“非経済的な”背景条件を問い直す

新書とは呼べないほど、結構な硬派で「歯ごたえ」のある新書を読んだ。

「資本主義の特異性の一つは、構造的な社会的関係を、あたかも経済的関係であるかのように扱うことだ。実際、すぐ気づいたのは、そのような『経済システム』を存立させる、“非経済的な”背景条件について議論する必要性だった。それらは、資本主義経済の特徴ではなく資本主義社会の特徴なのだ。この点を全体像から消し去るのではなく、資本主義とは何かという理解に組み込まなければならない。それは、資本主義を経済よりも、もっと大きなシステムとして概念化することを意味する。」(ナンシー・フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』ちくま新書、p41)

資本主義について語ろうとすると、どこかで知識不足を恥じて語れない自分がいた。経済学の素養を学んでいないので、資本主義については語れないのではないか、と思い込んでいた。これは資本主義を経済に基づいて語る、という考え方である。フレイザーはそれに異を唱える。私たちが資本主義にモヤモヤしているのは、「構造的な社会的関係を、あたかも経済的関係であるかのように扱う」からだ、と。資本主義経済が成り立つためには、そこには「“非経済的な”背景条件」がある。この背景条件を議論することは、資本主義「経済」を議論するのではなく、「資本主義『社会』の特徴」を考える必要がある。それは、「経済よりも、もっと大きなシステムとして概念化すること」である、と。

フレイザーはそこで、「“非経済的な”背景条件」として、「社会的再生産」と「自然」、「被征服民」と「公共財」の「搾取」や「収奪」を指摘する(p242-243)。先進国の人々が安価で買えるファスト・ファッションは途上国における、「被征服民」状態にある人々の低賃金労働という収奪が前提になっている。「24時間働けますか」と残業や休日出勤、単身赴任もいとわず男性が働けるのは、家事や育児、ケアを女性に押しつけることによって、である。石油も天然ガスも天然水も、自然を収奪することによって、大資本が利益を得ているが、何百年、何千年とかけて作り上げた自然の恵みに対して、大資本は「返礼」をしていない。また、水道公営化とか行政の人材派遣会社への再委託問題に代表されるように、公共財を民営化することで、公的ななにかから営利を最大化し、住民サービスの質の低下も起こっている。

これらは、「“非経済的な”背景条件」であって、資本主義経済そのもの、ではない。でも、資本主義経済を高速度回転させる上での「当たり前の前提」であり、それによって、この社会がよりいびつな形に変質し、人々の生き心地が悪くなる、という意味で、「資本主義『社会』の特徴」である。それをわかりやすく描き出しているのが、本書である。

そして、ケアを「“非経済的な”背景条件」と定義しなおすことによって、よりクリアに言えることがある。

「社会的再生産の労働はどの社会においても不可欠である。ところが、資本主義社会の場合、その労働はもっと特別な機能も担う。それは、労働者階級を生み出して補充し、搾取によって剰余価値を吸い上げることだ。したがって、ケア労働は資本主義システムが『生産的』と呼ぶ労働を生み出すが、ケア労働そのものは皮肉にも『非生産的』とみなされる。」(p104)

性別役割分業が進んだ社会におけるケア労働は、労働者が労働者として働けるように、主婦が労働者の食事を作り、洗濯をし、シーツを交換し、子どもや年寄り、障害者の世話をした。生産年齢人口にある男性は、そのような主婦のケアを受けることで、やっと外で労働者として働く基盤ができた。労働者の給与分以上の働きをすることで、資本家は「剰余価値を吸い上げる」ことができる。でもそれくらい会社や工場でしっかり働いてもらうためには、一日の大半を仕事に費やすことになる。すると、社会的再生産の労働を女性に押しつけざるを得ない。しかも、社会的再生産の労働は「生産的」な労働の「外部」=「“非経済的な”背景条件」になるので、「ケア労働そのものは皮肉にも『非生産的』とみなされる」のだ。

僕が子育てを始めたとき、もっともつらかったのは、「ケア労働そのものは皮肉にも『非生産的』とみなされる」という認識前提だった。赤子のケアに必死で、五回の洗濯と、母乳を出すための豚足スープをコトコト煮て、夜泣きする娘に深夜付き合って子守歌を歌っていながら、「今日は何にもできていない!」と嘆いていた。でも、何もしてないわけではない。事態は全く逆で、子育てのケアや、娘にかかりっきりになる妻へのケアを必死でこなしていたのである。にもかかわらず、「今日は何にもできていない!」と嘆く僕自身は、ケアをこれほど大切な営みだと日々感じながらも、「ケア労働そのものは皮肉にも『非生産的』とみなされる」という認識前提から自由になれていなかったのだ。

