年末に原稿を書きながら、読み始めたらめちゃくちゃ面白くて一気読みした本がある。それが、江原由美子さんの『持続するフェミニズムのために – グローバリゼーションと「第二の近代」を生き抜く理論へ』(有斐閣)である。この間、フェミニズムに関してモヤモヤしていた事が、まさに主題化されていた。それは「1%のフェミニズム」、またの名を「リーン・イン・フェミニズム」に関してである。
少し前に話題になった、政治学者のナンシー・フレイザー達による『99%のためのフェミニズム宣言』(人文書院)に僕も衝撃を受けた。そのことについて、江原さんはこんな風にまとめている。
「ナンシー・フレイザーの『第二波フェミニズムとネオリベラリズムの関係』に関する見方は、人の心をつかむよくできたストーリーである。第二波フェミニズムが求めた『女性の解放』=『自由の希求』が、皮肉にも歴史の仕掛けた『罠』の中で、フェミニストをネオリベラリズムを推し進める加担者にしてしまったというストーリー・・・。」(p70-71)
『リーン・イン』を書いたフェースブックのCOO、シェリル・サンドバーグは、「ガラスの天井」を越えて、子育てをしながらも、GAFAのトップの1人になった、という意味では、世界を変えた女性の1人である。2018年に日本語訳が出た当初、この本を読んで、女性リーダーの台頭を手放しで喜んでいた。だからこそ、『99%のためのフェミニズム宣言』を読んだ時に、ぼく自身の盲点を射貫かれるようで、衝撃を受けたのである。シェリル・サンドバーグは確かに『女性の解放』=『自由の希求』の体現者でもある。でも、彼女は子どもたちのケアを有色人種のナニーに任せて、猛烈に働いているではないか。それはまさにネオリベラリズムを推し進める加担者の1人ではないか。そんな1%のリベラル・フェミニストの影で、「貧困の女性化」により有色人種のナニーを初めとした99%の女性たちには光が当たらないままではないか。このフレイザーの提起は、「人の心をつかむよくできたストーリー」であって、ぼくもフレイザーの意見に同調していた。
フレイザーは問いかける。「承認」と「再配分」の政治において、第二波フェミニズムはマイノリティの「承認」にエネルギーを割き、権力や財の「再配分」に注力してこなかったではないか? だからこそ、80年代から隆盛を極めはじめたネオリベラリズムと結果的に軌を一にして、1%の成功者の女性を承認する代わりに、99%の「貧困の女性化」に対応せず、財の再配分がなされてこなかったことを放置したではないか?「女性の解放」は、結果的には男同様に働ける女性にとっては「自由の希求」だったかもしれないけれど、男性中心主義的働き方が変わっていない、という意味では、何も変容していないではないか?
このフレーザーの批判に対して、江原さんは丁寧に反論していく。その詳細は本書を読んでほしいのだが(僕はほぼ全てのページに赤線を引き、ドッグイヤーだらけになった)、特に心惹かれた部分を引用する。
「『リーン・イン』フェミニズム批判には、フェミニズム批判とは別に、『個人的自立のための資源や増大する選択肢、能力主義的達成』を思考するという女性に対する批判も読み取れる。(略)フェミニズムに対する『個人主義』的だという批判は、そもそも、女性が『個人』であろうとすること自体を身勝手と非難する近代家族の『家父長的ジェンダー観』に基づく価値判断を基礎としている。そして、そのような『身勝手な女性』の集まりであり、『恥知らずにもそのように身勝手な女の生き方を奨励する』フェミニズムを批判する人々も、多く同調者としてしまうのだ。しかし、男性ではなく『個人主義』的な女性のみを『身勝手』と批判することは、まさに近代社会における女性抑圧構造の一部なのである。」(p161)
シェリル・サンドバーグが男性だとしたら、「個人主義」なり「身勝手」と批判されただろうか。この江原さんの問いかけにも、グサッときた。そう、男性は家事育児をしない前提が日本では保たれているから「加点モデル」で、女性は家事育児をすることが前提だから「減点モデル」なのである。シェリル・サンドバーグにもその「減点モデル」を当てはめて、「家父長的なジェンダー観」に基づいて査定をしていなかったか? 少なくも、彼女を責めるなら、彼女の夫や他の共働き男性も、同じように責められてしかるべきではないか。この「なぜ女だけ批判に値するのか?」というのは、あまりにその通りである。
次に、承認と再分配についての江原さんの解釈にも、深く頷く。
「多くの場合、マイノリティは、何を主張する場合にもまず、自分たちがマジョリティと「同じ資格で存在』していることを、マジョリティに『承認』させなければ、その声を『聞いてもらうことができない』位置にいる。だからこそ、たとえ主要な主張が『再分配』であっても、『承認の政治』をも問わざるを得ないのである。」(p172)
これは、障害者運動を追いかけてきたぼくとしては、すごく良くわかる。障害者の分離教育や入所施設・精神病院への隔離が当たり前だった時代、自立生活を望む障害者達は、「母よ!殺すな」と訴え、強烈な自己主張をしてきた。以前ブログで紹介した横田さんは、こんな風にも言っている。
「障害者と健全者の関わり合い、それは、絶えることのない日常的な闘争(ふれあい)によって、初めて前進することができるのではないだろうか。」
