子どもが生まれた2017年から、「ケアの倫理」に関する科研費研究班に混ぜてもらった。そこでジョアン・トロントの本を読むというので、しかも翻訳が出ていないというので、赤子をスリングに入れながら英語文献を読んでいた。その時、彼女の大著Caring Democracyを読む前に、とりあえず講演録として出ていてすっと読めてめっちゃ面白かったのが、今日ご紹介するWho cares?である。で、その研究会で同じく読んだ名著『フェミニズムの政治学』の著者の岡野八代さんが翻訳してくださった。それを今回改めて読んで、学ぶことが多かった。
「ケアとは、必要を満たすものであり、だからこそ、常に関係的です。たとえば、自転車で転んだ子どもの擦り剥けてしまった膝は、擦り傷やばい菌をどう処置するのかといった問題だけでなく、この世界でそのことが安全だと感じる条件をどう想像するのかといった問題にも関わってきます。」(ジョアン・トロント『ケアするのは誰か? 新しい民主主義のかたちへ』白澤社、p25)
子どもがけがをする。痛いと泣き叫び、時には血を出したりしている。そういう時に、傷の処置をして、泣いている子どもをあやす。それは可及的速やかに求められるケアである。でも、子どもが同じけがを繰り返さないように、けがをしない遊び方について一緒に考えたり、アドバイスをすることは、けがの処置が終わり、子どもも落ち着いたらすべきケアである。更に言えば、子どもが普段自転車で走る環境のなかで、けがをしやすい場所がないか、とか、少し俯瞰的に見直してみることも、中長期的なケアにあたるかもしれない。トロントが指摘するように、それらはすべて関係的である。そして、具体的な関係性の中で、個別的な事象(今回なら自転車で転んだという出来事)を通じて、ケアは発動する。これは標準化も規格化も出来ない、一回限りの出来事の連続としてのケア、である。
一般的に、ケア関係とは、子どもや障害者、高齢者など、特定の社会的弱者に提供される、固定的なイメージと受け取られやすい。でも、トロントが言うように、ケアは関係的なのである。ぼくだってあなただって、必要がひとりで満たされないような状況に構造的に追い込まれたとき、それを満たしてくれる人との間で、ケア的関係性が生まれる。
「おそらく、賃労働の六分の一は、いまやケアに費やされています。人生の指南役、犬の散歩、病院での介助士、料理人、教師、結婚プランナー、自動車整備、そしてソムリエまで、あらゆることがケア実践に関わっており、市場でこうしたケアは売られています。」(p51)
確かに、来月オイル交換の時期だが、ぼくは自動車整備士の人に交換業務をしてもらい、ついでに定期点検をしてもらって、車の調子についてケアしてもらう。好きなワインを買うのは、馴染みのソムリエさんのお店であり、ぼくの好みとかお財布事情を知っていてコスパのよい&美味しいワインを勧めてくれるケアを享受する。このように、ケアの一定程度は賃労働を通じて消費されている。でも、ケアはそれだけには限らない。
トロントは、ケアについて、従来の議論では4つの類型に分けられていた、という。
1,関心を向けること(Caring about)
2,配慮すること(Caring for)
3,ケアを提供すること(Caregiving)
4,ケアを受け取ること(Care-receiving)
この4つは、皆さんもイメージしやすいことだと思う。公園で小さな子どもが自転車に乗っていると気づいた上で(caring about)、こけそうになったら走り寄る配慮をし(caring for)、泣いていたらケアはないかと確かめる(caregiving)。なだめてもらった子どもは、痛いけど大丈夫と言って(care-receiving)、また自転車をこぎ始める。これはケアのプロセスとして、日常的に行われている。
だが彼女の議論の特筆する点は、そこに新たな項目を付け足しているところである。
5,ケアを共にすること(Caring with)
彼女はこの第五の局面を「新しい民主主義の理念だ」として、以下のように述べている。