そのような認識前提が資本主義「社会」に共有されている。だから、介護や看護、保育などのケア労働は、「エッセンシャルワーカー」とかコロナ下で言われながら、非常に賃金が安い。それは「主婦でも誰でもできる仕事」と馬鹿にされているからだ。でも、自分がやってみて初めてわかったのは、社会的再生産の労働は、ものすごく高いスキルが求められるし、気配りや配慮が求められる労働である。にもかかわらず、専業主婦という「不払い労働者」に託してきた歴史があるという理由だけで、「非生産的」とラベルが貼られ、賃金が低く据え置かれることには、がまんがならないし、そのことに、「生産労働」に埋没しているおっさんはあまりにも無自覚だ、ということだ。

「資本は、ケア労働にまったく何の(金銭的な)価値も認めない。無償で無限に利用できる活動として扱い、ケア労働を維持する取り組みをほとんど、あるいはまったく行わない。このような放置状態に加えて、際限なく蓄積する資本の苛烈な衝動を考えれば、資本主義にはつねに、みずからが依存する社会的再生産のプロセスを不安定にする恐れがある。」(p203)

「保育園落ちた、日本死ね!」という苛烈なワーキングマザーの訴えがあって、それが社会化されることにより、この10年ほどの間に少子化対策がやっと急速に進んできた。最近では「学童保育の待機児童」問題が大きくなっていて、学童の枠をどう広げるか、が課題になっている。ただ、この流れに、二重の意味でモヤモヤしている僕自身がいる。一つは、学童保育指導員の給与の低さであり、もう一つが学童に預けなければならない親の働き方の問題だ。

前者は「ケア労働にまったく何の(金銭的な)価値も認めない」がゆえに、賃金が引く抑えられていて、学童指導員のなり手が少ない、という問題だ。でも、それだけではない。男も女も馬車馬のように働かなければならないので、学童指導員に預けざるを得ない、という事態そのものって、「際限なく蓄積する資本の苛烈な衝動」に、ぼくたちが巻き込まれているのではないか、という危惧を抱いているのだ。それは、スウェーデンに半年間住んでいた時の記憶から、更にそう思う。

20年前、2003年の秋から2004年の春にかけて、スウェーデンで在外研究をしていた。イエテボリのアパートを借りて暮らしていたのだが、そこでは朝7時過ぎに地元の幼稚園や小学校に送り届ける父母の姿を見かけた。そして、仕事に行って、猛烈に働いた後、午後3時過ぎには、仕事を切り上げ、子どもを迎えに出かけて、家路に急ぐパパやママも当たり前のように見ていた。つまり、子どもが小さい間は、6−8時間で仕事を切り上げ、さっさと家事育児モードに戻る親を沢山見ていたのだ。それは同一賃金同一労働で有名なオランダでも似た現象があることは、以前のブログでご紹介した。

その一方、日本で共働き夫婦を見ていると、ガッツリフルタイムで働いてしまったら、子どもを学童の終わるギリギリの時間まで預けざるを得ない家庭もしばしば聞く。それは、その家庭云々の問題ではなく、「際限なく蓄積する資本の苛烈な衝動」に巻き込まれて働き続ける中で、「みずからが依存する社会的再生産のプロセスを不安定にする」現状のように思えてならないのだ。

そして、社会的再生産の収奪プロセスと同じような資本主義の矛盾を「自然」にも見いだす、と著者は指摘する。

「自然は、原材料やエネルギーなど商品生産の投入物を供給する蛇口であり、商品生産の廃棄物を吸収するシンクでもある。そのいっぽう、商品生産による生態学的費用を資本は負担しない。自然は自動的に、際限なく自己補充するものだ、と都合よく解釈する。これもまた、己の尻尾に喰いつく蛇、みずからが依存する自然の共喰いにほかならない。どちらの例にしても、領域間に存在する矛盾の基盤には、経済の枠を超えた資本主義の危機の傾向がある。社会的再生産の危機の場合もあれば、生態学的な危機の場合もある。」(p203)

「商品生産による生態学的費用を資本は負担しない」。これは水俣の水銀公害や福島の原子力公害などの「人災」を見ていても、全くその通り。チッソや東京電力は、住民への賠償は幾ばくかは行っても、「商品生産による生態学的費用を資本は負担しない」。その背景には、「自然は自動的に、際限なく自己補充するものだ、と都合よく解釈する」傾向があり、自然が豊かな日本はそれが特に顕著なようにも思う。そして、グレタさんや斎藤幸平氏の発言が近年注目されているのは、「己の尻尾に喰いつく蛇、みずからが依存する自然の共喰いにほかならない」ことへの警句であり、「生態学的な危機」への警鐘なのだ。

フレイザーはマルクスを尊敬していることもあり、その昔に読んだ『共産党宣言』と同じような、鮮やかな資本主義批判は面白かった。ただ、こもれマルクスと同じなのだが、資本主義批判の切れ味は鋭いのだが、そのオルタナティブとしての共産主義なり社会主義の提示が弱いし、もっと具体的に読みたかった、というのが正直な読後の感想である。ただ、それはないものねだり、であり、社会的再生産の現場でモヤモヤしている僕自身が、日々の実践の中で見つけていく課題でもあるのだろうな、と思った。

いずれにせよ、骨太だけど、読み応えのある一冊です。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。