおり、ある一つの対象を、まるでそれがすべてであるかのように追い求める、根拠のない愛着の心。勿論、この次元での心が逆の否定的方向に走れば、ある特定の対象への憎悪となって燃え上がる。欲にくらんだ心の目には、実在の真相など見えるはずもない。」(同上、p123)

ああ、「執心」か! ぼく自身、お恥ずかしい話なのだが、数ヶ月に一度くらい、この「執心」に支配される。実は昨晩も、「僕って何にもできてない!」と落ち込んでいたのだが、これはこの「ある一つの対象を、まるでそれがすべてであるかのように追い求める、根拠のない愛着の心」による「闇質的認識」の支配である。特に、SNSなどでキラキラと輝いた内容の告知をしていたり、メディアでその活躍が報じられている同業他者を見ると、その内容に憧れたり自己嫌悪したりして、気がつけば「特定の事物にたいする欲情的、妄執的な態度」になっている自分を発見する。それが「根拠のない愛着の心」であるとはわかっているのだが、一度そこにとりつかれると、まさに心が執着してしまう、という意味で「執心」となるのだ。

13才で修行にでる前は「無心」だったキキも、大都会で「有心」になることにより、気がつけば「執心」の領域に近づきかけていた。それは、己の萃点性を忘れ去り、魔力も消えかかり、空は飛べず、ジジとも話せなくなっていた「有心」だった。なぜ13才で魔法使いは修行にでるのか。それは、子どもから大人に変わる思春期において、この「有心」や「執心」の試練を乗り越えることが出来るか、が魔女には試されているからだという補助線を引くと、すっと色々な事が理解できる。試練が問われているのは、無論キキだけではない。ぼく自身も、未だに「有心」や「執心」で苦しめられている。年齢に関係なく、大人になる、成熟するとはどういうことか、が問われる時に、改めて「無心」「有心」「執心」が一人一人に問われているのだ。

DVDボックスの付録についていた、宮崎駿氏による企画書にも、このように書かれていた。

「空飛ぶ孤独。空をとぶ力は地上からの解放を意味しますが、自由はまた不安と孤独を意味します。空をとぶことで、自分自身であろうときめた少女が私たちの主人公なのです。いままで、TVアニメを中心にたくさんの“魔法少女”ものが作られてきましたが、魔女は少女たちの願望を実現するための手立てにすぎません。彼女たちは、何の苦もなくアイドルになってきましたが。『魔女の宅急便』での魔法は、そんなに便利な力ではありません。この映画での魔法は、そんな便利な力ではありません。この映画での魔法とは、等身大の少女たちのだれもが持っている、何らかの才能を意味する限定された力なのです。」(宮崎駿「魔女の宅急便」映画化に当たって)

一般的に魔法は、全知全能の力だと思われやすい。だが、宮崎駿は、「この映画での魔法とは、等身大の少女たちのだれもが持っている、何らかの才能を意味する限定された力なのです」と宣言する。キキの持っている魔法も、空を飛ぶ・ジジと話せる、という限定された力であり、かつ有心・執心になるとその能力を見失う、という意味では、「等身大の少女たちのだれもが持っている、何らかの才能を意味する限定された力」なのだ。その時の「限定」というのは、「ひとたび分節意識が働けば、存在の真相は消えて影のみが残る」という意味の「限定」であり、「あるがまま」という「無心」を失ったら「看るときに見えず」という意味での「限定された力」なのだ。

であれば、キキのケースから僕たちが学べることは何か。それは、自らの「限定された力」に自覚的になれるか、である。他者比較の牢獄に陥る=有心・執心することによって見失うことのない、己の萃点性や、「人々に自然にそなわる『光明』」を取り戻すために、「無心」になることである。『看るときに見えず、暗昏昏』の状態から脱することである。

冒頭の話に戻ろう。キキは、トンボを救いたいと願ってデッキブラシに飛び乗ったとき、きらびやかな服装とも、将来への不安とも、無縁だった。ただただ、自らの丹田に意識を集中させ、「存在をあるがままに照らし出す」「光明」とつながろうとした。そして、自らに内在する「光明」と繋がった瞬間、デッキブラシが変異し、空を再び飛ぶことができたのである。そのプロセスを経て、執心を離れ、無心を取り戻したのである。それが、感動的な物語として、僕の中でじわっと響くものがあった。そして、未だ執心を持っていない(未分化な)娘が、この物語の意味世界に興味を示さない一方で、執心でいっぱいの父がこんなにも心揺さぶられた理由でもある。

「等身大の人間のだれもが持っている、何らかの才能を意味する限定された力」に自覚的になり、それを大切にすること。これは、己の中の萃点性を自覚的に意識し、取り戻すことでもある。根拠のない愛着の心であり、「闇質的認識」である「執心」を意識し、そこから遠ざかることである。

僕の中には、どのような「何らかの才能を意味する限定された力」があるのだろう。それを、再び問い直そう。小雪がちらつく冬景色のなか、改めてそんなことを思い始めている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。