「私たちが平等化しなければならないものは、ケア提供という行為そのものではなく、ケアに対する責任であり、そしてその前提条件として、いかにしてその責任が[社会の中で]配分されるべきかについての議論なのです。こうして、わたしたちは、新たな民主主義の定義を手にすることになります。民主主義は、ケア責任の配分に関わるものであり、あらゆるひとが、できるかぎり完全に、こうしたケアの配分に参加できることを保証する。」(p39)
一気に難しくなったようにも思えるが、さにあらず。
子どもが公園で自転車に乗って遊んでいるとき、それを見守るケアを誰がしているか。土日なら、近所の公園ではお父さんが結構見守りをしている。でも、平日の未就学児のケアとか、あるいは夏休みの小学生のケアとかを誰がしているか。それは、圧倒的にパートタイム労働や専業主婦の女性である。夫婦共働きも増えてきたが、子どもが熱を出した、風邪を引いたときに早退するのも、圧倒的に女性である。更に言えば、家の洗剤や歯ブラシなどの消耗品を買うのは誰か、それを収納するのは誰か、PTAとか町内会の役を引き受けるのか誰か、子どもの習い事やお友達と遊ぶ際の送迎やスケジュール管理をするのは誰か・・・これらは圧倒的に女性なのである。つまり、ケア責任の配分に関しては、現代日本社会において、圧倒的に女性に偏っている。
それは、男尊女卑的事態である、だけでなく、日本社会が職場で働かせ過ぎている社会であり、夜中まで残業しないとラットレースに残れないような、弱肉強食の社会であるからだ。それを夫婦のどちらかが出来ないというと、管理職から下ろされてしまう。まさに、昭和的な「24時間戦えますか?」マインドが未だに続いている。それを朝日新聞の連載で「昭和98年」と銘打った連載にしていて、思わず唸った。そうか、昭和が終わって40年近く経つのに、未だに昭和98年なんだ!と。本当に、たまらんしんどさである。
最近、あちこちで「昭和的価値観をどう成仏して乗り越えられるか」について語っている。これも実はネタ元はトロントである。彼女はこんな風に語っている。
「『共にケアする』という代案は、あらゆるひとに、より少なく働くこと、つまり、日々のケア実践にある一定の時間を割くように要請します。もちろん、こうした変革が実際に効果を発揮するためには、わたしたちが自分の時間や、働く場所、そして自分の労働に対していかに対価を受け取るかについての考え方に革命を迫るでしょう。いまは多くの労働者は、毎日二十四時間自分の仕事に義務を感じていて、家からEメールに返事をしたり、深夜に世界の反対側で行われているプロジェクトの状況をチェックしたりして、一日を終えるのです。[このような状況のなかだからこそ]誰もこんなふうに完全に、仕事をケアの必要より上に位置づけるべきではないと、社会全体でわたしたちが決めることは、より一層、とても意味のあることとなっているのです。」(p57-58)
この文章を最初にkindleで読んだ6年前も、線を引きながら読んでいたので、深く覚えている。そうそう、ぼくは子どもが生まれた頃までは、まさに24時間戦闘態勢で、ずっとメールを見ていたし、休み無く働き続けてきた。それが社会から求めらていることだし、そうしないと研究者として評価されない、と思い込んでいた。でも、他者がケアをしないと死んでしまう赤子を前にして、己の「ビジネスモデル」がいかにケアを無視したものであるか、ケアを放棄した上で成り立っているか、を、本当に痛いほど感じた。まさにケアを度外視して、仕事をしていたのである。そして、それでは子どものケアは出来ない。そして、仕事中心主義から降りた時に、まさに「戦線離脱」の恐怖を感じたのだ。
だからこそ、トロントは、これは個人の問題ではなく、政治の問題であり民主主義の問いだ、とハッキリ指摘する。子どもが生まれてみて、「仕事が忙しいから」とケア役割から逃げていたら、それは不平等に加担することになる。そういう「昭和98年」的な抑圧的世界に加担することになる。それがいやなら、ケア責任の配分に参加しなければならないし、それを通じてケアの平等を実現しなければならない。それは、仕事の仕方を変えることであり、仕事にのめり込んでいた自分の生き方をも変えることを求められたのだ。でも、戦線離脱の恐怖の中で、ぼくにとって一筋の光になったのが、このトロントの講演録だった。
