不安の正体

 

フランクフルトで乗り継いで、イエテボリに向かう飛行機の中から、何だかモヤモヤした気分が続いていた。飛行機が海を越えてスウェーデンにさしかかる中で、そのモヤモヤは、漠とした不安に変わっていった。その霞のような不安の理由の正体を、先ほどイエテボリ港をぶらぶら散歩している途中、沈みゆく夕日をぼんやり眺めていて、はっと気がついた。そう、これは3年前に抱えていた不安と全く同じだ、と。

イエテボリは、実に3年ぶりである。
2003年の夏に、海外調査のアプライが採択された通知が来て、その一月半後の10月20日には、イエテボリの地に妻と二人で降り立った。二人とも、大変くたびれ果てていた。僕は博論を書き終わったが常勤の仕事にありつけず、非常勤講師やNPOの仕事などをしてはいたが、非常に不安定な状態。急に半年海外への移住が決まっても何とかなるほど、世間的な責任や役割からもはずれていた。今から考えると結構な身分だが、当時の僕は、仕事が全然決まらないことに焦燥感でいっぱいだった。また、妻は妻で、当時は世帯主として低所得の夫の3倍以上は働いてくれていて、身も心もボロボロだった。この状態で二人が別れて暮らすときっと離婚に至る、というのは一致していた確信だったので、とにかくエイヤッと日本を離れたのである。

エイヤッっと書くと威勢は良さそうだが、実は内心不安でいっぱいだった。スウェーデン語が堪能な研究者は日本に結構たくさんいる。スウェーデンの障害者政策に関する日本語文献も少なくない。そもそもこのイエテボリの地を紹介してくださった大先輩のKさんご自身が、現地での調査結果をたくさん著作の形で出しておられる。僕のような、スウェーデン語も出来ず、現地に留学した経験もない人間が、たった半年間の期間の中で、いったい何をつかむことが出来るのだろうか、何か意味あることや日本に役立てることを本当に見つけ出すことが出来るのだろうか・・・こういった不安が強迫的に僕の中で渦巻いていた。クリスマスを過ぎて、新年を迎える頃まで、この不安の中で鬱々とする日々が続いた。実は僕たちがスウェーデンに越してすぐの11月は、スウェーデンでは急に寒くなり、かつ日照時間が短くなって、スウェーデン人にとっても「魔の11月」と言われているのだそれに、先の不安だけでなく、定職に就けない焦燥感、それに一種のホームシックにも似たや孤独感も重なり、ますます落ち込んでいった。寒さも手伝って、11月に入って借りることが出来たアパートで、妻共々「半分引きこもり」の日々が続いていたのだ。

今日、ルンドにとある研究者を訪ねた後、夕方6時過ぎにイエテボリに帰ってきて、まだ日の明るいイエテボリの街を久々にぶらぶらしてみよう、と思い立った。何となく海が気になって、市内の繁華街から港の方にブラブラ歩いていって、愕然とした。港に近くには、すてきなオペラハウスもあり、その近くには気持ちよい散歩コースもある。そこは、いつも買い物に出かけたノルドスタンというショッピングセンターの目と鼻の先である。なのに、全然こんなすてきな風景を、半年住んでいる間には探そうとしていなかった。半年もいたのに、ルーティーンな場所しか訪れず、「半分引きこもり」状態なので、イエテボリの魅力に全然気がついていなかったのである。一体僕はここで半年間何をしてたんだろう・・・そう落ちこみかけて、逆にその瞬間、冒頭に書いた不安の正体に気がついたのだ。それと同時に、様々なことが氷解していった。「どうのこうの言ったところで、とにかく自分に出来ることを、出来る範囲で誠実にやるしかないんだ」と。

そう、3年前も、こうやって踏ん切りをつけた。その後、二つの対象を決めて、とにかく遮二無二その課題に取り組んだ。その結果、スウェーデンの障害者政策のことをちょこっとだけ違う角度で調べることが出来、以前に書いたように報告書にもまとめた。これは、今から思うと当時知り得たことをすべて詰め込んだので、初めて読む人には散漫な、というかバラバラなピースの寄せ集めに思うかもしれない。だが、自分の中では、つたないながらも独自の「地図」を書き上げたつもりだ。当時孤独の中で書き上げたこの地図も、今読んでも意外にスウェーデンの障害者政策のまとめとしては使い道のある地図であるだけでなく、僕の中では、スウェーデンのことをまとめた後になって、実は日本のことが以前より少しはっきり見えてきたような気がしている。比較の眼、というか、別の座標軸を持ったおかげで、日本に帰った半年後の2004年秋からの自立支援法を巡る狂想曲の中でも、変わり行く情勢を追いかけつつ、何とか自分を見失わずにいれたのだと思う。これは、たぶん日本にずっといたら絶対に無理だっただろう、と今の自分は確信している。そう、座標軸が複数あるから、一つの座業軸上での「揺れ」も、幅を持って眺めることが可能なのだ。

さて、話をスウェーデンに戻そう。
3年たったスウェーデンの現場に、たった一週間だが、明日から舞い戻る。この現場には英語が堪能なメンバーや支援者もいるので、少しはキャッチアップできるだろう。とはいえ、スウェーデン語は結局マスターできずにいることには変わりなく、たった一週間で感じられることはごく断片にしかすぎない。とはいえ、日本に帰国後まる二年の間に、前回訪れたときより日本に関する座標軸は多少なりともシャープになっているはずだ。この以前とは違う日本の座標軸を元に、新たにスウェーデンで一週間暮らす中で、きっと以前とは違う発見や出会いと遭遇できるはずである。そう考えたら、変に気負ったり、鬱々とするのは、あほらしい。せっかく今は日も明るく、過ごしやすい。気持ちを落ち着かせて、後一週間しかない日々を、じっくり充実して暮らそう。で、出たとこ勝負で、吸収できそうなことをいっぱい吸収しよう。幸い、この火曜から木曜にかけて、興味深いプログラムも目白押しだ。明日月曜は久しぶりにメンバーとの再会を味わいながら、徐々にイエテボリの空気になじませていこう。そう感じながら、現地の風景を懐かしみながら、イエテボリの暮れゆく夕方を歩いていた。

味のある虚脱感

 

スキポール空港近くのホテルで、軽い虚脱感のようなものにおそわれている。

とにかく、激しい5日間だった。
前回も書いたように、オランダに到着した月曜日の夕方から、刺激的な現地での活動が始まった。今回は、何かをシステマチックに学ぶ、ということを、知的障害者の当事者活動(セルフ・アドボカシー)を支援する人々の取り組みを出来る限り追いかけながら、その背景にあるアイデアや哲学のようなものを感じ取りたい、と願っていたので、徹底的に皆さんの活動に加わっていった。

