ブルシットジョブと関所資本主義

仕事がなくなったら・・・

デービット・グレーバーの大著『ブルシットジョブ』(岩波書店)は、非常に刺激的で濃厚な人類学研究である。四半世紀前、僕が学部生の頃にかじった文化人類学と言えば、青木保さんの『タイの僧院にて』(中公文庫)とか、山口昌男さんの『人類学的思考』(筑摩書房)とか、いずれも先進国以外の土地でフィールドワークを行い、そこから先進国とは違う習慣や慣行を描き出し、さらにそれを通じて人類の営みを捉え直す、そういう仕事だった。

グレーバーは、先進国における「クソどうでもいい仕事(=ブルシット・ジョブ)」に焦点を当て、その内在的論理を解き明かすことを通じて、先進国で無意識化的に「そういうものだ」と思い込んでいる習慣や慣行の異常性を明らかにする、という仕事をしている。その発端は、2013年8月にウェブマガジンに載せた、ある原稿がきっかけだった。そのときに、「ブルシット・ジョブ」を以下のように定義している。

「まるで何者かが、わたしたちすべてを働かせつづけるためだけに、無意味な仕事を世の中にでっちあげているかのようなのだ。」(p4)
「実質のある(リアル)仕事を持った生産的労働者は、容赦なく苦しめられ搾取される。それ以外の人間たちは、万人から罵倒される怯えた失業者からなる層と、基本的に報酬を与えられてなにもしないという、より大きな層とに分断される。」(p9)

この記事は瞬く間に「一ダースの言語に翻訳され」「ウェブサイトは100万ヒットを超えるアクセスデータを処理できずに、ひっきりなしにダウン」するほどの反響を得る。その中で、グレーバーの元には数百のコメントが寄せられ、それを読み込み、書き込んだ人へのインタビューをする中で、本書ができあがったのである。

議論を進める上で、この本の「最終的な実用的定義」を見ておこう。

「ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。」(p27-28)

実は本書を読む中で、あるエピソードを思い返していた。とある現場で、僕からみたら大層無駄の塊のような書類仕事を作らされることになった。そのことに腹を立てながらも、対応された現場の事務職員の方に非があるわけではないので、共感のつもりで、「こんな書類、電子化したらお互い手を煩わせなくてすむのに、本当に無駄ですよねぇ」と発言したところ、その方が、ぼそっと呟いたのである。

「私の仕事がなくなったら、困ります・・・」

まさにあの発言は、「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である」という表明であった。とはいえ、「本人は、そうではないと取り繕わなければ」「私の仕事がなくなる」危機に陥る。だからこそ、無駄な仕事をわかっていながら、「そうではないと取り繕」いながら、その仕事に従事する。これは本当に人をダメにする、意欲をそぐ、刑罰のような労働形態である。

グレーバーはこの種の労働を、「お役所仕事」とは言わない。官僚制システムの弊害であるが、この官僚制は、銀行や携帯電話の販売店、カスタマーサービスや広告業など、あらゆる業種に入り込んでいる、という。映像制作会社のトムは、著者にこのように語っていた。

「ほとんどの産業では供給が需用をはるかに上回っていて、それゆえ、いまや需用が人工的につくりだされるのです。わたしの仕事は、需用を捏造し、そして商品の効能を誇張してその需要にうってつけであるようにみせることです。実際、それこそが、広告産業になんらかのかたちでかかわるすべての人間の仕事なのだといえるでしょう。商品を売るためには、なによりもまず、ひとを欺き、その商品を必要としていると錯覚させなければならない。」(p64)

そういえば、グレーバーを高く評価している斎藤幸平さんは「本当のイノベーションは、お金がなくても生きていける社会設計を考えたり、20年使っても壊れないiPhoneを作ったりすることではないですか。」と語っていたが、そんなことをすると需要がなくなるため、絶対にそういうことにはならない。

壊れてもいないのに、まだ使えるのに、電化製品や服飾品を買い換える最大の理由は、捏造された需要に感化され、「その商品を必要としていると錯覚」する必要があるのだ。これはまさに欺瞞のプロセスである。仕事の中で欺瞞があるだけでなく、仕事の目的そのものにも欺瞞がつきまとっているのである。そして、そのような「その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態」に関して、「本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」という意味では、ダブルバインドでもある。

ダブルバインドとは、人類学者のグレゴリー・ベイドソンが作り出した概念だが、その訳者でもある佐藤良明氏は現代社会学事典(弘文堂)の中で、「二つの相容れない指示や禁止のもとで身動きが取れない状況をさす」(p859)と簡潔に定義している。

「その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある」にも関わらず、「本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」というのは、「無意味である」けど「そうではない」という「二つの相容れない指示や禁止のもとで身動きが取れない状況」である。そして、それが極まると統合失調症が深まる話は、『精神の生態学』の中でも書いているし、以前ブログでも触れたことがある。