日常的な闘争(ふれあい)をしないと、まず承認すらしてもらえない。その声を聞いてもらえないと、自分たちが求める再分配にたどり着かないのである。それはフェミニズムや他のマイノリティの社会運動にも共通することである、というのは、すごくよくわかる。
その上で、もう一つだけ引用しておきたいのは、右翼ポピュリズムとフェミニズムの対立と和解の可能性についての、江原さんの指摘である。
「おそらく白人男性労働者たちは、かつては自分たちこそ、地域の中心的支え手であるというマジョリティ意識をもっていたのではないか。自分たちの政治的立場を代弁してくれる政党もあり、さまざまな問題を解決する能力をもち、自信を持っていた。けれども、産業空洞化等により地域の産業は変化し、自らの経済状況も悪化した。かつて自分たちの政治的主張を代弁してくれた政党は、今は自分たちに関心を寄せないどころか、かつては中心にいた自分たちを差し置いて、マイノリティの方に頭を向けている。白人労働階級は、かつては政治の中心だったのに、今や『周辺化』されてしまいかねない状況に置かれているのだ。この状況に対する抵抗感が、自分たちをマイノリティに重ねて考えることを妨げる。マイノリティの奴らとは違う。自分達は『本流』なのだと。『右翼ポピュリズム』に傾倒する者は、まさにこの点において、マイノリティと自分とを重ね合わせることを拒否するのである。」(p141)
この記述を書き写しながら、それは廃藩置県後に没落した武士階級の「周辺化」と類似していると感じた。西南戦争に駆り立てた怒りや「右翼ポピュリズム」にも、同種の劣等感のようなものがあったのかもしれない。だが、江原さんはこのような整理で終わらない。こういう「マイノリティとして差別された経験」の共有から、「白人男性労働者」とフェミニストは、分かち合いの可能性がある、と指摘するのである。
「このような『属性ゆえに貶められる」という経験は、差別という社会構造が生み出すマイノリティに対する意味づけをマイノリティ自身に課すことで、差別という社会構造の責任をマイノリティ自身の属性に責任転嫁する差別行為を経験することだ。このような『周辺化』の経験は、属性やその属性に対するアイデンティティの強さにかかわらず、多くの人々が経験しているのである。つまり『共有されたアイデンティティ』が弱まってきたとしても、『貶められたアイデンティティの回復』ではなく、『貶められた経験』を共有できる可能性は広くあるのだ。異なる属性をもつ人々の間でも、『経験の共有』は可能である。アイデンティティの回復そのものを求めるのではなく、『貶められた経験を共有』することで、『他者を貶めることがない』社会の実現のために連帯することができるはずだ。このような連帯を可能にするためには、『アイデンティティの非本質化』という第二波フェミニズムの『文化主義』的方法論が、有効に機能するはずである。」(p195)
仕事や誇りを奪われたラストベルトの白人男性労働者たち。それは、「周辺化」されることで、蔑まれ、馬鹿にされ、その差別を内在化させることで、怒りをもつ。そして、そのやり場をフェミニズムや女性蔑視に向ける。一見すると、そんな右翼ポピュリズムと和解可能性などなさそうに見える。でも、マイノリティ同士で「貶められたアイデンティティの回復」を巡って競い合うと、それは「内ゲバ」になってしまう。そうではななくて、「貶められた経験」という共通体験で、繋がることは可能なのだ。差別され、理不尽な目にあってきたのは、家父長制の下で虐げられた女性であり、この30年で見捨てられた白人男性労働者であり、日本で言えば非正規雇用で食いつないでいる「ロストジェネレーション」だったりする。そういうマイノリティが、「『貶められた経験を共有』することで、『他者を貶めることがない』社会の実現のために連帯することができるはずだ」。
この指摘はまさにそうだし、ぼく自身が障害者運動にずっとシンパシーを持ちづけてきたのも、「『他者を貶めることがない』社会の実現のために連帯」することだったので、なるほど!と唸った。そして、それぞ実現するためには、『アイデンティティの非本質化』、つまり「女だから」「貧しい白人男性労働者だから」「非正規雇用だから」という「○○だから」というアイデンティティを「非本質化」することである。それは、女性運動や障害者運動が培ってきた伝統であり、グローバライゼーションの時代の今こそ、その論理を使えるのではないか。
この江原さんの提起は実に心強い。
それ以外にも、グローバライゼーション=ネオリベラリズムとイデオロギー的な理解をするフレーザーに対し、エスピン・アンデルセンの福祉レジームを用いながら、アメリカのようは自由主義以外の社会民主主義レジームの北欧や、あるいは日本のような家族主義のレジームは、グローバライゼーションの展開が別様である(北欧では再分配の政治は常に生き延びているし、日本では承認の闘争をし続けない限りジェンダーギャップ指数がいつまでも再下位であり続ける)という指摘など、刺激的な論考が多いのだが、ちょっと長くなったので、ご興味がある方は直接本書を手にして欲しい。
フェミニズムは全ての人を解放する思想である、というフレーズを改めてかみしめた良書で、この一年で読んだ本の中でも、最も心揺さぶられる本の一つであった。