僕がごやっかいになったLFBという当事者活動グループは、明日からスウェーデンでお世話になるグルンデン同様、当事者活動グループとしては大きな力を持つグループである。彼ら彼女らの活動を、単純に横文字から縦文字に翻訳したり、輸入したりしようと思っても、どだい無理な話。それより、なぜ、どのように、どんな背景で、そういう活動を続けているのか、ということを、心から感じてみたい、と思っていた。そして、この5日間で繰り返し彼らと話し合ったのが、「プロセス」について、であった。

LFBの皆さんは、システムや組織、結果、という言葉を嫌う。そしてそれよりも「プロセス(=過程)」というものを大変大事にする。その背景について、いろんな人に尋ねてみたら、LFBの関係者の一致した意見は、システムや組織を重視していたら、結局のところ本質が見えなくなる、との答えが返ってきた。そう、それこそ、僕が何となくこの間感じていた疑問と一致する。これは、日本でも全く同じだからだ。

僕は2003年秋から2004年春までスウェーデンのイエテボリに暮らしていた。今回3年ぶりにイエテボリの地を踏むのだが、現地で暮らしていた当時から、ずっとそのことは感じていた。つまり、スウェーデンのシステムなり組織なりをそのまま輸入することなんて、絶対できっこない、と。スウェーデンで色々調べて、いろんな人に話を聞いて、スウェーデンについて書かれている本もいっぱい読んでみた。スウェーデンを訪れるのも、当時で既に5回目。何度か調査に訪れ、日本にはない様々な取り組みを色々調べていた。そうやって何度も訪れる中で漠然と感じていて、半年住んでみて確信に変わりつつあったこと、それが、先にも書いた「単なる輸入はまったく意味をなさない」ということであった。

スウェーデンやデンマークなど、北欧の取り組みで、いいなぁ、と思うものはいっぱいあった。日本が参考に出来そうだなぁ、という取り組み、こうなったらいいなか、というシステム、いっぱいあった。その昔は、それを何とか紹介しよう、と微力ながら一生懸命になった時期もあった。しかし、日本で北欧の話をして、必ず返ってくるのは、「でも北欧は税金が高いでしょ」「北欧は北欧だから」「日本のシステムではそれは無理・・・」といったネガティブな意見。なぜ、いい取り組みをそのまま実現しなくても、そこから学んだり、という発想にならないのだろう、と不思議に感じていた。その中で、少しずつ気づき始めたのが、先述の「単なる輸入はまったく意味をなさない」という事実。そこから、システムや組織を単に「輸入」するのではなく、そのシステムや組織、結果がどのような「プロセス(=過程)」を経て、今のような形になったのか、について明らかにしていくなかで、日本でも使えるヒントが見つかるのでは、と思うようになってきたのだ。

これはスウェーデン帰国後、予感から確信に変わっていった。2004年秋からの自立支援法を巡る大騒動。この間、この問題について最初からずっと追いかけていく中で、出された資料なり制度案なり法律なり、というアウトプットやシステムを読んでいても、何も見えてこない、と思いはじめた。本格始動するまで1ヶ月をきった現在でも、退院支援施設の問題や重度包括支援の問題に限らず、自立支援法には先が読めない不透明な部分が多い。出されてくる資料も、そのたびに色々変わっていく。毎月のように出される何百枚の資料を、単に追いかけていたって、何だか徒労感ばかりで、そこから展望なりヴィジョンは見えてこない。こうやって資料を「結果」として後追いしていても、厚労省自身が右往左往している中で、さっぱり物事はクリアにならない。自立支援法オタクになったところで、それは実にむなしい限りだ。では、それに変わって何が必要なのだろう・・・そんな思いの中で、現状がむなしいのなら、それ以外のものを探す「プロセス」こそ、大切なのではないか、と感じ始めていたのだ。

日本を出る直前まで、そしてオランダにいる間も、そうやって現在進行形のいくつかの「プロセス」に関わり続けていた僕にとって、オランダで体感した「プロセス」は日本で取り組んできたことを改めて別の角度から整理し直すことにつながっていた。こういうプロセスがあり得るのか、とか、僕のこのプロセスのあそこの部分はよくなかった、とか。5日間、全く日本的なものからスコーンと離れて、青空の下、ハードスケジュールと、時にはお昼の、時には夜までカフェでビール片手にLFBの皆さんと議論を続けながら、笑いながら、少しずつその過程を楽しむ中で、雪だるまのように、徐々に自分の直感が思いや意見のようなものに変わり続けてきた。それを、現地でぶつけながら、ちょっとずつその雪だるまを大きくしていく中で、5日間、みっちりオランダでのプロセスを感じ取っていったのである。それが、支援者のロールにアムステルダムの空港近くのホテルに送ってもらう車の中でも続き、その中ですごく大切な話も展開され、雪だるまが十分に大きくなったところで、「じゃあね」とハグをして、お別れしたのである。なので、虚脱感も一塩、なのだ。

でも、この虚脱感は、決して悪いものではない。むしろ、充実感のある虚脱感、とでも言おうか。出張中は出来る限り日本の現状から自由になっていたい、と思っているが、日本からはどんどんこの間の退院支援施設についての取り組みの報告など、いろんな結果が送られてくる。その結果をちゃんとふまえながら、も、僕はやはり、そうではない可能性に向けて、プロセスをとぼとぼ踏み続けたい、と感じている。今晩は、ホテル近くで久々にジャンクフードかチャイニーズでも食べ、適度に喉も潤し、じっくり風呂にもつかって、明日からの英気を養おう。そして、明日から始まるスウェーデンのプロセスを楽しもう、と思っている。どうころんだって、24日からは、日本で様々なプロセスに何らかの形で関わるのだ。今は、少し、この虚脱感、というか、様々なものから自由になっているこの状態を楽しんでみたい。そう感じているオランダの夕べであった。

初秋のオランダより

 

