本を読んで、自分がやってきたことに「適切な言葉」が与えられて、「そうそう、そういうことだったんだよね!」と思うことがある。今回ご紹介する本も、その種の一つである。
「ジェネレーターシップとは、出来事・物事が生成することに参加し、(主客・自他の境界を溶かし、あいまいにしながら)そこで起きていることをよく見・聴き・感じ・拾い上げ、その出来事の内側でその生成を担う一部となるということ、そして、世界へのそのような関わり方」(市川力・井庭崇『ジェネレーター:学びと活動の生成』学事出版、p164-165)
一年前のブログ(役割規定からの自由)で、ぼく自身のファシリテーターとしてのあり方に限界を感じていた時に、友人のてっちゃん(小笠原祐司さん)が、「ファシリテーターから探求者に」というモードの転換が必要じゃないか、と教えてくれた。ぼく自身、まさにそこで苦しんでいたので、「我が意を得たり」だと思っていた。そして、この「探求者」のコンセプトって、確かに何かを一緒に産み出す、という意味ではジェネレート(generate:生成)することだし、それをする人は、まさに「ジェネレーター」そのもの、なのである。以前のブログには、「教員の僕が一方的に押しつけるのでも、あるいはファシリとして黒子になるのでもなく、対等な探求者として共に考え合うことができたら、もうちょっとおもろい何かが出来るのではないか」と書いていたが、それを明確に言語化してくださったのが、上記の定義である。
実は、最近ぼくは授業において、このジェネレーターシップモードで関わり、学生たちの評判が良くなっている。従来の授業が一方通行の「教える—教わる」関係だったのだが、フレイレの銀行型教育と課題提起型教育の違いについて深く学び著作化もする中で、一方的な銀行型教育を自分がしていたら言行不一致になる。よって、ここ10年くらいはファシリテーターモードで、学生たちの意見を活発に浮かび上がらせるアプローチをしてきた。でも、僕がファシリで黒子になると、みんなの声は浮かび上がっても、ぼく自身の声は消えていく。オープンダイアローグを学ぶ中で、「いま・ここ」で浮かび上がる自らの声を垂直な対話で浮かび上がらせ、それを他の人との水平な対話で伝える重要性も学んでいたので、自分の声を消すファシリのあり方は、なんか違うと思っていた。
そこで、コロナ下のオンライン講義の頃から、完全に反転授業に変えて、テキストやテーマの文章を事前に読んで来てもらい、授業ではグループでその内容について議論した後、全体で討議しながら、そのテーマについて考え合う内容に変えて行った。その際に、ぼく自身のあり方は、みんなの声を聞いて活性化させるだけでなく、「いま・ここ」で浮かび上がるぼく自身の声もきちんとその場に差し出してみるようになった。そしてそれこそ、「出来事・物事が生成することに参加し、(主客・自他の境界を溶かし、あいまいにしながら)そこで起きていることをよく見・聴き・感じ・拾い上げ、その出来事の内側でその生成を担う一部となる」営みだったのだと思う。
そして、それは教員のぼく自身にとって、新たなチャレンジになった。
一方通行なら、自分が作った(からこそよく知っている)授業レジュメやパワポの内容を一方的に話せば良い。ファシリテーションなら、その場で皆さんの声を豊かにすればよく、僕が責任を取る範囲は限定されている。でも、ジェネレーターは、その場に一緒に参加し、どうなっていくのかわからない不確実さに一緒に関わり、その中で、「出来事・物事が生成する」場面に一緒に遭遇するのである。この際、自分自身の偏見や先入観から自由になり、いま・ここで「起きていることをよく見・聴き・感じ・拾い上げ」ないと、「主客・自他の境界を溶かし、あいまいに」なることはない。一緒に考え合うwith-nessのモードは、その前提として、参加する学生たちの声をしっかり聞いて、真剣に向き合って、例え不適切・しょうもないと思える声でも「いま・ここ」に差し出された声だから意味があるはずだ、と大切にしながら、その声が全体状況の中でどのように位置づけられるのだろう、と、みんなで一緒に考え合う、そんな胆力が求められる。そうしないと、「主客・自他の境界は溶か」すことはできないのだ。
で、ぼく自身は、最近探求者=ジェネレーターとして、「その出来事の内側でその生成を担う一部となる」という関わり方を授業でもしてきた。すると、授業の最後に、こんな感想が寄せられるようになった。