「わたしたちはこれまで、物事を逆さまに捉えてしまいました。すべてのひとにとって、善く生きるための鍵は、ケアに満ちた生活を送ることです。すなわち、必要なときにひとは他者から、良くケアされ、あるいは自分自身でケアできる生活です。そしてそれは、他の人びと、動物、そして、自分の人生に特別な意味を与える制度や理念のために、ケアを提供する余裕がある生活です。」(p66)
ぶっちゃけて言うと、ケアは余裕がなかったら絶対に出来ない。ケアは余裕の産物なのだ。でも、現代社会において、それが過度に商品化されている。すると、購買力のあるパワーカップルは商品購入で代替できるが、専業主婦やパート世帯、あるいは非正規カップルやシングル世帯などは、自分たちで何とかするしかない。そこにケアの格差が生じてしまう。それは、あまりに不平等である。
この状況は「物事を逆さまに捉えて」いた状態なのだ。前提としてあるのは、善く生きるために必要なものは仕事ではない。「善く生きるための鍵は、ケアに満ちた生活を送ることです」。ということは、仕事に埋没できる環境を保証するのではなく、ケアに満ちた生活を送るための前提条件こそ、社会的に保証されなければならない。そのために、制度や政策を変えていく必要があり、そのための政治が求められているのである。
この点に関して、訳者の岡野八代さんは、「特権的な無責任さ」と指摘している。
「既存の政治、既存の社会の中心が、特権的に、ケア活動に関心がなく、担わなくてもよく、<自分が知ったことではない Who cares?>と誰かに押しつけておくことのできる者たちの無責任さに覆われていることに、否応なくわたしたちは気づくことになる。」(p111)
そう、この「特権的な無責任さ」を持っていたのは、育児に関わる前までのぼく自身だ。岡野さんの指摘でハッとしたのは、「誰がケアをするのか? (Who cares?)」って、<自分が知ったことではない Who cares?>とダブルミーニングだったのだ。言われてみたらその通りなのだけれど、そのことに気づいていなかった。そして、「昭和98年」を生きる多くのサラリーマン男性や管理職が、「<自分が知ったことではない Who cares?>と誰かに押しつけておくことのできる者たち」であり、彼らは「特権的な無責任さ」を持ち、そのことにすら自覚的ではないのだ。まるで、以前のぼくと同じように。
だからこそ、誰かにケアを押しつけていることを、<自分が知ったことではない Who cares?>と言い放つことは、民主主義に反することであるし、アカンことや!と指摘することから、ケアを共にするCaring withがはじまる。あなたも私も、ともにケア配分の責任を引き受けようよ、男も女も平等にケア責任を配分できるような社会にしようよ、そのために働かせ過ぎの職場環境を変えようよ、と。それでは仕事が回らないなら、そもそもその仕事の回し方こそ変えようよ、と。ワークライフバランスなるものを本気で突き詰めようとするなら、このCaring withのラディカルさを引き受ける必要がある。そうしないで表面的に育休を男性でも1週間ならとってもいいよ、とか、その間にリスキリングしておいてね、という発想は、まさに<自分が知ったことではない Who cares?>という特権的な無責任さを手放していないと告白しているようなものだ。
そして、そんな社会はいやだ。「昭和98年」的世界は嫌だ。
男と女で、賃金に格差をつけない。より少なく働き、トータルの労働時間でカバーできるような社会に変えていく。<自分が知ったことではない Who cares?>という「特権的無責任さ」を自覚化して距離をとり、ケア配分の民主化を目指す。そのために、業務内容や働き方を徹底的に効率化する。こういうことこそ、ほんまもんの「創造的破壊=イノベーション」なのだと思う。そういうプロセスを積み重ねることで、「昭和98年」をやっと成仏出来る。20世紀型システムと、区切りをつけることができる。
そんな風に感じた。