何のために勉強するの?

10月にちくまプリマー新書から『ケアしケアされ、生きていく』という単著を出す。この本を書くプロセスで、読んで確認したいと思った本もあれば、「本を書き上げるまでは読まないでおこう」と思った本もある。今からご紹介する本はその本で、ものすごく魅力的な本で圧倒され、「この本を事前に読んだらかなり自論も引っ張られそうだ」と感じた一冊だ。

「あなたはこれから、善き人を追い求めながら、そのたびにあくどい自分を見いだして絶望しながら、生き抜いてください。人を気遣い、配慮すればするほど、自分に避けがたく悪が忍び寄ることを全身で感じながら、自分の善意にことごとく挫折しながら、それでも強く生き延びてください。」(鳥羽和久『君は君の人生の主役になれ』ちくまプリマー新書、p106)

著者の鳥羽さんは福岡で学習塾を20年行い、小中高の子どもたちと向き合い続けている同世代。実は、僕の新書の編集者が上記の本の編集もしていて、オススメされたのだが、なんとなくこの本に影響されそうだから、と読むのを後回しにしてきた。彼は、10代の子どもたちが、親や先生に翻弄されて、自分を見失ったり自信を喪失するプロセスをずっと垣間見てきたからこそ、大人に手厳しい。そして、10代の子どもたちに向けたメッセージは、生ぬるい優しさは一つもなく、本気のメッセージである。

「悪をなさないとしても、それはあなたが悪を克服したことを意味しません」(p98)とも明言する。政治的な正しさが行き渡り、昭和の時代に比べたら、わかりやすい・物理的な暴力は減ったのは事実である。そして、悪をなさない人も増えただろう。でも、だからといって、悪をなさないことは、悪の克服とは違う、と鳥羽さんは言い切る。ブラック企業で働く人々も、悪人ではない。真面目にしっかり仕事をしようと思ったら、資本の論理に生真面目に従おうとしたら、搾取プロセスの中に組み込まれていくのだ。それが「避けがたく悪が忍び寄ること」なのである。そのことに青年も自覚的であれ、と鳥羽さんはメッセージを発する。悪は善のすぐ側にあり、放っておいても、忍び寄るし、善意はことごとく挫折する。それでも、にも関わらず、悪を克服出来ないことを意識しながらも、善い人生に向けて、生き抜いて欲しい。このような、鳥羽さんの祈りの言葉が各所にちりばめられている。

「あなたを護ることは、同時にあなたを抑圧することになる。でも、抑圧しすぎると子どもは育たない。だからといって、抑圧しなければ私は子どもを育てられない・・・。そうやって延々と逡巡を繰り返すうちに苦しみのループに巻き込まれ、親はその思考からいっときもあなたを手放すことができなくなります。
こうして親は、世間の波に巻き込まれるうちに親としてのこわばりを身につけていきます。親たちは、親として話すようになると同時に、自分独自の言葉を手放してしまうのです。
親は『わたしもちゃんとした親でありたい』と望みます。しかし、親はそのとき、あなたに対してちゃんとしたいというより、世間に対して恥ずかしくないようにちゃんとしたいと思っているんです。そしてしまいには、親はほとんど世間そのものとして、あなたの前にたちはだかるようになります。」(p137-138)

これは、ぼく自身も20歳の大学生と20年近く付き合っていて、本当に強く感じることである。自信を喪失している、○○したいというアクセルより「してはいけない」「どうせ無理」とブレーキを踏み続けている学生に限って、「親はほとんど世間そのものとして、あなたの前にたちはだかる」のだ。特に母親が「毒親」として立ちはだかっている例を、沢山見聞きする。

でも、それは母親のみの問題とは到底思えない。『わたしもちゃんとした親でありたい』と望む母親の強烈な姿を見聞きする一方、父親の存在が不在である場合が多いのだ。ぶっちゃけて言うと、そういう家庭に限って、母と父が対話をしておらず、母は孤独で、父を呪っているケースが結構あるように思う。母が毒親になる、ということは、父が仕事に逃げたり家庭を放棄したり、という父の不在とセットになって、存在しているように思う。いずれにせよ、それは親同士が協働して子どもと向き合おうという努力を放棄し、親自身が抑圧されているからこそ、子どもも抑圧を通じてしか育てられない状況に陥っているのである。

そして、さらに追い打ちをかけるのは、「世間に対して恥ずかしくないようにちゃんとしたい」という日本社会の同調圧力だ。親が自分たちで子どもと向き合う論理を持たない場合、親が最後にすがれるのは「世間」になる。すると、子どもが自分らしい思いを親にぶつけたときに、「公務員の方が安定しているよ」とか、「手に職を付けなさい」とか「もう少し現実的に考えて」という親は、「ほとんど世間そのものとして、あなたの前にたちはだかる」しかないのだ。それは、「親たちは、親として話すようになると同時に、自分独自の言葉を手放してしまう」という残酷なプロセスである。