今、現地時間の木曜早朝。
初めてホテルでぐっすり寝たので、気持ちよく目覚める。とにかくここ数日、めちゃくちゃハードなスケジュールだった。

フランクフルトで乗り換え、アムステルダムにたどり着いたのが、現地時間の午後6時過ぎ。時差は日本と7時間だから、既に日本では深夜を迎えている時刻だ。日曜の晩は、日付変更線をすぎるころまで準備をしていて、その後朝4時!のバスに乗るために、3時起き。バスの中でも、飛行機でも仮眠をとったのだが、一方でスウェーデンでインタビューをする際の質問状もできてない。なので、ルフトハンザで出された美味しいドイツビールもほどほどに、11時間のフライトの後半5時間ほどは、結構まじめに「予習」の時間に当ててしまった。おかげさまで、ある程度英語も書けたのだが、体は結構フラフラ。そんな中で、オランダに上陸したのである。

で、スキポール空港まで迎えにきてくださったロール氏と久しぶりの再会。今日はホテルまで送ってもらったら、すぐに眠り込もうと思っていたのに、彼の口から出たのは、「ホテルに送る前に、ちょうどコーチングに出かけるから、着いてこないか?」という提案。そう、今回の調査の最大の目的は、障害者のSelf Advocacyをコーチングしている、というオランダやスウェーデンの支援者達にくっついて、いったいそれが何を意味し、どんな権利擁護や本人活動の支援が行われているのか、をじっくりみてみよう、というのが最大の調査目的である。なので、こうやって初日から、その現場への同行のお誘いは、願ってもないチャンス。ちょっとくたびれていても、僕は助手席に乗っていればいいだけ、なので、喜んで同行する。久しぶりに使う英語で、かつ眠い頭なので、なかなか言語障害が激しいが、そうも言ってはいられない。とにかくしゃべりまくりながら、車で走ること1時間半。途中で彼の助手を務めるヤニカも拾って、現場に到着。

現場であるグループホームでは、ロール達の到着を参加者が通りに出て待っていた。4人の参加者と私たちは、参加者の一人の居室に集まる。夕方の涼しい風が、牧草と牛のかぐわしい空気をはこんでくる。酪農王国にやってきたことを鼻で感じながら、目の前で行われているオランダ語でのやりとりを、ぼんやりと眺めている。知的障害を持つ皆さんが、思い思いに色々話を進めていく。コーチ役のロール氏や、軽い知的障害を持ちながらロールの仕事の助手として働いているヤニカは、聞き役であり、餅つきの返し手のように、その場の話が引き立つような、ガイド役をしている印象。中には話をしていて感極まって泣き出す人が出てきたら。ヤニカが優しく外に連れ出して、お庭で落ち着くまで一緒にいたり、といろんな光景が展開していく。昼間はみんな仕事に出かけているから、こういう話は夕方にすることが多い、とロールから行きの車で聞かされていたが、実際にこの目で見ると、なるほど、障害を持つ人々のミニ当事者会の司会進行役をしているのかな、という感じであった。

夜7時から8時半まで続いたセッションの後、そこから1時間半書けて北東部のWolvegaという町まで車でぶっ飛ばす。オランダは一番高い山でも標高300メートル、全体がほとんどゼロメートル地帯なので、一般道やフリーウェイも100キロ以上でみんな走っている。こちらは徹夜状態なのだが、目の前で先ほど行われた光景についていろんな質問がわき出して、いっぱい質問を彼にぶつけていた。その中で、印象的だったのは、「先ほどの参加者達は、最初全然話を自分からしなかった」とのこと。ヨーロッパの当事者達は、自己主張の国だから最初から話をガンガンしていたのか、勝手に思っていた僕にとっては、意外だった。「今は8回のセッションの最終局面だが、最初は何をしゃべっていいのかみんなわからず、とまどっていた」という。それが、ロールやヤニカの励ましの中で、自分達の正直な思いや願い、不安やうれしさなど、いろんなことを率直に話してもよい場なんだ、と気づくなかで、みんなが積極的に自分から話をしてくるようになった、という。初日からコーチングの実際を垣間見て、眠さより興味深さが打ち勝つ体験だった。

で、ホテルに着いたら、現地でお世話になる支援者のリッチェもバーで待ってくれていた。ということは、ここから再会の飲み会。彼ら彼女らが日本にきたときも、よく飲む面々だなぁ、と思っていたが、彼らの本拠地では勢いもます。こっちも濃厚な生ビールを注がれると、気分はなんだか向かい酒状態。真夜中でくらくらしながら、調査初日の濃い夜はどっぷりとくれていくのであった。

成田より

 

成田空港で出発前に一仕事。
昨日、インターネットバンキングで振り込みをしておこう、と思ったのに、日曜日の夜9時から翌朝7時まではメンテナンスのため、利用できない、という表示。ギリギリになる前にちゃんとやっておけばいいのだが、当然そういうことを泥縄的にやっているタケバタなので、あたふたするばかり。しかも、昨日の甲府は残暑がとんでもなく厳しく、エアコンなしで荷造りしていたら、軽くダウンしてしまった。なんだかなぁ、である。

でも、まあ世の中便利なもので、パソコンを空港のLANにつないで500円ほど払えば、こうして空港から自分のパソコンでネットバンキングにつなげる。さすがに誰でも使えるパソコンでやるのはあまりにも危険なので、この措置をとったが、メールするだけなら10分100円でできる。おかげさんで、ギリギリ振り込みの積み残しはなし、で済ますことはできた。

だが、結局どたばたしていて、肝心の仕事面で積み残しはいくつかある。滞在先でインタビューする相手への質問状を事前に送る、と言ったのだが、昨日全く頭が働かなかったので、これは機内に積み残し。それ以外にも、レジュメに赤を入れるだとか、とある教科書原稿の別の人の担当分の骨組みを考えるだとか、なんだか積み残しはあるにはある。でも、まあとにかく出かけてしまって、あとは現地で考えよう、と楽天的。

あと、ネットと言えば、今回はチケットそのものをルフトハンザのHPから買ってみた。電子チケットだそうで、空港でチケットを受け取るまで、半券も引換券も何もない。今まで某格安旅行会社で買うことが多かったので、その場合は半券なりケースなりをもらっていたので、スマートはスマートなのだが、空港に着くまで「本当に買えているのか?」と不安だった。そうはいっても先月末にきっちり22万円ほど引き落とされているので、大丈夫だと思いつつ、新しい成田の第一ターミナルへ。確かにチケットはとれていた。ほっ。しかし、22万円という金額は一見高そうだが、実はその某格安旅行会社でも、同じくらいの値段の見積もりがでていたのだ。その理由はたぶん、イエテボリ、というメジャーではない空港を使うから。だから、KLMだろうが、SASだろうが、ルフトハンザだろうが、この二都市を訪れる便で見積もりをとれば、結構な値段となる。KLMは昔、荷物オーバーで5万円ほど取られたいやな記憶があり、二度と乗りたくない、とすると・・・とルフトハンザのHPで正規チケットの40日前割引で、先述の格安旅行会社と同じような値段のチケットを見つけた。で、今回生まれてはじめて、ドイツ上陸(空港だけだけど・・・)なのである。あ、ドイツと言えば、現地在住のMさんにフランクフルト空港のおすすめを聞けばよかった。ま、今日と16日のイエテボリへの移動時に2時間ほどうろつけるので、ソーセージでも食べてみようかしらん。