「講義の分野を専門とする先生と「対話」を経験することも重要であり講義の本質なのではないかと考えた。「先生」と「学生」で主従関係のようなものができるかもしれない。しかしこの講義はそうではない(先生は誘導していると感じている人は、おそらく銀行型教育で慣れているがゆえの、課題提起型の講義である福祉社会学への防御反応なのではないかと私は考えている←もちろん全くそういう意味でない人もいる)。あくまでも先生は私たちが考えやすいように学生の声を板書をしてくださっており、最終的に自分がどう考えるのかは自由である。なので、先生と学生という立場を越えた議論はできるのだという学びを実感するためにも、「先生」という存在は議論に必要なのではないかと考える」
「竹端先生の授業で自分の意見を言うことは怖くないことなんだと感じた。周りの子も相手の意見をしっかり聞いてコメントしてくれたのも自信につながった。また。先生が根気強く質問してきて、上手く自分の気持ちを言語化できないときもあったが、その悔しさのおかげで次の議論ではしっかりいえるように準備することが出来た。もしこの授業を受けていなかったら一生周りの意見にあわせて、自分を殺して生きていたと思う。」
改めて読んでも心がじんわり暖まる、嬉しいコメントである。主従関係を越えた対話。その中で、「立場を越えた議論」から何かが生まれてくる(ジェネレートする)。そういう事を積み重ねるなかで、「周りの意見にあわせて、自分を殺して生きていた」学生さんも、詰まりながらでも、自分の声を出してみる。ジェネレーターの僕は、「上手く自分の気持ちを言語化できない」学生さんの声を「よく見・聴き・感じ・拾い上げ」るお手伝いをする。そのプロセスで、「自分の意見を言うことは怖くないことなんだと感じ」、対話が深まっていく。
そして、そのプロセスから生み出されていくものを、政治学者ハーシュマンの有名なExit & Voice(離脱と発言)モデルを修正し、ジェネレートとリフレームという再定義をする。
「現状においてヴォイスが起きにくいのは、発言・告発したところで、それをまともに取り上げてもらえないという諦めが蔓延しているからだ。(略)『頼む、変えてくれ!』ではなく、『こうしたらよいのではないか?』『なるほど、それならこういうやり方もあるね』『いいね、さらにこれもできそう』とどんどんアイデアを出してつなげていく。これが、ジェネレートだ。」(p98-99)
「現状においてイグジットが起きにくいのは、どこも似たようなもので、イグジットしてもたかが知れているからである。(略) そうであれば、いまあるものの別のものに移るのではなく、新しいやり方やあり方をつくって、そこに移行すればいい。(略) その場の意味を捉え直すことによって、まったく新しい場として再定義してしまう。そういうことが、イグジットに変わるリフレームだ。」(p100)
長年、地域福祉に関して様々な自治体や社協などとの協働プロジェクトをやってきた。その時に、ぼく自身が大切にしていたのは、まさにジェネレートとリフーレムであった。
厚労省の政策は、あかんもんはあかん、と批判し続ける必要がある。一方、実際の支援対象者や地域住民と直接関わる基礎自治体や市町村社協は、批判だけでは困る。じゃあどうするねん?が問われいるし、ぼくのもとにも自治体や社協職員がどうしてよいのかわからない案件が沢山持ち込まれてきた。そういう時に、地域福祉政策のジェネレーターとしての僕がしてきたことは、相談に来た人と「起きていることをよく見・聴き・感じ・拾い上げ」るプロセスに参加することだった。そのなかで、いま・ここ、の場において浮かび上がってきた直観を大切にし、「『こうしたらよいのではないか?』『なるほど、それならこういうやり方もあるね』『いいね、さらにこれもできそう』とどんどんアイデアを出してつなげていく」ことをし続けてきた。まさに、それはジェネレートそのものである。
そして、予算も人手も方法論も限られている現場において、ないものねだり、をするのではなく、あるものさがし、をしながら、「その場の意味を捉え直すことによって、まったく新しい場として再定義してしまう」というリフレーミングも、し続けてきた。このリフレームとジェネレートをするなかで、「どうしてよいのかわからない案件」にコミットし続けることが出来るし、その場の人々と、新しい何かを産み出してくることも出来たのだと思う。
そういう意味では、「学びと活動の生成」という副題のついた「ジェネレーター」というのは、まさにぼく自身が教育や福祉現場でやってきたことを、しっかりと裏打ちのある理論で言語化してくれた、背中を押してくれる一冊であった。そして、ブログでは紹介できなかったけど、ご自身もジェネレーターとして、小学生と共にオモロイ何かを探求し続けてこられた市川さんの実践は、ほんとうに面白い。ついでに、パターンランゲージを世に広めてこられた井庭さんが、なぜこんな研究者になったのか、という彼の成長物語(ジェネレーティング・ストーリー)も面白かった(お二人のことを以前のブログにもご紹介していた)。
誰かと共に相互変容したい、と思う人には、オススメの一冊である。