「神話」より大切な「いかにしてあるのか」

 

今、自分の中で、いろいろなものが組み替えられつつある時期のようだ。

いろんな着想を得て、様々な想いが頭の中を去来し、あるものがアイデアとして言語化いたるまでに昇華したり、また他のものは、ひらめき段階で消えていく。そういう「組み替え」の時期にあっては、なかなか一つの論にまとまらず、こうしてブログに書き留める間もなく、様々な思念が通り過ぎていく。すると、どう書いていいのか書きあぐねているうちに、何かを書き付ける間もなく、ブログを更新しない日々が続いてしまう。でも、とりあえずここしばらくの「頭の中での騒動」を収束させるための端緒を、パラパラ読んでいた本で見つけた。

「『いかにあるべきか』の前に、『いかにしてあるのか』を徹底して問う、というのが、社会学という学問のあり方だとするならば、現在の私たちは誰も『いかにあるべきか』を語りうるほどに、現在についての知識を蓄積していると私は考えていない。である以上、もうしばらくは『いかにしてあるのか』について問い続ける必要があるといえよう。社会的危機が様々な方面から指摘され、『べき論』の溢れる現在だからこそ。そうしたモラトリアムこそ必要とされているのではないか。」(鈴木謙介「カーニバル化する社会」講談社現代新書、p168)

「べき論」の前にこそ、「いかにしてあるのか」をもっと徹底的にあぶり出す。鈴木氏の語るこの指摘は、僕の抱える現場でも、すごく大切なのだろう、と思う。特に、福祉という「理念」が「行為」に結びつきやすい分野においては、「理念」と引きはがした「行為」とその結果(=「実態」)の方をあぶり出す、という仕事の重要性は、今だ持って大切だ。例えばこないだ書いたが、精神障害者の「権利剥奪の実態」をあぶり出すことは、精神障害者の「権利擁護のあるべき姿」を浮かび上がらせるためには、まず前もって必要になってくる。だが、こうした実態をあぶり出す、ということは、ともすれば現状告発に終始する可能性もある。実際にこの前の発表もそれで終わってしまった。そうではなくて、実態を整理した上で、それが「いかにしてあるのか」を、一つ審級を上げて論じることが大事なんだな、とようやく腑に落ちてきた。それが、理論とのおつきあいなんだなぁ、と。

鈴木氏を含め、同世代の研究者達のぴりっとした仕事を見ていると、「僕もがんばらな」と心から思う。20代の後半は、現場に通って、話を聞き続け、報告書にまとめることは多くても、理論との往復や論文という形での昇華をさせる機会は正直言って多くなかった。幾つかの理由があるのだが、一つは「いかにあるのか」を実感として把握することに精一杯だったことが大きいだろう。福祉現場、という、ある種世間から隔絶された「当事者と専門家で閉じた世界」を、外部者の僕が「体感」するためには、一定期間以上、ぶらぶら現場に通って文字通り「肌で感じる」期間が必要だった。それがないまま、何か書くことなど出来ない、と思っていた。

また、考察に関しても、今から思うと、「いかにしてあるのか」を「べき論」につなげるための手段としていて、つまりは「べき論」がまず先にあり、それに連結する形での「いかにあるのか」の析出になってはいなかったのか、という反省がある。現場レベルでは「いかにしてあるのか」をじっくりみようとしているのだが、それを文章として書く時、ついつい「べき論」に「先走り」してしまい、そこに都合のいいような形での現状分析になっていた、と思うのだ。特に価値指向性の高い福祉現場の話を書く際に、その現場で重んじられる価値とは異なる価値であっても、とにかく何らかの価値に繋げることを念頭に置いた現状分析をしていると、どうしてもバイアスがかかって、一側面からの分析以上の豊かなものが出てこなくなってしまうのだ。そういう意味での「価値中立」の分析が出来ていない、って、今思い出したのだけれど、数ヶ月間にこのブログ上でこんなふうに書いていたのだっけ。

「自分が属する日本社会が持つ、『入所施設・精神病院必要悪論』、という『神話』。これに対抗する為に議論したいのに、僕は『脱施設・脱精神病院』を『神話』として掲げて、『神話』の置き換えを求めているだけなのだ」

「べき論」は、結論がつかない分、「神話」と一致する可能性が非常に高い。だからこそ、議論の余地のない「神話」を産み出すのではなく、透徹な「いかにしてあるのか」分析が求められているのである。

その上で、書く時の「文体」についても、「べき論」をゴリゴリ振り回すのではなく、「いかにしてあるのか」をさらりと書いていく、軽やかさとわかりやすさが必要なのでは、と思っている。どうも「べき論」で進めると、イデオロギッシュで、かつステレオタイプな、いわば「肩の凝る」文体になってしまう。正直、そういう文体になっているものも、僕の中にもいくつか見られる。でも、本人でさえ書いていて「肩が凝る」のだから、況や読み手をや、である。もう少し、軽やかに、「いかにしてあるのか」を伝えるのに有用な限りに置いて感覚的な表現も含めて、思うことを率直に描写していくやり方に戻ったほうがいいのではないか、そう感じている。力を込めるべきなのは、「べき論」ではなく、現状描写が何を意味しているのか(=いかにしてあるのか)を抽象的に分析する、その時の語り口であった方が、より説得力が高いのだ。

なんだか、今日も言い訳のような文章でしょう? そう、自分の中でのわだかまりが、これでもたんとあるんです。とあるブログが「日記コンプレックス・セラピー」を標榜していたけれど、僕のブログも、ある種のセラピー的なものかもしれない。今日も他人のセラピーにおつきあいくださった読者の皆様、ありがとうございました。セラピーの成果あってか、もうちょっと肩肘張らない「いかにしてあるのか」論を、近い将来お届けできる、はず、です。気長にお待ちくださいませ。

 

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。