仕事の書類も積んではいるけど、きっとドイツのビールにスパークリングワインなんて飲んでいたら、あっという間にフランクフルトまで行くんだろうなぁ、と半ばあきらめモード。少し夏の前半、根詰めて働きすぎたので、ま、ちとゆるむのもよしとしよう。というわけで、今日から出かけてきます。次は、つながったら、オランダからお届けします。では、では。

出かけてきます

 

あと半日もすると、海外に向けて旅立ちます。
今回は二週間の予定で、オランダ、スウェーデンで、障害者のセルフアドボカシー団体に取材にいくつもり。国連では障害者の権利条約が出来た局面ですが、どうも日本人にとって、「権利」を「主張する」ということには、あまり馴染みがないこと。なので、こういう権利主張がごく当然に出来ているヨーロッパの国々で、実情を少しちゃんと見てこよう、という魂胆です。

ネットが繋がれば、現地から報告はする予定、ですが、24日の帰国まで、連絡が遅くなった方はゴメンなさい、です。明日の朝、9時50分のルフトハンザに乗るため、甲府4時!発のバスに乗り込みます。なので、もう寝ます。ちょっと煮詰まった頭がリフレッシュ出来ればいいのですが・・・。では、行ってきます。

研究者の立ち位置

 

昨日届いた学会誌を読んでいたら、久しぶりに「そうそう」と思う記事に出会った。

「いまの障害者福祉の法制度を単に紹介説明するだけではなく、それを批判的に検討し、課題はなにかということを教育の中で学生に伝え、あるいは研究の中で生かしていくというスタイルが国家資格制度の下でわれわれのなかに失われてきているのではないか、と思います。制度を単に無批判的に実施するワーカーをつくるのではなくて、実践しながらもそれを改善する問題提起を実証的に行っていけるようなソーシャルワーカーを育てようとするのであれば、もっとテキストの段階からも考えなければいけないという感じももちます。そのためにも、国家試験にも法制度の課題、あるいは国際比較の中での日本の位置なども出題するなど、しっかりした課題意識を持つ社会福祉士が生まれるような努力が必要です。今日は試験委員をされている先生方もたくさん来ておられると思いますので、ぜひお考えいただきたいと思います。」(佐藤久夫「障害者自立支援法制定過程で政策研究はどう関与したか」『社会福祉学』47(2)、50

佐藤先生の、自身も含めた研究者への厳しい自戒は、大変な説得力がある。

今回、自立支援法に至る流れの中で、確かに当事者団体や一部支援者団体の動きはあったが、大きな支援者団体(○○士会など)や社会福祉学会などの学会は、動きがほとんどないか、あっても後手後手の展開であった。現場を支える、日々のことで精一杯、あるいは次々と押し寄せてくる資料を追いかけるだけで精一杯、というのも本音かも知れない。でも、そんな中でも情報にキャッチアップして、反論なり対案なりを出してくるのは、支援者や学会ではなく、当事者団体の側であった。たしかに研究者は軽はずみにモノを言うのではなく時間をかけて理論を熟成させていく役割かも知れないが、でも、大変な激変期に、変わりゆく制度にもの申す研究者が少なすぎたような気もしている。そして、その背景が、単に時間不足だけでなく、佐藤先生の指摘するように、グランドデザイン案や法案という新たな法や制度に対する批判的検討を行う、という営みが、「国家資格制度の下でわれわれのなかに失われてきている」ゆえのダンマリだとしたら・・・と勘ぐりたくもなる。

ひよっこ研究者として、大阪の現場から、いろんな対案を発信するお手伝いをしてきた僕としては、グランドデザイン案以後の展開に、ほとんどついていけていないかのような研究者達は、いったい何をしているのだろう、といぶかしいものを感じた。僕ごときひよっこが、自立支援法の講演にあちこち呼ばれる事自体、先輩方はどうされたのか、という疑問にもなった。どうでもいい話かもしれないが、全国の福祉系大学の大半に、「障害者福祉論」を教える教員はいる。なのに、この間動いている研究者がどれだけいるのだろう。もちろん、研究者の役割は、即時的にレスポンスすることだけではない。今は流れを読んで、大方定まったあとにコツコツと実証研究をされる方もいる。それはよい。だが、それでも大転換機に、多くの障害者福祉論を語る人間がいるはずなのに、どうしてあまり研究者からの声が聞こえてこないのか。もしかして、その方々が「制度を単に無批判的に実施するワーカーをつくる」ことにのみ、視野が狭まっているとしたら・・・。

佐藤先生自身、この文章の冒頭で、次のように後悔の念を述べている。

「私は、このシンポジウムのタイトルにまともに答えることができません。つまり、私をはじめとする障害者福祉政策の研究者が、戦後日本の障害者福祉の最大の改正・転換である障害者自立支援法の制定過程に、ほとんどまったくといっていいほど影響を与えることができなかった挫折感から立ち直れていません。」(同上、49)

佐藤先生のように「挫折感」を持っている研究者がどれほどいるか? 単に制度が変わった、とキャッチアップすることにのみ必死の研究者は少なくないか? 以前から何度も書いているが、あるものごとに追いかけるのに必死な状態は、武道でいう「居着き」の状態である。その状態では、相手の出方をうかがうことに必死で、追いかけるのに必死で、結局いつまで経っても相手の動きの先手を打つことは出来ない。対案なんかもってのほか、である。こういう「居着き」を超えるためには、いかに批判的に現状を分析し、「法制度の課題、あるいは国際比較の中での日本の位置など」を横目で見ながら、どの部分から崩せるか、責めていけるか、ポイントなのか、が問われている。そして、そういうことが出来る位置にこそ、研究者はいるのではないだろうか?

