こないだのオンライン研修で、鹿児島大学の的場康徳先生とご一緒させて頂いた。なぜ消化器外科の先生と相談支援の研修でご一緒するのだろう???と疑問に思っていたのだが、先生の話を聞いて、深く納得。緩和ケアという、身体疾患の治療ではどうしようもない場面において、どのように患者の生きる苦悩と向き合うのか、というお話だった。それは、「病気から生きる苦悩へのパラダイムシフト」という論考を書いたこともあるので、めちゃくちゃよくわかる。そして、的場先生が依拠しておられる、現象学者の村田久行先生の本に目を通して、目からうろこ、体験をたくさんしている。今日はそのことを、言語化してみたい。
「援助とは苦しみを和らげ、軽くし、なくすることである。なぜ医療者の意識の志向性はせん妄患者の≪苦しみ≫にではなく、≪身体≫≪治療≫≪病態≫に向けられるのであろうか> その理由は、≪身体≫≪治療≫≪病態≫であれば見た目で捉えやすく、対処できるが、せん妄患者の≪苦しみ≫は捉えにくいからである。」(『シリーズ 現象学看護1 せん妄』村田久行・長久栄子編、日本評論社、p17)
これは、せん妄に限った話ではない。せん妄という言葉を抜いて、医師と治療場面で向き合う全ての患者でも、同じ事が言える。医師は治療(cure)をするのが仕事である。すると医師の意識の志向性は、≪身体≫≪治療≫≪病態≫に向けられる。そうすべきであるとトレーニングを受けてきている。だから、「患者の≪苦しみ≫は捉えにくい」。これは僕自身もわずかな患者経験をしていて感じることである。確かに治療をしてほしくて、医者の前に行く。でも、身体や病態として表出されているつらさの背後にある、ぼく自身の生きる苦悩にも目を向けてほしい。でも、これまで出会った医者の中で、僕の<苦しみ>もじっくり聞いてくれたのは、山梨時代にお世話になった漢方医の中田先生だけだった。
なぜそうなのか。現象学者は「意識の志向性の方向性」について語る。
「意識は同時に2つの物・事を意識できない。あるものに意識が向けられ、それが意識に顕在化すると、それ以外のものは背景に沈み、非顕在化する。この意識の対象の顕在化と被顕在化の相互移行は『ルビンの杯』の顔と杯、〔図と地〕の関係にもたとえられる。」(p35)
なるほど、そりゃそうだ。一つの見立てをする、ということは、そっちに意識が向けられ、他の視点は「背景に沈み、非顕在化する」のである。身体症状や病態に意識の志向性が向き、その治療方針をどう組み立てるか、を必死になって考えているときに、患者の苦しみの話は、診察室で聞いていても「非顕在化」して頭に入ってこない。患者は、身体疾患だけでなく、それを患うことによる生きる苦悩をも語ってるのに、そのうちの≪身体≫≪治療≫≪病態≫しか聞かれないと、「わかってもらえていない」と、医師に対して不信感を持つ。一方、先述の中田先生は、治療にじっくり時間をとって、患者の苦しみの話を聞こうと意識の志向性を向けていた。その苦しみが、≪身体≫≪治療≫≪病態≫にどう作用しているか、に意識を向けようとしていたのだと思う。それだけで、患者の医師への信頼度は随分異なる。
そして、患者の苦しみに目を向けるときに大切なのは、スピリチュアルペインだと、引用した同書では書かれている。
「スピリチュアルペインは、『自己の存在と意味の消滅から感じる苦痛』と定義され、それはたとえば、生の無意味、無価値、無目的、孤独、疎外、虚無と言った苦しみのことをいう。これはかならずしも終末期がん患者に限るものではない」(p31)
この定義を読んで、改めて「そうだったのか」と深く頷く。今まで字面しか知らなかったので、スピリチュアルペインとは、死ぬ間際の際に、人生の喪失に直面して、宗教的な助けを求める、そういう苦しさのことであって、いま・ここ、の自分には関係のないことだと思い込んでいた。でも、「生の無意味、無価値、無目的、孤独、疎外、虚無と言った苦しみ」と言われると、「終末期がん患者に限るものではない」。いじめ等のハラスメント、ひきこもり、親しい人との不和・別れ、失業や生活苦、「ゴミ屋敷」状態・・・など、様々なトラウマ的体験にもとづく絶望的状態って、それによって「生の無意味、無価値、無目的、孤独、疎外、虚無と言った苦しみ」に襲われ、その「対処行動」としての「薬物依存」だったり「自殺衝動」だったりするのである。それは、「精神症状」と言われるものにも、広く通底するような気もする。