子どもが自分独自の言葉や思考を持つとき、それは親の支配下を逃れる時である。これまで親が子どもを抑圧してきたならば、その抑圧に抵抗し、その支配を無効にしようと子どもなりに努力する。それは、親にとっては、自らの帝国が崩壊する危機なので、ものすごく恐ろしいことである。だからこそ、親が子への抑圧を手放し・出来る限り減らし、子どもを見守ることが出来るか、が問われている。でも、これまで支配の論理に慣れていた・それでうまく回してきた(つもりになっている)親にとっては、最大の武器を手放し、素手で子どもと付き合うようなものであり、これほど恐ろしいことではない。そう思う親もいるだろう。だからこそ、「世間」という「呪いの言葉」に頼りたくなるのだ。

これは、ぼく自身も、娘が思春期になったときに、当然問われることだと思う。だからこそ、次のフレーズをかみしめておきたい。

「勉強することの大きな意味のひとつは、それを通して子どもが親の思考の影響から距離を取ることができる点にあります。そういう意味で、親の言葉一つに影響を受けすぎるあなたはつくづく勉強が足りないんです。」(p214)

これは学生と接していてもそう思うし、我が子が成長していくなかでも、肝に銘じておかなければならない。だけでなく、ぼく自身の青年期の経験とも合致する。

本を読むこと、思考を深めることの最大の魅力は、自分独自の視点を少しずつ獲得していくことである。それは、「親の思考の影響から距離を取ること」そのものである。京都で暮らした高校時代、母校の仏教系学校の校長である僧侶が、学校の金を使い込み、先物相場で数千万円の損失をして、校長を退職した事件があった。だが、我が家でとっていた地元紙は、宗教法人に遠慮して、深追いする記事を書かなかった。一方、友人が持ってきた全国紙では、そのことを徹底追求して記事にしていた。その時、親の見ている世界を作っているのは、京都の狭い現実であり、京都を相対的に見る全国紙から見ると、違う世界が広がっている、とはじめて気づくことがでいた。また、月に一度の法話で立派なことを言っている人も、「善き人を追い求めながら、そのたびにあくどい自分を見いだして絶望し」ているのだと気づいた瞬間でもあった。

それから、全国紙に切り替えてもらい、図書館で本を色々読むようになった。親の言っていることと、違う切り口や視点を、少しずつ学ぶようになっていった。すると、親の発言だけでなく、自分が過ごした家庭環境そのものを、俯瞰して捉えるメタの視点を身につけられるようになっていった。それが、箱の外に出る勇気だと思うし、自分が嵌入している社会構造の自覚化なのだと思う。ぼくは、10代でそれが出来た訳ではなく、20代からずっと本を読み続け、そこで考えたことをブログで書き続けながら、おっさんになってやっと気づきを深めていった、のかもしれない。

「親の言葉一つに影響を受けすぎるあなたはつくづく勉強が足りないんです」

これはめちゃくちゃドギツイ言葉だ。でも、ぼくも多くの20歳と出会ってきて、深く頷く。親の言葉に囚われていて、その呪縛から抜け出せない人は、もちろん親も悪いのだけれど、自分自身もその呪縛から逃れるための別の視点を持てていないのだ。そして、その別の視点を持つための、最短で確実なプロセスとは、勉強することなのかもしれない。

「大人たちは良かれと思ってあなたにさまざまなアドバイスをしてくれます。でもその多くがむしろあなたを『正しさ』でがんじがらめにしてしまう言葉ばかりなんです。あなたに必要なのはみんなとは違う自分独自の生き方を見つけることなのに、大人があなたに耳打ちするのは、どうすれば『普通』になれるか、みんなとうまく合わせられるかということばかりなんです。」(p245)

「どうすれば『普通』になれるか、みんなとうまく合わせられるか」を必死になって模索すると、世間で浮かない、空気を読んで、同調圧力にもうまく従える「いい子」になれる。でも、それは「世間にとっての都合のいい子」であり、自分自身の魂を毀損する生き方である。そして、「世間にとっての都合のいい子」として歯を食いしばって我慢してきた大人たちは、子どもたちも同じような鋳型にはめ込もうと、「良かれと思ってあなたにさまざまなアドバイス」をする。それは、社会に適合するための『正しさ』であり、「みんなとは違う自分独自の生き方を見つける」方法論ではない。

だから、そんな大人たちの声とは距離を取り、自分の頭で考え、様々な本と対話し、試行錯誤をしながら、自分の声を手に入れてほしい。筆者の懇請が聞こえてくるようだ。

「君は君の人生の主役になれ」

本書はこのタイトルフレーズで終わる。これは、子どもだけではない。子を育てる大人じしんが「自分の人生の主役」であるだろうか。子どものせいにして、子どもをダシにして、自分の人生の主役を引き受けることから逃げてはいないだろうか。僕は、鳥羽さんにそうも問いかけられているように感じた。子どもと生きる私も、子どもと共に、主体的に生きることができる。それは、『ケアしケアされ、生きていく』という本の中に詰め込んだ話でもある。いつか、鳥羽さんと対話をしてみたい。そんなことを感じた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。