僕自身は、微力ながら、なるべく佐藤先生が指摘した「法制度の課題、あるいは国際比較の中での日本の位置など」を見続けて、真正面からこの「課題意識」は持ち続けてきたつもりだ。明後日から少し日本を離れるが、これも日本の今後進み行く「位地」を、他から眺め直して、少し頭を冷やして考えてみよう、という魂胆である。じっくり時間のかかる理論研究も、もちろん大切だし、少しずつ僕も勉強中だ。だがその一方で、目の前で動きつつある、自立支援法や地域移行の問題については、しつこく関わり続けなければ、と佐藤先生から檄をいただいたような、そんな報告であった。

ありがたい、には訳がある

 

ようやく頭が渡航モードに切り替わりつつある。

前回書いた夏風邪は、日曜に寝込んで回復の兆しを見せたが、その後月曜は丸一日東京出張でぶり返し、火曜水曜と出かけた長野では、甲府が34度の時に10度下回っていたものだから、半袖シャツしか持っていなかった阿呆の身体にこたえること、こたえること。水曜日に訪れた師匠のご自宅など、19度しかなく、セーターを借りも少し涼しいほど。そうやって騙しだまし、というより薄氷を踏む思いで、毎日汗ぐっしょりになりながらいると、まだ少し鼻づまり気味だけれど、ほぼ治ったようだ。

ついでに言うと、先週の金曜日、ごみの回収日だったのだけれど、清掃車の音を聞き、雨の中走ってゴミを捨てに出かけようとしたら、マンション入り口の鉄の排水溝で足を滑らせて、手と肘の皮がズルむけに。これも1週間たって、なんとかバンドエイドなしでも血が出ないように、快復してきた。そう思うと、この1週間は結構さんざんだったような気がする。

その間でも、竜巻のように様々な展開が進んでいる。長野でも東京でも、この半年の間に色々な企画が進行するらしい。風邪気味の頭であんまり集中出来てなかったのだが、それでもどうやら二つの企画とも大変そうだ、ということだけはわかる。しかも、足を抜くことも無理そうだし・・・さらには長野の企画のヘッドであるお姉様は携帯電話でこのブログをチェックされているとか・・・あな、恐ろしや。お姉様もひどい風邪だったけど、お加減はいかがでしょうか? 私は、夏休み前半に気張って(前倒しして)論文を書いておいてよかったです。どうやら、後半はそんな余裕もなさそうでございますねぇ。とほほ。

で、そろそろ渡航準備モード。
先週、オランダチームから、「音沙汰ないけど、ほんまに9月に来るつもりか? ホテルは予約した? とりあえずこんな感じでスケジュール組んだけど、これでいい?」とありがたいメールが来る。ここしばらくドタバタしていて、電話せんとまずいよなぁ、と思っていた頃だったので、何よりありがたい。そう言えば、ジャーナリストでもある師匠から、「アポイントメントさえ取れたら取材の半分は成功したようなもの」と言われたことがある。ま、師匠の場合、新聞記者には会いたくない、と思っている人びとにどうアプローチするか、で日々苦労されておられた。一方、研究者はジャーナリストほど対象と緊張関係を持っている訳ではないが、でもフィールド調査では事情は似ている。こちらは調査目的でお逢いしたくとも、向こうは別に会いたくなんかない、会って何の得になるのだ、と思われている可能性も高い。

なので、今回は三年前にお世話になったイエテボリのアンデシュや、昨年日本でお供したオランダのロールといった、「お顔馴染み」の相手の現場に飛び込むので、メールや電話だけでアポを入れていただき、ずいぶん助かる。去年からアメリカ調査も始めているが、最初のアメリカ調査など、日本からいきなり見ず知らずの現場にアポを入れまくって、ずいぶんと苦労した思い出もある。それに比べたら、向こうがある程度コーディネーションしてくださることがどれほど文字通り「有り難い」ことなのか、に思いをはせる。当然、この二つの現場とも、先輩研究者であるKさんが文字通り「開拓」し、親交を深められたからこそ、私がポコッと訪れても歓迎して頂けるまでになったのだ。そういう意味では、プー太郎時代に、「タケバタさんも少しは世界を拡げてみては」と、この分野へのご縁そのものを授けてくださった大先輩Kさんとの出会いそのものも「有り難く」、大感謝、なのである。Kさん、いつも本当にありがとうございます。

こう書くと、何だか大げさな、と思われる方もいるかもしれない。でも、例えば北欧に調査に行ったおり、現地の通訳の方からよくこんなことを聞かされる。「日本から来る人で、図々しい人も結構いる。○○に関係する調査をしたいのですが、それらしい現場の連絡先をいくつか教えてください。自分でアポをとって英語でやりますから、教えてくださるだけで結構です。」 一見、礼儀正しそうに見えなくもないが、実はメチャクチャ失礼なのである。だって、通訳の方も、苦労して様々な現場の担当者と時間をかけて人間関係を築き上げておられるのである。単に現場で言葉を翻訳するだけではない。その人の調査にはどういう現場が適切か、あの人だったらこの研究者の要望にこたえるためのネットワークを持っているのでは・・・というコーディネーション作業を担ってくださる通訳の方も少なくない。そういう方々に対して、苦労の末開拓された現場情報だけをそっくり教えろ、という言い方は、筋違いであり、何と慇懃無礼なことか。そして、こういう失礼な福祉系研究者が北欧には多い、とも聞いていたので、自分は襟元正さなければ、とことある毎に思うのである。大先輩Kさんの開拓してくださった現場に関わらせて頂けることに、感謝してもし尽くすことは出来ない。

ということは、国内外を問わず、調査や研究という営みも、ひとえにご縁というか、人と人のつながり、パスであることには、全く代わりないのである。と、こうまとめると平凡で古色蒼然とした感じだが、でも、この当たり前のことを、どれだけ誠実に出来るか、で、その人の価値が試されているような気がする。他人から託して頂いたパスは、誠実に運んで、次代にパスをつなげていく。なので、国内のパスも、ちゃんとやりますよ、Mさん。「今日も携帯画面では長すぎて読めない」とお姉さまからお叱りを受ける長文だなぁ、と思いつつ、パスつながりで言えば、あと一本残っている出国前の「最後の宿題」をさっさと片づけなければ。

しゃべり続けて8時間

 

昨晩、家に帰ってみたら、喉がガンガンに腫れていた。そして今日は一日寝てすごしていた。

昨日は山梨の作業療法士の皆さんへの講演会だったのだが、始まる前から、何だか少し喉の調子が変だった。龍角散のど飴をなめながら、これ以上ひどくならないように、と思いながら現場入り。本来一番喉を保護するためには、しゃべらないのが一番だが、講演者がしゃべらず帰るわけにもいかない。しかも、講演会が始まると、多くの皆さんがすごく真剣な眼差しで聞いてくださっている。こういう本気の眼差しに出会うと、俄然ボルテージが上がるのがタケバタの悪い癖。気がついたら超早口で、予定時間を20分オーバーしてしゃべりまくっていた。