そっちの話になるとまた壮大になるので、本論に戻ってくると、このようなダブルバインド状態は、ひとを狂気に陥れる呪いの指示である。そして、私たちの資本主義社会では、このような呪いの指示が蔓延していて、ある種の狂気が社会に蔓延している、というのがグレーバーの喝破したポイントである。

関所資本主義

そして、僕はこのグレーバーの本を読み終えて、思うのだ。これって、読んだ事がある議論だぞ、と。グレーバーがこの本の元になる小文を発表したのが2013年。その3年前の2010年に、安冨歩さんは名著『経済学の船出』(NTT出版)の中で、関所資本主義という概念を用いて、グレーバーが伝えようとしていることに類似した内容を説明しているのである。

「『利潤』の源泉を他人の生み出した価値を横取りする『関所』に求める。コミュニケーションの結節点を占拠することで『関所』が形成され、資本主義の本質はそこにある」(pⅳ)

安冨さんは大学卒業後2年ほど、当時の住友銀行に勤めて、「銀行員の仕事の相当部分は、表面的な取り繕いに注がれていた」(p152)ことに気づく。そして、退職後に研究者として金融史を探究する中で、その「表面的な取り繕い」と「関所」概念が結びついた時に、彼の「関所資本主義」の論理が構築されていく。

「あの無意味な砂を噛むような仕事の数々は、関所の維持管理業務だったのだと私は結論する。関所が膨大な利益を生むので、その維持管理に日々いそしむ銀行員が高い給料をもらえるのは、理の当然である。このような考えに到って私は、永年の胸のつかえが急に取れたように感じた。私が日々従事していた不合理な意味のない仕事は、巨額の利益を生む関所を維持管理するという、『合理的』で『意味のある』作業だったのである。(略)実際のところ銀行員は、『上乗り』を巻き上げるためのシステムの維持管理をして、高い給料をもらっていたのである。ここに思い至って私は『世の中、合理的にできているものだ』と、いたく感心してしまった。」(p156)

グレーバーと安冨さんの違いは、前者はブルシット・ジョブをしている人々へのヒアリングやメールの解読に基づいて論を構築しているのに対して、後者は実際にそこで働いて(=結果的に参与観察して)その論を構築している、という違いである。また、グレーバーは「クソどうでもいい仕事」を「その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある」と切り捨てていたが、安冨さんはその「無意味な砂を噛むような仕事の数々」が、人々の通行料を巻き上げる「関所」の「維持管理」という「『合理的』で『意味のある』作業だ」と喝破している。不合理なものをサドマゾ的に押しつけられている、というのがグレーバーの主張なのだが、その<非合理なものの内的合理性>を解き明かそうとしているのが安冨論考、という比較も出来るかもしれない。

「不安に駆られる人間は、自分のやっている仕事が『有効』なものだ、と自分にも他人にも言いふらすことで、不安と苦痛とをまぎらわせようとする。自分の行為の真の姿から目を背け、偽装工作を何重にも上塗りする。この浅ましい心は、組織内に無数の関所を作り出す。というのも、不安に駆られた人は、組織内に作った関所を管理する権限を確保することで、自分の存在意義を確保しようとするからである。つまりは保身である。」(p151)

「組織内の無数の関所」というフレーズは、大学においては、自己点検報告書や授業評価など、「PDCAサイクル」を回すための膨大な書類仕事を想起させる。そのどれもが、本来的な意味では、「内部質保障」を掲げ、再帰的に自分自身や自組織の実践を振りかえり、よりよいものにしていくための評価検証プロセスであるとされている。でも、大半の大学組織においては、結局のところこのような評価シートは、「やっているフリ」をするだけの書類仕事に成り下がっている。では、なぜそのような「無意味な砂を噛むような仕事」が押しつけられているのか。それを、「組織内に作った関所を管理する権限を確保することで、自分の存在意義を確保しようとするから」という内的合理性に基づくと言われたら、まさにその通りだと思う。そして、これは大学に限った話ではない。一定の規模を持つ組織では、このような「組織内の無数の関所」がある。そして、それが「クソどうでいい仕事」を増殖させていくのである。

解決策はベーシックインカムなのか?

さて、グレーバーに戻ろう。彼は、技術革新がブルシット・ジョブを作り出した、と整理している。

「自動化(オートメーション)は、大量失業を生み出した。わたしたちは、あれこれ効果的な仕事もどき(ダミー・ジョブ)をつくりだすことで亀裂を塞いできたのである。」(p340)

つまり、雇用調整のために作られた「仕事もどき(ダミー・ジョブ)」が、大量のブルシット・ジョブを生み出した、というのである。そういえば建設業関連で働いていた友人と昔議論をしたとき、誰も通らないような道路工事現場でも警備員を配置することは無駄ではないか、と尋ねたら、「それがあるから、失業率が下がっているのだ」と猛烈に怒られたことを思い出す。これも「仕事もどき(ダミー・ジョブ)」である。では、どうしたらよいのか? グレーバーは「仕事と報酬を切り離し本書で論じてきたジレンマを集結させる構想の一案としての普遍的ベーシックインカム」(p345)を提案する。