ただ、以前の僕は、精神的苦痛とスピリチュアルペインの違いがよくわからなかった。苦痛には、身体的苦痛、社会的苦痛、精神的苦痛とスピリチュアルな苦痛の四つがある、と言われている。ただ、最後の苦痛を「霊的苦痛」と訳してしまうと、全く意味がわからなくなってしまう。身体的苦痛は病気そのものの痛みや、治療に伴う痛みであり、社会的な苦痛とは家族関係の悪化や仕事の喪失、貧困などの社会状態の悪化による痛みをいう。そして、精神的な苦痛とは「恐れ、怒り、不安、孤独感、抑うつ、せん妄」などをいう。これと、「生の無意味、無価値、無目的、孤独、疎外、虚無と言った苦しみ」を比較すると、精神的な苦痛は、スピリチュアルな痛みが表面化し、他の人にも把握しやすくなり、治療の対象になりやすくなったもの、とも言えるかも知れない。そして、スピリチュアルな痛みは、身体的・社会的・精神的苦痛の背後にある、その人の生きる苦悩の最大化したもの、と捉えると、これまでの僕の把握はがらりと変わってきた。
身体の痛み、社会的な痛み、心の痛み・・・それらが重なるなかで、魂が傷ついているのである! それが魂の(スピリチュアルな)痛みなのである。ならば、これまでぼくもずっと考え続けてきた、魂の植民地化は、まさに魂の痛みをもたらす構造的暴力であり、魂の脱植民地化とは、そのスピリチュアルペインからどう脱することが出来るか、の思考回路を開くプロセスなのかもしれない。
そして、村田先生はスピリチュアルペインには三つの側面(三次元)がある、という。時間制、関係性、自律性の三側面である。それをこんな風に整理しておられる。(p37-38)
①時間性のスピリチュアルペイン—将来の喪失から生じる生の無意味
②関係性のスピリチュアルペイン—他者との関係の喪失から生じる空虚や孤独
③自律性のスピリチュアルペイン—不能と依存から生じる生の無価値、無意味
①は「もう先がない」「終わりだ」と感じる、将来の喪失への絶望感だが、これは末期がん状態だけではない。失業や失恋、大学受験の失敗など、それまで専心していたもの・入れ込んでいたものを失った時、そうなる可能性は充分にある。②については、「言いようのない孤独」や「さびしさ」という表現が同書ではなされていたが、僕も20歳前後の時、この「言いようのない孤独」と「寂しさ」にさいなまれていた。③の「何の役にも立たない」「もう自分では何も出来ない」というのは、子育てをはじめた時、仕事とほんとど両立不能状態になった時に、そうやって自分を責め続けていた。
つまり、時間性・関係性・自律性の三次元での「魂の傷つき」は、僕にだってたくさんの記憶がある。「生の無意味、無価値、無目的、孤独、疎外、虚無と言った苦しみ」は、僕にとって他人事ではない。ただ、有り難いことに、何とかそれを乗り越える、というか、周りにサポートされながら、傷つきから快復することが出来たから、いま・ここ、の自分があるのだ、と改めて感じる。
では、この「魂の傷つき」からの快復に、他者がどう関われるのだろうか? 同書では以下のように説く。
「スピリチュアルケアとは、スピリチュアルペインをケアすることである。このことを現象学看護は『自己の存在と意味の消失から生じる苦痛(スピリチュアルペイン)』を『関係性にもとづき、関係の力で和らげ、軽くし、なくすること<ケア>』と理解している。(略) スピリチュアルケアの独自性は、<傾聴>と<共にいる>という<基盤となるケア>を土台にして患者のスピリチュアルペインをケアするものでなければならない。」(p47-48)
「患者は困難に遭遇し、現在の対処方法が無効なとき、自分自身の不完全さや無力を自覚する。しかし、その無力の自覚が患者を内的自己の探求に向かわせ、日常の自己から内的自己への超越が試みられる。患者はこれまでの生き方や価値観を見直し、病気や死に翻弄されない自己を探求するのである。日常の自己が他者・超越者・自然との関係のなかで新たな自己を見いだすとき、この価値観の再構築がスピリチュアルな覚醒であり、成長である。その結果、患者は新たな統合をなしとげ、病気に意味と目的を見いだして、新たな強さ、安心、愛、希望を獲得する」(p48)
この記述を読みながら、僕はアルコホリックアノニマス(AA)や当事者研究、ピアカウンセリングなど、障害当事者が主体となった、治療とは違う、オルタナティブな関わり方(ケア)のことを強く思い起こしていた。CILはピアカウンセリングを次のように定義している。