で、この時点でも相当喉に違和感があったのだが、さらに追い打ちだったのが、懇親会。何故って、この懇親会がすごくオモロかったのである。最初はおきまりの真ん中に座らされて照れていたのだが、「懇親会などの席で積極的に色んな人とつながり、視野や世界を拡げることが大切」と講演中に焚きつけたら、「先生のおかげで飲み会に飛び入り参加の人も出てきました」とのこと。こりゃあ、火をつけてしまった手前、中途半端では済まされない。こうなったら、トコトン色んな人の話を聞いてみよう、と、喉の事は頭の隅に追いやって、議論モードに切り替える。「OTっていったい何?」「ソーシャルワーカーと何が違うの?」「専門性ってなんなの?」「仕事をされていて困っている点は?」などと、勝手に懇親会を座談会的場に変えてしまい、若手のOTの皆さんにどんどんぶつけていく。講演の際、OTの仕事って楽しいですか、と聞いたら、ほぼ全員が手を上げてくださっていただけあって、その仕事にかける皆さんの想いや情熱は大きい。出てくる話に頷きながら、僕も色々勉強になった。

その際、元気な関西人OTが僕に議論をふっかけてくる。「じゃあ、タケバタさんからみて、OTとソーシャルワーカーの違いは何?」 聞かれてみて、ふと口をついて出たのは、次の通り。「ソーシャルワーカーが人と人、人と機関などを『つなぐ』人だとすると、OTって、様々な可能性を『ひきだす』人なんじゃないのかな」 職場は違えど、皆さんこの「引き出す」ことに誇りをもって、対象者にも接しておられる。ただ、日々の業務の忙しさもあって、患者さんの「引き出す」ことに必死になっても、自身の「引き出し」を拡げる機会が限定されている、ということも、今回皆さんとお話ししていて、よくわかった。また、それはOTの皆さん自身が実感していて、引き出しを拡げるチャンスがほしい、と願っておられることもよくわかった。そういう中で、おせっかいタケバタは、あれやこれやと、助言のような言いたい放題をいっていた。だが、志ある方々の集まりでは、私の暴言も暖かく受け止めて頂いたようで、5時半から10時くらいまで、4時間半、ノンストップでしゃべり続けた。僕自身、いろんなエネルギーを頂けたような気がしている。

で、これから遠くのご実家まで帰省されるWさんに我が家まで送って頂いて、帰ってきたのが10時半過ぎ。気がつけば、喉はがらがらで、メチャクチャ痛い。とにかく何もする気力もなく、テレビをぼんやり見ていたら、NHK教育の土曜フォーラムに釘付けに。飯田市と青森市での中心部活性化の為の取り組みを取り上げたこの番組、実際にその地域を動かしている中心人物の語りを聞きながら、街とトコトン付き合う、という姿勢がすごく面白かった。ちなみに「現場とトコトン付き合う」というのは、「現場主義の知的生産法」「現場主義の人材育成法」(ともにちくま新書)などを書いている一橋大学の関満博氏の名言。僕も山梨に来て一年半が立ち、色んな現場で「お顔が見える関係」が少しずつ出てきた。その中で、昨日のOTの皆さんだけでなく、志ある現場の皆さんに、結構出会い始めている。その中で、どんな形で僕自身が「トコトン付き合」えるのだろうか、そんなことを考えながら、ガラガラ喉で、その日の飲み会を思い出しながら、テレビを眺めていたのであった。

様々な「途上」

 

昨日買ったノートパソコンで初投稿してみている。

ようやくここまでこぎ着けたが、昨日からネットワーク関連の接続で右往左往し、今朝はコールセンターのお世話になった。ひとつひとつの問題を丹念に尋ね、目の前にはないはずの問題を、ユーザーとのやりとりの中から見事に紐解いていくコールセンターのプロはすごい。言葉はばか丁寧だが要領を得ない担当者もいる一方、今日対応してくれたバッファローの担当者は、クールかつ適切に紐解いてくれ、40分くらいかかったが、こんがらがった糸をほどいてみせ、無事に問題を解決してくださった。ありがたい限り。

このコールセンター担当者の力量如何で変わる、というのは、ソーシャルワーカーだって同じことがいえる。このワーカーの「力量」問題は、性格問題であり簡単に変えられない問題なのか、あるいは現任者教育に基づいてある程度可変的(スキルアップ可能)なものなのか、は議論の分かれるところなのだが、僕自身は後者に期待をかけ、今年から始まった科研調査もこのテーマで追いかけるつもりでいる。ただこの問題はまだ勉強不足なので、もう少しストックができたら、少しここでも考察したい。

さて、勉強不足、といえば、大先輩のとみたさんから、前回のブログにコメントをいただいた。とみたさんの含蓄深いコメントは直接お読み頂くとして、ひとことでいえば、「bataくん,勉強不足ですね」という先輩のご指摘は、本当にありがたい限り。その昔、母親に小言を言われるたびに、「うるさいなぁ」と反論していた僕に、ある日母が次のように語ったことを思い出す。「ひろし、大人になったらこうやって叱ってくれる人はいなくなるのだから、叱ってもらえるうちが花や、と思ってありがたく受け取らないと」。これはまさにその通りで、大人になると、しかも大学の教員なんていう「肩書き」がついてしまうと、なかなか指摘やコメントを受ける機会が減ってしまう。このスルメブログのコメントも、最近はバイアグラだのドラッグだのの海外からの攻撃コメントばかりで、いつも駆除に追われて、もうコメント欄を閉鎖しようかな、と思いかけていたので、先輩からのコメントはひたすらうれしい。しかもその内容が、僕の勉強不足を、叱るわけではなく、やんわりと諭してくださるのだから、なんともありがたい限りだ。11日からの海外出張の際にも、先輩に指摘された問題に関連して、何冊か鞄に入れていこう、と思う。