彼はアナキストなので、「政府や企業により多くの権力を与えてしまう解決策よりは、自分たちの問題を自分たちの手で対処できるような手段を人々に与えるような解決策のほうを好む」(p346)という。無駄な仕事を減らして「週15時間労働」に規制したとしても、「仕事の有用性を評価するためのあらたな政府官僚が求められ、不可避に巨大なブルシット生成装置へと転じることになろう」(p347)と予言する。それゆえ、ミーンズテスト(どれだけ財産を持っているか、などを調べる調査で生活保護の扶養調査などもそれにあたる)は「クソどうでもいい仕事」を増幅させるために廃止し、全ての国民に一律に生活費を支給せよ、と提案する。そのことで、「労働を生活から完全に引き剥がすこと」 (p359)が可能になるという。そうはいっても、人々は強制収容所でも、なにか意味ある労働を自発的にしようとしていた。だから、「人間は強制がなくとも労働をおこなうであろう、ないし、少なくとも他者にとって有用ないし便益をもたらすと感じていることをおこなうであろう」(p360)という前提に立ち、強制労働を廃止するためにベーシックインカムを提唱する。

これは興味深いが、関所資本主義の廃止同様、「危険」な提案である。安冨さんが書いているが、現代日本の最強の関所である国家資本主義の構造を調べ上げ「国民の税金と巨額の国家勇とによって調達された資金が、特別会計という隠れ蓑を通じて特殊法人・認可法人へと流れるルートを解明した」(p147)民主党の石井紘基衆議院議員は、その構造を暴いたため、何者かに暗殺された。「クソどうでもいい仕事」がなくなることで、自らの利潤が減ると思う人々は、その実現を命がけで止めようとする。それは、「仕事の有用性を評価するためのあらたな政府官僚が求められ、不可避に巨大なブルシット生成装置へと転じる」というマイルドな形態もあれば、そのようなことを暴露するひとを刺し殺す、という暴力への転化もありうる。

僕たちがこれに抗して出来ることは何か。少なくとも、自らにふりかかる「クソどうでもいい仕事」をなるべく減らすこと、であろう。そのために必要なのが、実質的な仕事であるケア労働の再評価である、という指摘は、頷かされる。

「仕事の大多数が厳密にいうと生産的であるよりはケアリングであり、だれの目にも非人格的であるような仕事にすらケアリングの要素がつねにひそんでいると認識することは、別の規則をもった別の社会を作ることがなぜかくも困難であるかという問いへの、ひとつの応答となり得る。(略) もしいまある社会が好きではないとしても、生産的かどうかにかかわらず、わたしたちのほとんどの行為の意識された目的が、他者―たいていは具体的な他者—をおもいやることにあることに変わりはない。」(p310)

実はこの部分も安冨さんの本と呼応する。

「自らの感覚から乖離させられた人間は無力感に浸ることになり、商品の利用者ではなくなり、単なる消費者となる。単なる消費者とは、自らの苦しみの原因から目を背け、そこから生じる痛みを誤魔化すための刺激を求めて、必要もないのに商品やサービスを蕩尽する者である。その消費活動は、創発を伴わず、価値を生み出さないので、ただただ資源を浪費する。このような状況に陥った消費者ばかりが存在する市場では、何を供給しても価値は生み出されない。それゆえ、創発の構えを回復し、消費者を利用者へと転換することが、経済活動の大前提なるが、それには、消費者の感覚を呼び覚まし、生きる力の発揮を可能にすることが不可欠である。これはもちろん、容易なことではない。しかし少なくとも、その方向へ人々を導く風を送り込むことが、ビジネスを展開するうえで、最大の資源となる。」(『経済学の船出』p167)

グレーバーは現在の資本主義に絶望し、アナーキストの立ち位置から、ベーシックインカムを導入して強制労働から人々を解き放つことに、その解決策を見いだす。その上で、「具体的な他者をおもいやる」ケアリング労働の価値を再評価しようとする。安冨さんは、「必要もないのに商品やサービスを蕩尽する」「消費活動」にはまり込む、無力感を伴った消費者から、人々が「利用者」に転換することが大切だと説く。そして、「その方向へ人々を導く風を送り込むことが、ビジネスを展開するうえで、最大の資源となる」と、限定付きで、現在の資本主義を肯定している。

現時点での僕自身の考えを言うなら、ベーシックインカムよりは、井手英策さんの言うベーシックサービスの方に魅力を感じている。そして、その上で、安冨さんの指摘するような、創発や価値を生み出すような「利用者」に消費者が転換することのほうが、現実的な変化を生み出す上で効果的だとも思う。そして、労働における創発や価値生成は、まさに「具体的な他者を思いやる」ケアリングの中に詰まっている。そのことは、僕も「ケアと男性」という連載を書き進めながら、強く感じている部分でもある。

残念ながら、そのことをグレーバーにはぶつけられない。彼は2020年9月に亡くなってしまったから。安冨さんとグレーバーが対談していたら、どんな論が繰り広げられたのだろう。そんなことを妄想しながら、この小論を閉じたいと思う。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。