「ピアカウンセリングは1970年代初め、アメリカで始まった自立生活運動の中でスタートしました。自立生活運動は、障害を持つ当事者自身が自己決定権や自己選択権を育てあい、支えあって、隔離されることなく、平等に社会参加していくことを目指しています。ピア・カウンセリングとは、自立生活運動における仲間(ピア)への基本姿勢のようなものです。」(ピアカウンセリングとは)
障害者は健常者に比べて劣る存在だと認識され、差別され、教育や社会参加の機会から疎外されていた時代に、「ありのままのあなたでいい」と障害当事者が捉え直すことを、一人ですることは簡単ではない。多くの仲間と話し合い、関係性を豊かにするなかで、障害にまつわる世間的価値観に「翻弄されない自己を探求するのである」。それは、こないだ読み終えたジュディス・ヒューマンの感動的な伝記からも、ヒシヒシと感じる。
人が「困難に遭遇し、現在の対処方法が無効なとき、自分自身の不完全さや無力を自覚する。しかし、その無力の自覚が患者を内的自己の探求に向かわせ、日常の自己から内的自己への超越が試みられる」。これを一人でやるのは、気が狂いそうになる。現に、東日本大震災の直後、ぼく自身も「自分自身の不完全さや無力」に強く襲われ、本当に気が狂う一歩手前までいった。
その時、僕が救われたのは、先述の中田医師であり、魂の脱植民地化概念との出会いであった。当時は、不妊治療が八方塞がりで先の見えなさも重なっていたので、漢方治療にすがってみようか、と出かけたのだが、ゆっくり話を聞いてくれる中田医師の前で、話し出したら溢れるようにしんどさや苦しさといった、「魂の傷つき」が出てきた。その後も1年くらい、毎回受診するたびに、そういうしんどさを話し続けたのだと思う。そのなかで、暴飲暴食や仕事のし過ぎ、といった「これまでの生き方や価値観を見直し」はじめたのだった。
それから、魂の脱植民地化概念との出会いも衝撃だった。これは311の一年前、今日との学会で深尾葉子先生と出会ったことに遡る。当時、こんなことを書き連ねていた。
「自分が納得して、その通りだよな、と思いこんでいて、かつ「自分らしさ」と思いこんでいる、自分の中での支配的な言説なり視点なりの少なからぬ部分が、ストックフレーズや手垢にまみれた思想の焼き直し・刷り込みに過ぎないのではないか、ということである。しかも、それを主体的に選び取った、と思いこんでいるけど、どこかで「選び取らざるを得ない」場面に構造的に追い込まれていませんか、とも、この「植民地化」から読み取れる。」(食毒から、魂の脱植民地化へ)
ぼく自身が必死になって構築してきた「これまでの生き方や価値観」そのものの中に、「魂の植民地化」があったのではないか。それが、自らの魂を蝕み、苦しめているのではないか。そう気づき始めた1年後に311が発生し、文字通り自分自身が瀬戸際に追い詰められたところから、書いて考えて表現する作業をはじめ、それが初の単著『枠組み外しの旅』につながった。あの本を書くプロセスは、ぼく自身にとって、「日常の自己が他者・超越者・自然との関係のなかで新たな自己を見いだすとき、この価値観の再構築がスピリチュアルな覚醒であり、成長である」という軌跡そのものであった。
だからこそ、表題に戻るなら「魂の傷つきと向き合う」ことが、コロナ危機においても、ものすごく大切なのだと感じている。
このコロナ危機において、僕も含め多くの人が、「困難に遭遇し、現在の対処方法が無効なとき、自分自身の不完全さや無力を自覚する」のである。その際、「魂は傷ついている」のである。だが、これまでの治療やCureの場面においては、身体的・社会的・精神的な痛みや傷つきしか、着目されてこなかった。だが、明らかに今も多くの人が「魂の傷つき」に苦しんでいるのである。意識の志向性を、身体や社会、精神的な傷つきだけに留めず、その背後にある、生きる苦悩が最大化した姿としての「魂の傷つき」にも向けることができるのか。この視点の切り替えは、一人一人の人生にとっても、大きな価値転換になりうるのではないか、と思っている。
「日常の自己が他者・超越者・自然との関係のなかで新たな自己を見いだすとき、この価値観の再構築がスピリチュアルな覚醒であり、成長である」
これを、一人一人の「いま・ここ」にどう置き換え、自分自身の「魂の傷つき」と向き合う契機にするのか。これは、実に探求しがいのある課題だと感じている。