そう、あと10日で出張なのである。
8月の末になって、思い出したが、すっかり迫っている。
今回は先に書いた科研の調査で、オランダとスウェーデンの知的障害当事者のセルフ・アドボカシーグループに取材に出かけてくる。スウェーデンでは二年前にお世話になったグルンデン(このことは一部まとめている)という当事者会に、オランダではLFBという当事者会にお世話になる。どちらも昨年日本に来られ、セルフ・アドボカシーについて大変示唆に富む話をされていた。今、この二つのグループが中心になって、コーチングのアイデアを用いながら、当事者や支援者の価値の変容や新しい支援のあり方についての実践が積み重ねられている。支援者の価値の変容につながる現任者教育が今回の研究の柱なので、是非ともその考えをじっくり学びたい、と思い、オランダとスウェーデンに一週間づつ、滞在する予定。先に先輩に指摘された問題も、このセルフ・アドボカシーの問題も、まさに勉強の途上、であるので、何とか必死になってくらいつきたいな、というのが、情けないけど実態である。

で、勉強の途上、といえば、今日は山梨の作業療法士の皆さんの前で、これから講演することになっている。タイトルは「誰のための、何の『自立』?」という恐ろしいテーマ。これも勉強の途上なのだけれど、じっくりしつこく追いかけていきたいテーマなので、敢えてこのテーマで少しお話しさせて頂くことにした。その関連で、これも勉強の途上である作業療法関連の文献を読み返す。その中で、来週からの出張にも関連する、とある文章に出会う。

「スウェーデン独特の平等精神はあらゆるところに浸透している。平等への考え方や、社会システムが根本的に違うのだ。男女の性別差別がない平等ということだけではなく、誰にも依存しないで、すべての人が自立した上での平等なのである。それは、幼いころからの家庭教育、母親も父親も共働きで、家庭内のことは共同で行っていくという歴史的な環境が作り上げたものだろう。
 手の空いている者が掃除をし、料理をし、子どもに本を読んで寝かしつける。学校では、家庭科や木工技術も男女の差別がなく、みんなが裁縫をし、料理をし、大工仕事をしている。ささいなことまでその意識が浸透しているスウェーデンでは、互いに貸し借りのない、依存しない自立を基本として、互いの位置を同等化しているといえる。だからこそ、議論する場合も上から下へと一方的な縦の関係ではなく、相互信頼の下に白熱した議論が繰り広げられる。それをもっとも象徴するのが、互いの名前を呼ぶときに、スウェーデンでは子どもから老人までファミリーネームでなくファーストネームを呼び合うことだろう。まだ若い女医のカーリンも、脳神経外科の偉い医者も、みんなファーストネームで呼ばれて親しまれている。」
(河本佳子著「スウェーデンの作業療法士」新評論、75-76

スウェーデン在住の著者が日本で講演会をする、と聞き、樟葉のある病院の会議室(ローカルだなぁ)まで足を運んだのは、確か4年ほど前の院生時代のこと。スウェーデンで暮らした際は読むことがなかったのだが、今こうして講演前の「にわか勉強」で読み直して、目から鱗、の箇所がなんと多いことか。実際に現地に住んでみて感じた、でも日本語で表現しにくい、しかし根本的な価値観の違いのようなものを、スウェーデンに住んで長い著者がスパッと書いている。長く引用したのは、その部分をお伝えしたくって、長めの引用だったのだ。

先生と呼ばないでファーストネームで呼び合う関係、その背景にある、「互いに貸し借りのない、依存しない自立を基本として、互いの位置を同等化している」という「スウェーデン独特の平等精神」。これは支援という局面でも根深い差異を、日本とスウェーデンの間に与えているような気がしてならない。両国間で福祉はどっちが上、とかいう議論でない。ノーマライゼーションにしても、セルフ・アドボカシーにしても、作業療法にしても、その概念の背景に、この「同等化」や「平等精神」があって、そこから組み立てられたツールとして用いられるような気がしてならない。つまり、これらの考えは、モデルではなく、その背景にある哲学や人間観とセットになっているような気がしている。その一方、日本でノーマライゼーションやアドボカシーなどを語る際、肝心な人間観や哲学とは切り離された、ツールである技法として輸入されているような気がしてならない。それゆえに、日本の文化なり社会と切り離されたところで、これらのツールが「浮いている」ような気がしているのだ。

だからといって、スウェーデンの人間観や価値観万歳、といっているのではない。河本さんの指摘を借りれば、日本では「互いに貸し借り」をするなかで、「依存」しあう「自立を基本として、互いの位置を」差別化しているのかもしれない。でもそれが果たして悪いのか、といわれると、わからない。以前にも書いたが、日本では下からのノーマライゼーションというのが、現場で息づいている。それを支えているのが、「おたがいさん」という依存関係、のような気もしている。それは、山梨に暮らし始めて、すごく感じている。これを全否定するのではなく、日本らしさとして前提にしながら、一方で今なお起きている障害者への権利剥奪の現状と対抗する哲学なり人間観なり、それに基づいた政策をどう練り上げていけばいいのか。今度の国連総会で批准される予定の障害者権利条約にそって、国内法レベルの改正が議論される際、日本人になじみにくい「権利」だったり「差別禁止」という法理論をどう組み立てていくべきか。法学部に所属しながらその辺の勉強も「途上」だったりするタケバタにとって、まさに課題は山積である。ただ、今度の出張では、その辺を意識して、表面で見える動きの背後まで追いかけられたら、と思っている。

と書いていたら、あらもう12時。13時半には現地入りしなければならないので、今日も「途上」で終わってしまった。

ある意味”まっとう”すぎる、”恐ろしい”本

 

いやはや、恐ろしい本を読んでしまった。

「支配的なグループに属する人びとが、従属的なグループの人びとの家庭への立ち入りを許され、プライベートないとなみを観察し、自分たちが見たことを記録し、そして、自分たちの観察を他のミドルクラスの援助者のネットワークと共有した。これまでに見てきた事例と同じく、お定まりの主体/客体の二分法が成立し、ソーシャルワーカーはまったくそれに安んじることができる。支配的なグループのメンバーは能動的であり、従属的なグループのメンバーは受動的である。一方が見、他方は見られる。一方が書き、他方は叙述の対象になる。一方が知識と指示を調達し、他方は感謝しながら知識を吸収し、指示に従う。」(レスリー・マーゴリン著「ソーシャルワークの社会的構築-優しさの名のもとに」明石書店p398)

何が恐ろしいって、マーゴリン氏の言っていることは、残念ながら!?的はずれではない。というか、ソーシャルワーカーが「優しさの名のもとに」行ってきた、権力支配の問題を、実に赤裸々にしてくれているのである。

