「善意」の軌道修正

 

「たいがいの人間は、自分が悪をなしているという自覚のもとに断固として行動できるほど、強くもなければ自律的でもない。善をなしているという主観のもとにおいてのみ、人間は相手の痛みに対しかぎりなく無感覚的に、無反省的になれるのである。」(小熊英二「単一民族神話の起源」新曜社p142-143)

「善をなしているという主観」というのは、時としてとんでもない方向に動く。障害者福祉の文脈に即して言えば、行政、専門家や家族や第三者が「よかろう」という「善意」を障害当事者に押しつける、というパターナリズム(=父権主義)は、障害者運動をしてきた人々が文字通り「身体を張って」拒否してきた考えである。このパターナリズムは、かわいそうな障害者達を何とかしてあげたい、という慈善や恩恵(=charity)に結びついている。そして、障害当事者がcharityではなく、障害者にもごく当たり前に生きる権利を保障してほしい、とrights-basedの訴えをしてきたのであり、スウェーデンでは40年も前から、障害者にも普通の人と同じような生活を送る権利を保障すべきである、というノーマライゼーションの原理が提唱されてきたのだった。(この点には以前のブログで少し触れたことがある)

だが、2006年でも、パターナリズムに基づく福祉施策がなくなった、とは思えない。例えばつい先日の5月11日には「退院支援施設」なる、精神病院の療養病床の職員配置を換えさえすればそこは「地域の福祉施設だ」という訳のわからない案が、何の前触れもなく、突然「案」として厚生労働省の委員会において出されてきた。僕自身は、地域移行に向けての第一歩は病院内でする必要はなく、ご本人が自分で病院を「終の棲家」に選んだ人以外は、病院から原則的に出て行けるような施策をこそ盛り込むべきだ、と思っている。なので、この「退院支援施設」構想には、反対である。

で、今僕の中で疑問なのは、その是非論だけでなく、なぜこういう施策がやっぱり出てきてしまうか、という点である。なんだか最近感じているのは、これらの施策を実現させるべく動いている人々は、小熊氏の指摘するように、「悪をなしているという自覚のもとに断固として行動」しているとは思えないのだ。そうではなく、「善をなしているという主観」に基づいて、「相手の痛みに対しかぎりなく無感覚的」「無反省的」な政策の実現へと動いているのではないか・・・そんな気がするのだ。私利私欲に走っている、と形での批判をするのは簡単だ。だが、批判される当人が、自分を突き動かす動機が「私利私欲」ではなく、「善意」である、と思っているのならば、この「私利私欲」という批判は、批判される側には「筋違いの批判」と受け止められ、その批判は心には届かない。

僕は面倒くさがりやだし、出来れば無駄なことをはしたくない、と思っている。どうせ何かをするなら、確実に「クリティカルヒット」を狙いたい、というズボラな人間である。何らかのことについて批判をする際も、批判される側に耳を傾けてもらえる内容で話を進め、議論が始まり、結果として当事者の生活の豊かさに結びつくような何かが生まれてきてほしい、と常々思っている。

そうであるとすると、私が「善」であなたは「悪」だ、という論法は、全く得策ではない。相手の「善」を否定したところで、聞く耳を持ってもらえなければ意味はない。それよりは、相手が「善」だと思っている施策が、どういう回路で、どういう歴史的変遷の上に構築されているか、を辿り、どこまでが互いに共有できる「善」で、互いの「善」に対する主観の意見が分かれる分岐点はどこか、を析出する必要がある。そして、その分岐点から、どのように違うポイントを通過して、現時点での相手の「善をなしているという主観」にまでたどり着いたのか、そのポイントの辿り方の何が問題で、どういう所に行き得たのか、今から軌道修正するとしたらどういう方策があり得るのか・・・。こういった「善意の軌道修正」を可能にする道筋をこそ、探さなければならない、と思う。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。