ソーシャルワーカーの問題を追いかけながら、不勉強にもこの本は「積ん読」状態だったのだが、今週少し余裕が出来てやっと読み始め、一気に読んでしまった。そして、最近読んだ本で一番赤線を引き、一番ドッグイヤーのページが多くなってしまった。自身も17年間ソーシャルワーカーをしていた著者が、リッチモンドの時代から現代までの山ほどの文献を系譜学的に分析し、技法やスタンスの変化の背後に、ずっと変わらないソーシャルワーカーの自己正当化と、クライエントを「誘惑しながら同時に拷問しなければならない」という「二つの矛盾する命令に同時に従わなければならない」(同上p407)という固有の問題性をあぶり出しているのである。「ソーシャルワーカーもまた犠牲者である」(同上p407)という視点を持ちながらも、これでもか、と年代を超えたソーシャルワーカーの根本的問題を次々と突きつけてくる著者の文体は、読み進めるうちに恐ろしいほどの迫力である。いくつか、キメぜりふをご紹介しよう。

「ソーシャルワーカーの陶酔によって、平等ではなく権力が作動しているという事実が覆い隠されている」(同上p384)

筆者はこの本の中で、「困っている人を助けたい」というワーカーの気持ちを否定しているのではない。そうではなくて、そのような気持ちを持って働いているワーカーの「陶酔」が、即「平等」へと繋がっていない現実をしめしている。実際には、対等な友人として付き合うのではなく、当事者からは、措置権限やサービス支給決定権、退院支援の権限・・・を持つ「権力」者としてワーカーが映っている、という「権力」の「作動」の「事実が覆い隠されている」という問題を指摘している。善意で行っていることも、こちらとしては平等で対等に接しているつもりでも、被援助者からは構造的に「権力者」と映っている、というリアリティをあぶり出しているのである。さらには、こんな言及もしている。

「貧しい人の否定的な特色について積極的なソーシャルワークの言説は、既存の社会秩序を正当化した。そして、それは、ある人たちをクライエントにし、別の人たちをその審判者にすることに貢献している社会的な資源と機会の不平等な分配から注意を逸らすことを通じて達成されたのである。」(同上p239)

ソーシャルワーカーが社会問題の「解決」のために積極的に支援していると本人も信じて疑わないとしても、実は自らが行うその手法やアプローチが、「既存の社会秩序を正当化」し、その秩序の序列の内部に「クライエント」と「審判者」を序列化することに、図らずも貢献してしまっている。つまり、「社会的な資源と機会の不平等な分配」という社会問題から「注意を逸ら」して、問題をクライエント個人の問題に内面化、矮小化している、という点に、権力側に構造的に立ちうるソーシャルワーカーの根本的問題が潜んでいる、とマーゴリン氏は指摘するのである。この重大な指摘を書き写しながら、私はあるフレーズを思い出していた。

「日本では、『お伺いをたてる』という卑屈な役割関係を踏まなければ生きていきにくい医療との関係を呪う人もいれば、逆にその支配力に依存し保護される事を求め続ける人もいる」(山本深雪「『心の病』とノーマライゼーション」ノーマライゼーション研究1993年年報, p103

精神医療のユーザー側から、その構造的問題を指摘し続ける山本氏のこの発言は、ソーシャルワーカーとの間だって同じである。まさに、相手が権力を持つが故に、「卑屈な役割関係を踏まなければ生きていきにくい」のである。いくら医師やワーカー個人が善人であっても、「お伺いをたてる」という構造的非対称の下側から眺めた時、そこには「卑屈な役割関係」という権力関係があるのである。先ほどの話しを繰り返すと、この構造的非対称性という社会問題から「注意を逸ら」して、問題をクライエント個人の問題に内面化することは、まさに「社会秩序」の強化につながるのである。援助者が被援助者と「友人」、ないし「平等」であろうとするならば、既存の構造化された社会秩序が抱える「社会的な資源と機会の不平等な分配」こそ前景化して、自らの「権力」も含めて再吟味しなければならないのだ。

支援者の権力支配の問題は、そういう意味では大変恐ろしい。この権力問題に無自覚でかつ当事者に権力的支配を及ぼしているワーカーも確かにいる。一方、この問題に自覚的で、「自分が抱え込んだ矛盾を首尾よく永続的に抑圧する能力がない」(同上p407)がゆえに「バーンアウト」するワーカーもいる。さらには、この二つのアプローチを取らず、権力に対して自覚的になりながら、「社会的な資源と機会の不平等な分配」を前景化し、地域でのオルタナティブと新たな社会資源の構築を実体的に作り上げているワーカーもいる。僕も京都で117人のワーカーにインタビュー調査をしていて、この三者が年齢や性別、経験年数を超えて混在していることを実感している。今、考えはじめている支援者論を突き詰める際も、この権力支配の問題は、中心点に据えなければならない、そう感じている。

ちなみに、このマーゴリン氏の邦訳のタイトルにもなっている「社会的構築」に関連して、訳者の一人で日本における社会構築主義の第一人者でもある中河伸俊氏の作品に関する書評論文に、興味深い一文があったので、最後にこれも引用しておこう。

「『正義と悪の二分法』による道徳的な研究・評論・報道を感情的に後押しし自己正当化しているものこそ「社会問題は解決しなければならない」というエートスである。この自明性に覆われた感情的前提が、研究する者の自己言及性を低くし、言説の社会学的洗練度を低めていると考えられそうだ。これをいったんペンディングして、別の『社会問題の言語ゲーム』に参加すること。構築主義の共通主張はこのあたりにあるようだ。」(野村一夫著「紹介と書評 中河伸俊『社会問題の社会学――構築主義アプローチの新展開』」大原社会問題研究所雑誌第497号)

「正義と悪の二分法」とは、ここでも何度も書いている“I am right, you are wrong.”の二分法だ。その二分法について、「この自明性に覆われた感情的前提が、研究する者の自己言及性を低くし、言説の社会学的洗練度を低めている」と野村氏は指摘している。構築主義は「これをいったんペンディングして、別の『社会問題の言語ゲーム』に参加すること」という「共通主張」を持つ。「感情的前提」によって「自己言及制」や「言説の社会学的洗練度」が低下することは、指摘したい問題点を前景化するどころか、逆に肯定する論理にすり代わりかねない。マーゴリン氏も、ソーシャルワークに内在する、またバーンアウトが起こりうる矛盾をあぶり出したいからこそ、ソーシャルワークは善意に基づく、という「自明性に覆われた感情的前提」を「ペンディング」にして、議論を構築し直したのだ。こういう仕事に、見習うべき点は大変多いと感じた。